千葉市 歴史年表(武石・幕張関係)

西暦(和暦) 千葉付近のできごと 日本史全般
709年(和銅2年)  行基が海上山歓喜院千葉寺建立との伝承

 4月、行基が花島で桜の木をもって十一面観音を刻み一宇を建立。雲谷山天福寺(のち花島山天福寺と改称)。

 
757年天平宝字1年  大日寺、創建?  
774年(宝亀5年)  検見川、覚王山広徳院中山寺、創建。本尊は大日如来。  
806年(大同1年)  

 宝幢寺、宥恵により現幕張駅北側付近に創建される。本尊、如意輪観音。明治5年に幕張町2の1003の現在地に移転。

 武石、真蔵院、興教(こうぎょう)大師により開山。宝幢寺の末寺。本尊、柳地蔵菩薩。興教大師、羽衣神社も造営。

 
808年(大同3年) 5月晦日、浅間神社、小中台シロヤマに勧請される。のち稲毛に移される(稲毛浅間神社)。  
889年 寛平1年   桓武天皇曾孫高望王、平姓を賜る。上総介に任ぜられ、関東に下向。  
932年(承平2年)  11月、平良文、常陸国に兵を進めんとして、鎌倉稲村ガ崎より乗船して結城が浦に上陸せんとせしも、馬加(花見川河口)に上陸(当時は花見川に沿って武石地先まで入江になっていた?和田茂右衛門1984、原出典「千葉氏増田系譜」)  
934年(承平4年)  嵯峨天皇に奉仕せる五位蔵人の後胤、兵部少輔平春続、下総葛飾原(検見川)に嵯峨神社(八坂神社、現、検見川神社)創建。  
935年(承平5年) 平将門の乱、起こる。  
940年
天慶3年
平将門、敗死。  
1000年(長保2年)  覚算、北斗山金剛授寺(現千葉神
社)開基。
 
     
1020年(寛仁4年)  
 前上総介菅原孝標、いかた・くろとを通過(更級
日記)
 
1028年(万寿5年)   平忠常の乱(―1031年、長元4年)。大椎城[お
おじ](緑区大椎町)は忠常の城との伝承(戦国時
代の土気酒井氏の出城という説が最近は有力。)
 
1118年 元永1年   「先祖千葉大夫、元永以後、為当庄検非違使所」(『吾妻鏡』)。   
12世紀初め     千葉庄、成立。八条院領。庄官として千葉氏が定着。土気地区をのぞく現在の千葉市の範囲にほぼ相当。  
1127年 大治2年   7月16日、千葉御神事はじまる。
この頃、千葉氏、千葉を本拠とする(『千学集抄』)。この年、千葉氏が大椎城から千葉猪鼻城に移ったとの説は、最近では疑問視されている。
 
1170年(嘉応2年)  葭川[よしかわ]水源地(千葉市若葉区みつわ台5丁目、都賀の台付近)に、紅嶽(べにたけ)弁財天、創立.。千葉常胤が夢で弁財天を見たとの伝説。  
1171年(承安元年) 11月15日、千葉常胤、三男の胤盛を武石村に居住させる。武石三郎胤盛と称す(『千葉伝考記』等)
1180年(治承4年)  8月、源頼朝、相模国石橋山の合戦で平家方に破
れ、安房へ逃れる。
 9月、源頼朝が上総から下総に向かう。常胤、頼朝を迎えに下総国境へ。千葉常胤の孫、加曽利冠者成胤、祖母(胤正の母)の葬儀のため、千葉に残る。千田荘(千葉県多古町)判官藤原親正、一千余騎を率いて出陣。千葉の堀込に押し寄せて、堀之内に放火。成胤、千葉館西の結城浜(千葉市中央区寒川町付近)で防戦、撃退。親政を生け捕る。城浜合戦。
 9月20日、源頼朝、千葉妙見に参詣?
 
