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その1 武石真蔵院板碑と愛宕山古墳

■ 真蔵院と板碑

 


 
加羅山三会寺真蔵院

 806年(大同元年)、興教(こうぎょう)大師による開山と伝えられる。『千葉県千葉郡誌』(1926年)によれば、「千葉常胤の三男武石三郎胤盛、母の菩提を弔いて建久八年(1197年)柳地蔵菩薩を祀って、真蔵院を造営した」。和田茂右衛門1984はこれを中興開山と解する。所在地は武石町一丁目1413番地。幕張、宝幢寺の末寺である。写真、右に板碑が見える。

 1294年(永仁2年)、武石胤盛の母の菩提を追善供養するため、7基の板碑が建立されたという。そのうちのひとつがこれである。高さ2.37mと大きい。建立したのは、1293年(永仁元年)、武石氏を相続した武石三郎胤晴と考えられている(和田1984)。1296年(永仁4年)造立の元箱根の宝篋印塔に「武石四郎左衛門尉宗胤」の銘を残す武石宗胤が建立したという見方もある(さわらび通信のYさん)。千葉県でも三番目に古いものだそうである(以上、和田茂右衛門1984)。

 もともと7基の板碑は須賀原の愛宕山古墳に置かれたが、1752年(宝暦3年)、須賀原が開墾された時、その1基であるこの板碑が真蔵院境内の波切不動の山下に移され、最近になってここ本堂前に移された。

 「千葉ではめずらしい秩父産の緑泥片岩を用いた武蔵型板碑で、表面上部に宝珠と種子阿弥陀院三尊をおおきくやげん彫りにし、その下に、種子光明真言二十四文字と、

右為先妣聖霊出離生死証大菩薩也永仁第二暦季秋卅之天

と印刻してあります」(和田茂右衛門1984)。和田茂右衛門は「鎌倉時代の板碑の内でも良作というべきでしょう」と評している。裏面に「施主常胤」とあるが、これは後世の追刻とのこと。

 

真蔵院の板碑 千葉市指定文化財

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 真蔵院境内にある波切不動堂を見上げる。1259年(正元元年)12月10日、武石胤盛の曾孫、武石新左衛門長胤が建立した。胤盛が守り本尊とした一寸八分の金仏の不動尊が祀られているという。

 

 この不動堂の裏山には羽衣神社がある。武田宗久「千葉市の散歩道」の解説によれば、裏山には天女が舞い降りたと伝える伝説がある。和田1984では、「山下の池」に天女の伝説があるとしている。裏山にはまた愛宕神社の祠がある。天女=千葉常胤の妻=武石三郎胤盛の母であり、下記の愛宕山古墳・板碑の伝承とあわせて、何やら悲しげである。

 なおこの周辺には貝塚が分布する(『貝塚研究4号』参照)。背後の台地上は武石城の南側部分と言われており、その関係の中世の貝塚かもしれない。台地上には段切りにより区画された一画がある。

 

■ 愛宕山古墳 

 伝承によれば、武石三郎胤盛の母親の塚墓である。墳形は方墳か。字「検見川道」、武石2丁目の住宅街の中に残されている。現在真蔵院に保管されている板碑は、1753年(宝暦3年)、この付近一帯、須賀原(スガバラ)が開発されるまで、この愛宕山古墳の頂上にあった。

 ※真蔵院の南南東約750m。幕張駅の東約460m。花見川の旧流路から約140m。海抜5〜6mの平坦地で、旧流路跡(現状)との比高差は3〜4mほどである。愛宕山といもいわれるが、「愛宕権現」から来ていると思われる。昭和28年作成千葉市蔵小字図では、愛宕山古墳が所在するのは字「検見川道」で、字「須賀原」は、「検見川道」の北東隣、花見川沿いの細長い区画であるが、かつて開発前にはこの付近を広く漠然と「須賀原」と呼んでいたのであろう。

「正治年中(1199〜1200)、武石三郎の母(「千葉大系図」では秩父太郎平重弘の娘)、故あって海中に身を投ず。遺体が須賀原に漂着したので葬り祀って愛宕社と称す」(「幕張町誌」大正五年、和田茂右衛門1984より孫引き)

 

「口碑に伝ふ昔治承の頃千葉本城の夫人故ありて身を海中に沈められしが、其遺骸の漁人の網に懸り領主へ訴へ出てたりければ、折節検使として千葉新助胤正来り検するに果して其の人なりければ、嘆泣浅からず此の時其の死骸を本村南なる須賀原愛宕山に葬れり。其後永仁二年七本の石碑を此處に建立せり。然るに其の石も星霜を歴るに従ひて漸く破砕して近年中の一本のみ存せしが、宝暦三酉年須賀原開墾の時彼の不動堂に徒せしなりと。

