大貝塚シリーズ |
2002年7月21日(日)
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― 花見川左岸の遺跡をあるく ー
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■コース(10:00-12:30) さつきが丘公民館(集合・説明)→犢橋貝塚(国指定史跡、字草原)→陣屋台(古墳群)→陣屋南遺跡→上鶴牧遺跡→殿山遺跡(殿山城跡、東大農学部付属植物実験所)→東大総合運動場西門→ハス池→中谷遺跡→中鶴牧遺跡→落合遺跡(大賀ハス発掘地点)→鶴牧遺跡→正門(解散) ●参考
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犢橋貝塚(さつきが丘) |
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犢橋貝塚へ。さつきが丘公民館のすぐ前(写真左)が、犢橋貝塚です。国の史跡に指定され、公園となっています。規模南北180m、東西160mの環状の大貝塚(縄文中期〜晩期)です。晩期まで存続した大貝塚という点でも貴重です。 | |||||||||||
もっとも貝層が露出しているところ(北西付近)。オキアサリ、イボキサゴが主体の貝層です。注目されるのは、ヤマトシジミが含まれていることです。北の印旛沼との関係が推測されるのです。 本来の花見川と印旛沼をむすぶ開鑿事業に使われた勝田川(現在の花見川の印旛沼側=新川)は、もともと印旛沼の方に注ぐ川でした。犢橋貝塚人たちは花見川・勝田川ルートで、印旛沼方面の縄文人と交換で手にいれた?あるいは自ら、花見川を遡り、勝田川に出、印旛沼で漁をしたのでしょうか? |
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ひじょうに暑かった。木陰で説明を聞きます。大型環状貝塚とはいったい何か?真相に近づく重要な一歩となったのが、この犢橋貝塚なのです。かつて馬蹄形状に集落が営まれた結果が、大型環状貝塚であると、いう馬蹄形集落説が唱えられました。それに基づいて、犢橋海津塚の調査が行われましたが、貝層中心部付近には、住居が見つからなかった、ということです。 | |||||||||||
北東方向。馬蹄形(Cの字型)の貝層の開口部です。谷に向かって開口していますが、開口部より中央部分が低い、いわゆる先導谷に近い地形を実感できます。
先導谷のような地形では、中央部分は水がたまりやすく人が住むには適しません。その外側の小高いところに人が住みはじめ、近くに食べた貝を廃棄し、小貝塚ができる。やがて少し離れたやはり外側の別の場所に住居を移し、また貝を廃棄して・・・というのを途方もない長い時間(何百年も?)繰り返し、小貝塚が積み重なってできたのが、巨大な環状貝塚である――」犢橋貝塚は、大貝塚形成の謎を解き明かすうえでも、注目される遺跡です。 |
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犢橋貝塚の標柱。1981年国の史跡に指定され、貝層部分について保存措置がとられました。しかしながらその周辺については、おびただしい数の集落跡が認められたにもかかわらず、未調査のまま宅地造成が開始され、周辺地形とともに、文化財は消え去ったとのことです(千葉市『千葉市史』)。 | |||||||||||
犢橋貝塚の標柱。 | |||||||||||
説明版を見ているところ。 | |||||||||||
畑町をへて東大総合運動場へ |
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犢橋貝塚からさつきが丘団地の中を西へ向かいます。途中、さつきが丘団地の中に畑がありますが、そこに微細な土器片が落ちているところがあります。 | |||||||||||
谷津地形。右手前の台地が犢橋貝塚のある台地。中央やや右の台地は、丸山遺跡。近世の貝塚であるとともに中世の城跡でもあります。左の台地が陣屋台になります。 | |||||||||||
手前畑町字松原。前方畑町字陣屋台。陣屋台古墳群(円墳2基)があるはずなのですが、未確認。
陣屋台とは気になる字名ですが、写真の左外は字「陣屋」であり、「陣屋」という屋号のお宅があります。下見できたとき農作業をしていた方に尋ねたら、親切にもそのお宅に連れて行ってくれて、そのご主人と引き合わせてくれました。けれども「ここの地名が陣屋だから、屋号が陣屋になってしまった。なぜ陣屋というか、わからない」ということでした。隣接する字「神場」(かんば)」の十二社神社付近に、近世の陶磁器片が混じった貝塚(神場南貝塚)と土塁があることが指摘されています(小笠原永隆1999)。『千葉市図誌下巻』によれば、畑町には旗本遠山氏・金田氏の知行地があったようですから、いずれかの陣屋でしょうか。 |
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陣屋南遺跡。右前方が陣屋遺跡。さらに先は花見川。(なお『千葉市図誌』記載の小字図とズレがあるようです。) | |||||||||||
上鶴牧遺跡です。東京大学総合グラウンドの北の隣接地で、住宅地になっています。1993年と1994年宅地造成にともなう調査がおこなわれ、竪穴住居跡が11軒検出されている。古墳時代4軒、奈良平安時代7軒。 | |||||||||||
東京大学総合運動場(検見川グラウンド) |
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東大総合運動場の西端にあるハス池。2000年前のハス、大賀ハスの記念碑があります。ただし1951年、大賀ハスが発掘された地点はここではありません。もう少し東の、ゴルフ場の中です。1日前に観蓮会が開かれたようですが、この池では、かろうじてハスのつぼみがひとつ(写真中央やや左下)。 | |||||||||||
今年は、見頃は7月上旬だったようです。右は千葉公園の大賀ハスを7月上旬に撮影したもの。 | |||||||||||
落合遺跡(低地)の中を進みます。前方台地は中谷遺跡(なかやつ、縄文後期)。芝生が張られていますが、土が出ているところを気をつけていると、小さい土器片が落ちています。 | |||||||||||
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落合遺跡(低地一帯)。集まっている地点が大賀ハス発掘地点です。背後の台地は鶴牧遺跡(鶴牧貝塚)。
鶴牧遺跡は1952年東大により調査が行われ、縄文早期の炉穴が検出されました。しかし正式の報告がなく詳細不明です。ゴルフ場になっており芝生が張られていますが、最近、踏査した専門家によると、モグラの穴から焦土が見えたり、貝殻や土器片が見られるので、遺構はのこっている可能性がじゅうぶんあるということです。 |
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「大賀ハス発掘地点」を示す国土地理院の標識。ゴルフの邪魔になるためか、予想したより、小さい・・・ |
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落合遺跡、大賀ハス発掘地点。この東大のグラウンドでは第二次大戦中と直後、代用燃料として泥炭が採掘されていました。1947年、泥炭発掘の際に、丸木舟3隻、櫂6本(C14分析で約3000年前)が発掘されています。ワイワイグッチさんによれば、中谷遺跡の縄文人のものではないか、とのことです。
説明役のワイワイグッチさん、ここまでくると、ますます乗りに乗って、絶好調。縄文人が「私には見える!」 |
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暑いなか、お疲れ様でした。 説明役のワイワイグッチさん、ご苦労様でした。 |
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※たかしpart3さんと矢野さんから提供してもらった写真を使用しています。 さつきが丘公民館、東京大学総合運動場の職員の方々、お世話になりました。
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(参考サイト)
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千葉市の遺跡を歩く会
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