1182年(養和2年) 8月18日、源頼朝の嫡男、頼家の七夜の儀。一切を千葉常胤、妻、6人の子息が取り仕切る。「七夜の儀、千葉介常胤これを沙汰す。常胤子息六人を相具して侍の上に著く。父子白水水干を装ひ、胤正の母秩父太郎重弘女をもって御前の陪膳となす。又進物あり、嫡男胤正、次男師常御甲を舁ぐ。三男胤盛、四男胤信御馬鞍を置くを引く。五男胤道御弓箭持ち、六男胤頼御剣を役し、各庭上に列す。兄弟皆容疑神妙の壮士なり。武衛、殊にこれを感ぜしめ給ふ、諸人又壮観と為す」 (『吾妻鏡』養和ニ年八月十八日條)
1183年(寿永2年)  上総広常、能常父子、源頼朝に誅殺される。

※上総氏は両総平氏の長であり、千葉氏をはるかに凌ぐ勢力であった。こののち上総氏は千葉常胤の孫常秀が継承した(上総千葉氏)。 

 
1185年
(寿永4年元暦1年)
 千葉常胤、下総国守護となる(吾妻鏡)  
1187年(文治3年)  畠山重忠(秩父太郎重弘の重能の次子、常胤の妻の甥、1164-1205)、部下の不正により所領を没収され、監禁される。
1194年(建久5年)  千葉常胤四男、大須賀四郎胤信、縫坂に須加天王社(現子守神社)造営。1508年(永正5年)に幕張2丁目の現在地に奉還。  
1197年(建久8年)  「千葉常胤の三男、武石三郎胤盛、母の菩提を弔いて」真蔵院を造営。  
1199年(正治1年)  頼朝、死去。
1199〜1200(正治)  「正治年中、武石三郎胤盛の母(「千葉大系図」では秩父太郎平重弘の娘)、故あって海中に身を投ず。遺体が須賀原に漂着したので葬り祀って愛宕社と称す。」(「幕張町誌」)  
1202年(建仁2年)  胤盛、郷中安全の守護神として明神を勧請、明神神社を創建。のち1501年(文亀1年)、三代王神社と改める。  
1205年(元久2年)  6月22日、畠山重忠(常胤の妻の兄弟)、北条時政に謀られて相模二俣川鶴ヶ峯(横浜市)で戦死。
1215年(建保3年)  6月13日、武石三郎左衛門尉胤盛、卒す。年70。(「千葉大系図」)  
1227年(嘉禄3年)  松島寺の鐘銘に武石胤重の名。
1233年(貞永2年・天福1年)  武石2丁目愛宕社石宮に「貞永二年武石之里」の銘。

 天福元年、7月20日、結城船、始まる(「千学集」)。

 
鎌倉中期  寺山郷「百姓橘重光」が「名主寺山殿」の非法を千葉氏に訴える(中山法華経寺所蔵「天台肝要文」紙背文書1号)。石井進氏は寺山殿の居館 を動物公園付近と推定。★参照、石井進「たたみなす風景5 中世荘園行 下総国寺山郷」 『みすず』396号1994年20-28頁。  
1259年(正元1年)  武石三郎胤盛の曾孫(千葉常胤四世)、武石新左衛門尉長胤、波切不動堂建立。  
1261〜4年(弘長)  武石小次郎入道長胤、長胤寺を建立。「天文年間七里法華弘通の師日泰上人の法孫日伝上人に帰依し、元禄十四年(1701年)日蓮宗に改修した」(和田茂右衛門)。  
1262年(弘長2年)  武石新左衛門小次郎長胤、長作を領す。(「千葉大系図」)  
1271年(文永8年)   千葉頼胤、肥前へ下向。   
1276年(建治2年)   千葉宗胤、九州へ下向。 
 千葉貞胤、来迎寺、開山
 