因に曰く、此時彼の海中に身を沈められし夫人の菩提の為めに、七体の阿弥陀仏を造り庄内七ヶ寺に阿弥陀堂を建立されたり。即ち千葉院内の阿弥陀堂、馬加村の阿弥陀寺の本尊、佐倉海林寺の阿弥陀寺堂、印旛郡坂戸村阿弥陀堂、葛飾即栗原村の満善寺の本尊、上総国武射郡吉橋村の阿弥陀堂、同国市原郡八幡村無両寺の本尊是れなりと」

(『千葉県千葉郡誌』大正15年、旧字は新字に直した)。

●千葉院内の阿弥陀堂

1881年(明治14年)、大火で焼失。そのまま廃寺となった(和田1984:49)。

馬加村の阿弥陀寺
現宝幢寺境内(幕張町2の1003)にあった。1872年(明治5年)、阿弥陀寺は宝幢寺に合併され、宝幢寺が現在の幕張駅北側から阿弥陀寺跡地に移った(和田1984:176)。
 祠の中の石宮には

 正面  愛宕大権現
 右   貞永二
癸巳年三月廿四日
 左   下総国千葉郡武石之里

とある。貞永二癸巳年は1233年

愛宕山古墳には石室があった。石室から出土した遺物は小川良之助氏が保管しているという(以上、和田茂右衛門1984)。信頼できる筋によると、遺物は、直刀、鏃、耳環とのことである。とすると、この塚はもともと古墳時代の古墳である可能性が強い。中世になって、塚(墓)として再利用したものか。

      愛宕山古墳頂上の祠

庚申様(猿田神社)

 字「検見川道」の南端。愛宕山古墳の南にあるが、これも古墳の跡であろうか?愛宕山古墳と古墳群をなしていたのか?あるいは何かほかの関係あるのか?

 画面左側(南西)は字「速塚」(ハヤヅカ)である(和田茂右衛門による。『貝塚研究4号』では遠塚(トオヅカ)とする)。さらに左の道の先、左側は「島塚」(シマヅカ)、「韮塚」(ニラヅカ)、「稲荷山」(トウカンヤマ)の小字名があり、塚群ないし古墳群の存在を思わせる。画面右から背後(東北から東南)の旧花見川沿いには「石藪」「阿弥陀苗代」という小字名がある。右の道を行くと(→武石城・武石台地遠景、武石氏家臣団の居住地と推定される武石台地麓の集落をへて武石城に至る。すなわち「腰巻」をへて「寺台」、真蔵院、さらに「北根台」(武石城推定中心部)に至る。左の道を前進すると、字「二本柳」(釈迦堂跡所在)であり、武石台地の南西、「道城根」(馬加城下)方面に至る。

 (参考)愛宕大権現とは 

 軻遇突智(カグツチ)または軻遇槌命(カグツチノミコト)という防火鎮火の神だそうである。本地垂迹説では愛宕権現の本地仏は、武者装束で白馬にまたがり、出陣する勝軍地蔵であり、従来武家の間で広く尊崇され、各地に勧請され、祀られていたという。

 展示は館内だけじゃない?!(その弐)(川内市歴史資料館)

武石氏 参考サイト)

大久保城より馬加城・武石城方面を見る −花見川水系の歴史歴史的景観

武石・幕張(1)武石胤盛とその母の伝承 (2)動乱期の武石氏 (3)馬加康胤

千葉西部の歴史的景観 ―花見川水系の城郭群

花見川水系の歴史的景観

| お 大久保城(浪花橋より)  |大久保物見(櫓台)(花見川河口より)|と 殿山城 |ま 大久保城 より馬加城・武石城方面を見る

真蔵院板碑と愛宕山古墳(ここ)
武石城・武石台地遠景 −花見川水系の歴史的景観 武石・幕張年表
主要参考文献 −検見川・幕張・武石の歴史 
 
 
(本文での出典は原則として著者名+発表年によります。より詳しい出典の情報はこちらをご参照ください。)
1/25,000地形図:

千葉西部(北東)

国土地理院の試験運用ページ。地形図閲覧システムの利用規定に注意。閲覧以外の利用はできません。大久保城は「浪花町」の文字の左付近。その物見の位置は北緯35度39分31秒,東経140度3分49秒。殿山城は「東京大学総合運動場」の北。武石城は「武石一丁目」の「武」の字付近。

 

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