●武石氏

 千葉常胤の三男、武石三郎胤盛は、下総武石に居館を構えたようだが、東北の伊具・亘理・行方郡三郡の地頭職を継承したほか、信濃にも所領をもっていたようである。『吾妻鑑』には武石姓が散見され、鎌倉幕府に武石氏の諸代が出仕していたことがわかる(和田1984)。(参考 武石氏略系図

 武石氏名字の地であるこの下総国武石における武石氏の支配がいつまで存続したか、はっきりしない。1439年、永享の乱では、足利持氏方として武石日向守胤秀が鎌倉で戦死している。同じ武石台地の西側の馬加城に馬加康胤が居たころは、馬加氏と武石氏・武石之里との関係はどうだったのであろうか?胤秀が戦死し、武石氏の勢力が衰退したその機に、馬加康胤が武石台地に入りこんだ。武石氏は康胤によって武石郷を追われたか臣従させられた。康胤の死とともに武石氏の支配が復帰。だからこそ戦国期には、康胤系の佐倉千葉氏・原氏ラインにつかず、その対抗ラインである小弓公方・里見ラインについた、と想像したくなる。小弓公方方として国府台合戦で戦死したという武石胤親とその家臣の古跡が武石の地に残ることから、1538年の国府台合戦までは武石氏の支配は存続していた可能性がある。胤親の孫の正光は母方の布施家の養子となり、また1564年国府台合戦で里見方として討死をしていること、未確認ながら、天文年間(1532−55年)に千葉胤富が馬加に滞在したらしいことを考慮すると、胤盛の戦死から遠くない時期に武石氏の支配は(ふたたび?)断絶したのではないか。1582年には武石の地は、北条方の千葉宗家の領地となり、代官が置かれていたという記録がある。

(その後の武石氏諸流)
 ○武石胤盛嫡流・・・浪人後、稲毛浅間神社の神主・布施家の婿養子となり、「布施」の姓を称して現在に至っている。同家には武石氏の系図なども保管されているようである。

 ○里見家家臣の武石氏・・・・武石氏の一流は、里見家の家来として江戸時代初期まで名跡を守っていたようだが、里見家移封・廃絶を機に帰農し、武士としての活動を終えたようである。

 ○奥州武石氏・・・・武石氏諸流のなかで歴史上もっとも繁栄したのが奥州に移った武石氏であろう。亘理を名字としたが、やがて伊達氏の傘下に入り伊達氏と姻戚を重ねて、伊達姓を拝領して伊達一門に列せられ、涌谷8000石の領主として幕末まで続いた。伊達騒動で有名な涌谷藩2代目当主伊達安芸守宗重は、武石氏23代にあたる。宗重は本藩の幼君伊達亀千代の後見伊達兵部宗勝の専横に対抗し、幕府にその非を訴え出たが、1671年3月27日、江戸酒井忠清邸で尋問のために控えていたところ、伊達兵部の一派原田甲斐に切り付けられ絶命した。

 ○信州武石氏・・・・長野県小県郡武石村にその足跡を残す。地名のほか「武石平胤盛」の石柱(子壇嶺〔こまゆみね〕神社)、妙見寺など足跡ははっきり残っているが、室町期にその支配は断絶したようである(さわらび通信「13.仏岩に結縁した人々と信濃武石氏の足跡を追って」「新ならしの散策 No 14」参照)。

(以上、全体としては千葉氏の一族参照)

 ※「武石」は現在、行政上「タケイシ」と読む。しかしもともとは「タケシ」であり、地元の旧住民は今も「タケシ」と発音するそうである。なお鎌倉時代に城郭があったとするのは、考えにくことだが、いずれにしろ、存続時期などをふくめ武石城(または館)の実体は不明なので、ここでは便宜上、従来どおり「武石城」として表記する。

武石氏略系図

(武石氏 参考サイト) 

さわらび通信 武石(千葉市)羽衣・三代王神社のオビシャ
忍性のたどった風景のとくに
13.仏岩に結縁した人々と信濃武石氏の足跡を追って
千葉氏の一族  武石氏 〜忠臣・伊達安芸の祖〜

武石・幕張(1)武石胤盛とその母の伝承 (2)動乱期の武石氏 

 武石真蔵院板碑と愛宕山古墳 −武石之里を歩く その1−へもどる

武石城・武石台地遠景 −花見川水系の歴史的景観

大久保城より馬加城・武石城方面を見る −花見川水系の歴史歴史的景観

 

千葉西部の歴史的景観 ―花見川水系の城郭群

花見川水系の歴史的景観

| お 大久保城(浪花橋より)  |大久保物見(櫓台)(花見川河口より)|と 殿山城 |ま 大久保城 より馬加城・武石城方面を見る

武石之里を歩く その1 武石真蔵院板碑と愛宕山古墳
主要参考文献 −検見川・幕張・武石の歴史  
 
 
(本文での出典は原則として著者名+発表年によります。より詳しい出典の情報はこちらをご参照ください。)
1/25,000地形図:

千葉西部(北東)

国土地理院の試験運用ページ。地形図閲覧システムの利用規定に注意。閲覧以外の利用はできません。大久保城は「浪花町」の文字の左付近。その物見の位置は北緯35度39分31秒,東経140度3分49秒。殿山城は「東京大学総合運動場」の北。武石城は「武石一丁目」の「武石」の字付近。

 

△このページの最初へ

本館メニューへもどる

新館トップ  


| 本館トップメニュー |新館トップメニュー
| ごあいさつ| 掲示板 / 旧掲示板| | 活動記録(遺跡めぐり以外)|  
お知らせ・イベント情報|
利用上の注意|| リンク集  |


千葉市の遺跡を歩く会
COPYRIGHT 2000
aruke

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送