1284年(弘安7年)   大日寺、松戸馬橋より千葉に移転?   
1287年(弘安10年)  千葉宗胤、父、元寇の戦没者を供養するため宗胤寺、建立か。
1289年(正応2年)  貞成上人により金光院が創建される。金光院にこの年の銘のある板碑。 2月、金親町金光院、板碑。  
1294年(永仁2年) 8月14日、武石三郎左衛門尉胤清、武石氏を相続。9月30日、胤晴、愛宕山古墳に7基の板碑を建立(武石宗胤説もある)。  
1296年(永仁4年)  この年造立の元箱根の宝篋印塔に「武石四郎左衛門尉宗胤」の銘。
1300年(永仁6年)  素加天王社造営(改築)。  
1327年 嘉暦2年   千葉貞胤、東禅寺(曹洞宗)を建立。 
1334年
建武1年
廿五里[つうへいじ]城址、この年「建武元年」の紀年銘のある板碑がモノレール建設に伴う調査で出土[1983年]。14世紀前半には廿五里城址南縁の墓域が成立か?

1335年
建武2年
 1月、相馬親胤・千田胤貞、「千葉館(楯)」を攻撃。この記事は千葉城の記事の初出。「千葉楯」は、最近では、猪鼻城のことでなく、現在の千葉地方裁判所敷地(古名、「御殿」)にあった低地の方形館とする説が有力である。
1336年
建武3年、延元1年
 10月11日、千葉貞胤、南朝方の新田義貞に従ってきたが、越前木目峠で雪中行軍。遭難しかかり、北朝方に降伏。以後、北朝方となる(『太平記』)。 
1338年(暦応元年)  武石高広、北畠顕家軍に参加。足利方の高師泰と戦い阿倍野で討死。
1379年 康暦元年   千葉満胤、日蓮宗に帰依。本円寺(日什門流)を建立。 
1410年
応永17年

 寺山新兵衛入道、寺山五兵衛入道、木内五郎左衛門が寺山に所領、平新左衛門と原越前入道が、長峯・ 高篠(高品)・原に所領、との記録(『香取造営料足納帳』)(高篠の地名の初出)。
1416年
応永23年

 上杉禅秀の乱。関東管領上杉禅秀(氏憲)、千葉兼胤ら鎌倉公方足利持氏に反する。
1426年(応永33年)  6月8日、千葉満胤没。64歳(千野原)。「平満胤弥阿弥陀仏 応永三十二九月十三」(来迎寺五輪塔)。  
1430年(永享2年)  6月17日、千葉兼胤、鎌倉にて没。39歳。千葉宗家は胤直が継ぐ。胤直当時12歳(16歳)。  
1438年
永享10年
 6月、持氏の嫡子賢王丸元服。持氏は将軍の名の一字拝領の慣例を無視して「義久」と名づける。持氏と上杉憲実対立、決定的。8月14日、憲実、上野へ。15日、持氏、憲実追討軍を派遣。永享の乱勃発。8月28日、室町幕府、鎌倉公方足利持氏の討伐を命ずる。鎌倉公方対関東管領上杉(&室町将軍家) の対立。9月、千葉胤直、持氏に従い出陣。9月29日、胤直、持氏に上杉憲実との和睦を諌言するも容れられず退陣。
1439年(永享11年)  2月10日、憲実、胤直ら2000余の兵に命じて、持氏のいる永安寺を包囲させる。持氏、自刃。42歳。武石日向守胤秀らも戦死。
1440年(永享12年)  3月4日、持氏の遺児安王丸、春王丸、常陸中郡庄木所城で挙兵。21日、結城城に入る。奥州・北関東の豪族が結集。結城合戦勃発。4月、千葉胤直、馬加康胤らを率い、結城城南方へ出陣。
1441年(嘉吉元年)  4月16日、結城城陥落。結城合戦終了。
1445年(文安2年)  馬加康胤、妻の無事安産を幕張海岸で祈願。武石明神(現、三代王神社、祭神天種子命)が枕元に現れ、「我は安産の守護神なり、守護すべし」と告げたとの伝説。無事出産。磯辺で大祭を執行。領内各村、祭馬を引き揃えて参会。三山(みやま、船橋市二宮神社)の七年祭の起源。

山内上杉家家督清方、没。憲実の子、龍王丸が家督を継承、憲忠と名乗る。

1446年(文安3年)  康胤、武石明神(三代王神社)、造営。家臣小川釆女を祭司とする。
1447年(文安4年)  3月、幕府、持氏の末子万寿王の関東公方就任を認める。8月、万寿王、鎌倉に帰還。7月、上杉憲忠(憲実の子)、関東管領就任。11月憲実、伊豆に隠退。
1449年(文安6年)  正月、持氏の末子万寿王、元服して成氏となる。4月、義政、8代将軍となる。同月、成氏、関東公方となる。「千葉新介(胤将)は父は持氏へ不忠ありしかとも、同名陸奥守(馬加康胤)かすすめにより成氏の味方と成て色々上杉の妨、振権威ける」(鎌倉大草子)。
1451年(宝徳3年)  円城寺氏と原氏が私戦。このため千葉神社焼失。

 竹下水神社造営。「百姓共領主屋形へ願上、田地用水溝河を掘来、用水為守護石祠を建、社地三十坪。」(素加天王社」)

1452年(享徳1年)  須加天王三社のひとつ、幕張大明神を造営に際し、「馬加大明神」と改名。里名を「馬加」と改める。
1454年(享徳3年)  馬加康胤、素加天王社造営(改築)。
1455年
(享徳4年/康正1年)
 正月、馬加康胤、数度落馬.屋形大手に道城根社を建立。(「素加天王社」)

 馬加村須賀本郷の町屋より出火。百余人の焼死者を出す。康胤が火元家族三人を火あぶりの刑に処す。処刑場より北に向かい、毎夜火の玉が飛ぶ。処刑場(字二本柳俗称「ハッケ場」)の跡に釈迦堂を建立、処刑された人々の菩提を弔った。(「素加天王社」)

 3月、第六天神、造営。「屋形主康胤海上通船無難為願祭之」。
 3月(6月6日)、公方側の原胤房(千葉家の有力家老)が管領側千葉宗家の千葉城を攻撃。千葉介胤直、その子胤宣は、香取郡多古に逃げ、志摩城、多古城に拠る。

馬加康胤父子は多古城を攻撃。原胤房は島城を包囲。4月8日、将軍義政、胤直に太刀を恩賞として与える旨御教書を発する。同日、駿河守護今川範忠を関東へ派遣。5月8日、上杉房顕、常陸国山内衆に胤直への援軍を督促。

6月16日、今川軍は、相模で成氏党の木戸・大森・印東氏らを撃破。鎌倉に進攻して御所を焼き払う。このため足利成氏、古河に拠り、古河公方となる。

8月12日、千葉宣胤、開城を決意.多古城外「むさといふ所」の阿弥陀堂に移り切腹。8月14日、島城陥落。15日、胤直、妙光寺で切腹。9月7日、胤直舎弟千葉胤賢入道了心、小堤(山武郡横芝町)にて自刃。
 美濃郡上郡山田庄の東常縁(千葉氏の一族)、将軍義政より「馬加陸奥守を令退治、実胤を千葉へ移し可申由」との御教書をうけて下総に下る。

11月13日、原左衛門朗珍・右京亮朗嶺兄弟、「東方ニテ打死」。東常縁と交戦か。原胤房、馬加に逃れる。24日、常縁は国分、大須賀、相馬らを従えて馬加城攻撃。康胤・胤房ら千葉へ敗走。

11月25日、千葉実胤・自胤、原氏の拠点、今嶋田正行寺を攻める。原氏方の日心、戦死。12月3日、足利成氏、武蔵埼西城を攻撃させる。

1456年 (享徳5年/康正2年)  正月、成氏、千葉胤賢の遺児、実胤・自胤の拠る市川城を攻撃させる。「数度合戦」して19日落城。「実胤は武州石浜に落行、自胤は武州赤塚へ移る」。

 「東野州常縁と馬加陸奥守並岩橋輔胤と於所々合戦止隙なし」(「鎌倉大草子」)。4月、東常縁、千葉城攻撃。「四月十一日、千葉城ニ押寄、稲麻竹葺に取囲む、揉に揉ンて責動す。康胤父子防戦ふといへ供兎角不叶、馬に飛び乗り南をさして逃走」(「素加天王社」)6月12日、康胤父子「詮方なく、上総国八幡の林の景に立隠れ、父子ともに討ち死にせられける。(「素加天王社」)
10月25日、同日付け、「平輔胤」の安堵状。
11月1日、上総八幡郷で、馬加康胤を討つ。康胤59歳(83歳)。 康胤の首は京都に送られ東寺四塚にさらされた(千野原)。

 康胤の家臣で三代王神社祭司の小川釆女、討死。その他康胤の家臣は、名字官名を捨て、郷侍あるいは百姓となり、付近の村々、海岸近くに移り住み、これを「馬加郷新間宿」と名づける。(和田茂右衛門1984年)

1457年 康正3年/長元元年 6月12日康胤の長子、胤持、没。22歳。6-11月、輔胤が馬加家の家督を継ぐ。輔胤、子息孝胤を千葉城に置き、自らは本佐倉城を取り立てて移住。

7月16日、幕府、正知を関東公方とすることを決定。

この年、上杉方により川越城・岩付城・江戸城が築城される。12月、正知、京を立つ。

1457年 長元2年 5月下旬〜8月上旬、正知、鎌倉に入らず、伊豆堀越(韮山町)に居館を構える(堀越公方の成立)。
1460-65年頃(寛正1-6年)  原胤親の子、光胤が下総国原村(千葉市若葉区原城の可能性?)に居住との記事(『千葉実録』)。
1463年(寛正4年)  火の玉が飛び、念仏堂建立。
1467年(応仁1年) 1月8日、千葉妙見社焼失。1月18日、応仁の乱、勃発。
1468年(応仁2年)  「屋形[馬加康胤]の家臣共討死せし人の霊祭供養を応仁二戊子年に西の浜辺に執行、此所を大須加山[大須賀山、堂ノ山]といふ。」(素加天王社)
1469年 (応仁3年)   東常縁、下総より京都への帰洛の途につく。
1471年 (文明3年)   「原越後入道道喜(胤房)、小弓館ニテ打死」(『本土寺過去帳』) 
 古河公方足利成氏、千葉孝胤を頼る(「千葉御動座」)。翌年、古河に戻る。
1481年(文明13年)  寒川神社、奥殿の御神体「獅子頭」にこの年の朱墨銘。この獅子頭については、猟師の網にかかったんで、神明社に奉納したところ、沖合いの船の沈没が相次ぎ、神殿の下に石室を築造しこれを封じて納めたところ、事故がなくなった、という伝説あり。(和田1984)
1484年(文明16年)  6月3日、千葉宗家、「佐倉の地をとらせらる」(『千学集抄』)。平山城をへて本佐倉城(酒々井町本佐倉)に本拠を移す。(実際は。1469-86頃か?)北年貢道(千葉−臼井・本佐倉、主要地方道千葉佐倉印西線にほぼ該当)の意義増大。千葉庄は小弓の原氏の支配下に入った。
1486年
文明18年

 太田道灌が上杉定正に暗殺される。
1485年 明応4年   伊勢宗端(北条早雲)(1432-1519)、小田原城を奪取。
1490年(延徳2年)   千葉宗胤(?)、宗胤寺(もと千葉地裁西側、現在、弁天町)を建立との伝承。6月8日、本佐倉城、「市の立ちはじめ」。8月12日、「御町の立はしめ也」。
1501年(文亀1年)  武石明神、社号を「三代王神社」に改める。のち社務は馬加の素加神社(現子守神社)の神主が兼務。
1504-21年(永正年間) 中須加左京平胤光「素加天王社記」撰著。
1505年(永正2年 )  11月15日(満月の日)、本佐倉城の千葉昌胤(1495〜1546年)、高品(当時は高篠)から千葉妙見宮(千葉神社)に参詣。元服。
*本佐倉移転後も、千葉宗家は嫡男の元服を千葉妙見宮に参詣して行うことを例とした。この 際、高品(城)を一時的居所とした
1506年(永正3年)   「原蔵人丞殿法名郎寿 東六郎殿証仏果 永正三丙子八月 千葉井花ニテ打死諸人同」(『本土寺過去帳』)「永正三年」は「永正十三年」(1516年)の誤記か?)
1508年(永正5年) 9月18日、縫坂の須加天王社(1194年創建、現子守神社)が、幕張2丁目の現在地に奉還される。
1509年(永正6年)  素加天王社、造営。柴屋軒宗長、原氏小弓館を来訪。浜野を宿舎とする。千葉妙見宮の祭礼を見物。けみ川に一宿する。0000
1511年(永正8年)  西光院(千葉市若葉区貝塚)で、この年を刻む板碑出土。現在、智光院蔵。
1514年(永正11年)
佐倉城下で『雲玉和歌集』、編纂。幡谷加賀守の歌、掲載される。
1516年 永正13年   8月、三上の乱。三上但馬守(三上佐々木氏、上総真名城主?)、千葉を襲う(扇谷上杉朝良の指令?)。猪鼻城落城か。 
「一條院薄墨の御証文は、範覚〔金剛授寺・千葉神社の従持〕の世に井の鼻を持たれし時、永正十三年丙子八月二十三日三上但馬守二千余騎にて押寄せて打落とす。此の時薄墨の御証文は寶器とともに皆失せにけり。天正十年壬午まで六十六年也。」「忠常開基の後、常胤の御判は御縁記引きつけ御文書不入の状、一條院の薄隅の御証文は三上の乱に猪鼻にて失せにけり。」(『千学集抄』)
 11月、北条早雲、藻原の妙光寺(茂原市)へ制礼。

1517年
永正14年

 10月、真里谷城主武田信康、早雲衆の助力をえて原胤隆の小弓城を攻略。

 10月、三上佐々木氏の三上城=真名城落城か?(北条早雲攻撃?)
1518年
永正15年
 古河公方足利高基と対立した弟、足利義明、 上総武田氏に招かれ、小弓に御座所を定める(小弓御所)。本佐倉の千葉氏に敵対。「その時範覚小弓に御神を移さる」 
1520年 永正17年   小弓公方方里見義通(よしみち)、本佐倉城近くの「田井・横山・小沢要害」を攻め、「蕨」(四街道和良比堀込城か?)に帰陣(6月18日「道哲書状写」)。
1523年(大永3年)
 足利義明、千葉へ侵攻。千葉利胤、千葉妙見宮で元服できず。
1526年(大永6年)  武石、里見家の家臣として鎌倉で戦う。里見家百人衆の中に五十石、武石庄左衛門という人物あり。
1532-55(天文年間)  千葉胤富、一時、馬加に居住か。
1538年
天文7年

 10月7日、第一次国府台合戦。北条氏康・氏綱と里見 義堯・足利義明連合軍とが戦う。義明、敗死。武石蔵人胤親、義明方として参戦するも討ち死に(胤親―胤康(布施家継承)―布施正光)。武石有胤、里見義尭の「四天王」として従軍し、戦死。原氏、小弓城に復帰。小弓城の北方1.5kに生実城を築城(従来の通説)。
 ○ この頃より下総の大半は北条氏の傘下に入る。
1547年
天文16年

 千葉妙見遷宮。
1551年 天文20年  金親町中原の金光院が火災にあう。原胤清が山林20町歩を寄進。金光院再建され、金親町の現在地に移る。 
1555年
弘治1年
 10月10日、上総小田喜城主、正木大膳亮時茂、「千葉へ乱入、宿中放火」。このため千葉親胤、予定していた元服の儀を日延べとし、12月23日、千葉妙見宮で元服。
1557年
弘治3年
 8月、第三次川中島の戦い。
1560年
永禄3年
 5月19日、桶狭間の合戦。

 里見方、上総勝浦城主、正木時忠が、香取郡小見川富田台に着陣。10月24日、千葉胤富が「寺山城」(外山信司氏は廿五里城と推定)在番の大須賀薩摩丸(大須賀政朝?)に出陣を要請。正木時忠「下総悉本意候者」。薩摩丸敗退か?
 北条氏康、原らの軍勢を率い、久留里城を包囲。 里見義堯、長尾景虎(上杉謙信)に救援要請。

1561年
永禄4年
 3月、長尾景虎(上杉謙信)、北条氏の小田原城を包囲。閏3月、関東管領上杉家を継ぐ。里見方、正木時茂、原氏の臼井城・生実城を陥落させる。
1564年
永禄7年
 1月9日、第二次国府台合戦。里見義弘敗走。武石胤康(浪人後、稲毛浅間神社神主、布施家を継承)の子、布施正光(修理)は北条側の部将・佐貫伊賀守を馬上から射落とすが、戦死。原胤貞、臼井城・生実城を回復。布施正光の弟、武石弥三郎は原胤栄のとりなしで、布施平三を称し、子孫は現代にいたる。
1565年
永禄8年
  2月12日、北条氏政、原胤貞らに酒井胤治の土気城を包囲させる。胤治、土気城に籠城。東金酒井氏は北条側につき、同族相争う。上杉謙信に救援要請。6月、胤治、里見につく(上杉より里見に書状)。11月、謙信、関東に出陣。9月18日、正木時忠、府馬、森山勢三千を率い、木内右馬介の守る米野井城(蛇蜂城)を包囲。20日突入。「木内式部太郎胤倫は、血路を開いて寺山城(千葉市東寺山または西寺山)にのがれた。」千葉胤富、大須賀氏、円城寺氏に反撃を指令。木内胤統、大須賀尾張守とともに、富田台(小見川富田)に出陣、府馬、森山勢と戦う。「府馬、森山勢は敗走した。正木勢は、米野井城を捨てて、房州へ逃れた。しかし、城は焼かれていたので、胤統は千葉の寺山城に移った。」(勝又清和「千葉家の北条派、反北条派の葛藤」、房総歴史文学会編『戦国の房総を語る』1985年暁印書店75-6頁。*いかなる資料に依拠しているか、不明。)
1566年
永禄9年
 上杉謙信、原胤貞の臼井城を包囲。里見勢北進。この頃、蕨[わらび]城(四街道市和良比)は里見方の中継基地として機能していた。正木氏、曽我野にて大戦。原胤貞敗走。
1568年
永禄11年
 9月、信長、上洛。10月足利義昭を将軍とする。
1569年
永禄12年
 里見勢が「臼井筋の郷村」(高品、原、東寺山?)に放火。里見方、生実城近くに城を築城。
1570年
元亀1年
 6月、生実城落城。原胤栄、生実城を捨て、以後、臼井城を本拠とする?
16世紀後半  高品城、大規模な改修・整備。
 廿五里城、南縁の墓域部分に土塁などの城郭施設を建設。
1571年
元亀2年

 安藤勘解由(高品城在番の千葉家直臣か)および高篠念仏衆 が高品等覚寺薬師如来像を造立。 
6月、里見氏、両総西筋の窪田山に築城。

8月、北条氏政、胤富の要請を受け、生実近辺へ派兵。

9月2日、北条氏、本行寺(浜野)に禁制。

 11月、里見義弘が小弓を占領。千葉胤富の軍と合戦。嫡男邦胤、千葉妙見宮で元服できず。
9月12日、信長、比叡山延暦寺を焼き討ち。
1573年
天正1年
信長、足利義昭を追放する。室町幕府滅亡。
1574年
天正2年
 3月、原胤栄、臼井城へ移る?
1575年(天正3年)
 5月21日、長篠の合戦。
1576年
天正4年
 織田信長、安土城築城。
1577年
天正5年

1月、小田喜正木憲時、上杉謙信に関東出陣を要請。2月、里見義弘、上杉謙信に関東出陣を要請。5月、原胤栄、生実大厳寺の寺領を安堵。 

北条氏、上総に侵入。土気酒井氏、北条につく。
1578年
天正6年

 3月13日、上杉謙信、病死(49歳)。?里見義弘没(54または49歳)。
1582年
天正10年
 当時、武石の地は、千葉宗家の領。代官、角田将監、竹内監物。
 6月2日、本能寺の変。
1589年
天正17年

 11月、豊臣秀吉、北条氏討伐を決意。北条氏直に宣戦布告。

 氏直、分国内諸軍に小田原参陣を命ず。千葉重胤ら湯本口の防備につく。
1590年
天正18年
 6月6日、原胤栄、没(野田十文字で戦死説あり)。 

 7月5日、北条氏、豊臣秀吉に降伏。7月13日、秀吉、関東を家康に与える。別働隊により、 房総の北条方の諸城落城。高品城、廿五里城も機能停止か?
 8月1日、徳川家康、江戸城に入る。房総に家臣を配置。里見義康は、秀吉への参陣が遅れ、上総下総の領地を没収され、領地は安房一国(9万2千石)となる。12月、原胤栄、徳川家臣・酒井家次と野田十文字野で戦い戦死か?(39歳)。
天正十九(1591)年  武石有胤の子・山城、里見家の家臣として丸本郷の代官となる。  
1593年 文禄2年   大久保忠隣、徳川秀忠の家老となる。 
1594年 文禄3年   大久保忠隣、家督を継ぎ、小田原6万5千石を領す。
1600年 慶長5年   9月、関が原の戦い 
1619年(元和5年)  武石、江戸南町奉行組与力給地となる。
1633年(寛永10年)  堂の山、五輪塔建立。
1644年(寛永21年)  9月、千葉家の末孫、登戸権之介平定胤(1617−1649?)が祖先供養のため白蛇山真光院定胤寺を創建。別殿に妙見を祭る(現、登渡神社、通称「登戸の妙見様」)。
1660年(万治3年)  8月、仙台藩主伊達綱宗、不行跡のため幕府に隠居を命じられる。嫡男亀千代が継ぐが2歳のため、幕府は伊達宗勝(兵部少輔、正宗の子)と田村宗良(隠岐守)を後見とした。(伊達宗重(涌谷伊達家2代、武石氏23代)、意見を具申。寛文事件・伊達騒動の発端)
1665年(寛文5年)  宗重と伊達宗倫(式部、田村宗良の弟)との間で領地紛争勃発。
1670年(寛文10年)  12月、宗重、幕府に訴状を送る。
1671年(寛文11年)  3月27日、酒井忠清邸にて、宗重、原田宗輔(甲斐、国老)ら関係者が集められ、尋問される。原田宗輔(甲斐、国老)、背後より宗重に切りつける。宗重、絶命。原田も酒井家家臣に討ち取られる。 4月3日、幕府、宗勝、宗良の後見職を解任し、宗勝は土佐に流罪。宗良は閉門。原田家は断絶とする。仙台藩62万石はおとがめなし。(寛文事件・伊達騒動、終結)
1732年(享保17年) 閏11月2日、三代王神社の本殿、拝殿を再建。
1753年(宝暦3年)  武石、須賀原(検地帖では殿林跡)の荒地、開墾される。当時、与力楯沢弥一郎、加藤又左衛門の支配地。

 須賀原の愛宕山の板碑が真蔵院に移される。

1756年(宝暦6年)  武石胤盛十三世の末裔・武石山城守の五世の末孫・武石勝左衛門胤清が武石神社に諸宝を献納。
1757年(宝暦7年) 8月18日、三代王神社氏子は馬加康胤を思い出し、小川釆女の子孫(小川良之助氏先祖)を起用、同社の神主とする。(和田1984)
1940年(昭和15年)  11月10日武石胤興(豊次)(胤清から六世の孫、上総国君津郡湊町(千葉県君津郡湊町)に住居)、武石神社に新たに鳥居と社を建立。石碑を建てる。

 

和暦変換サイト(「本の街 神田」)

主要参考文献 −検見川・幕張・武石の歴史

武石氏略系図

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