花見川水系の歴史的景観


大久保城


 

花見川・浪花橋より 

   

■ 大久保城 

 ―花見川にぶちぬかれた謎の城


  千葉市花見川区浪花字大久保。土塁、腰曲輪、物見(櫓台)。(貝塚、古墳2基。)

 JR総武線に乗車して花見川を渡るとき、右岸に取り残された島のような小山(写真左)が見える。1日何万人の単位で通り過ぎるだろうから、あの小山に気をとめる人はわずかでもきっといるにちがいない。しかしあの小山が城の先端部分の物見(櫓台)〔推定〕であり、現在の花見川をまたぐかたちで城があったことを想像する人は何人いるだろうか。小山の対岸の左岸(写真右)の台地上に目をやると、天守閣のように白い建物(和洋女子大学検見川寮)がそびええているのが目につくが、その台地縁辺部には腰曲輪と思われる地形がのこる。小山から少なくともその建物付近まで城があったと推定されるのである。

 もともと大久保城の台地は東から西(写真右から左)に向かって張り出し、その台地先端部分に大久保城の物見が築かれていた。花見川は張り出した台地を迂回するように蛇行し物見の西下(写真左端)を流れていた。ところが戦後1946年頃からの花見川改修事業により大久保城の台地は掘削され、花見川がその中央を貫通することになり、現在の景観ができあがった。が、発掘調査はなされなかった。遺構は地形ごと歴史の闇の中に消されてしまった。かろうじて物見部分の小山と台地縁辺のわずかの痕跡が残り、大久保城の存在を想像する手がかりとすることができることにわれわれは感謝しなければならないのだろう。

 大久保城の性格を想像する ―陸海川の交通要地検見川を押さえる城? 

 大久保城がいかなる城か、誰の城か、わからない。しかし立地から推測ができないわけではない。ネット上の座興として、雑駁なる推測を重ねてみよう。

 要は陸上・海上・河川の交通の要地である検見川を押さえる役割を負った城ではないか、ということである。

  今でこそ、海は遠くなってしまったが、つい最近の埋立前まで、大久保城の約700mほど南東には海岸が広がり、房総往還(約500m)に沿って検見川の町場が営まれていた。大久保城の台地南側の下(写真右)の小字名が「本宿」であることも示唆的である。『千葉市図誌』等によれば、検見川は、古くから周辺地域の中心地であり、房総往還の継場であると同時に花見川の河口を利用した湊としても栄えたという。1509年10月、原氏の小弓館を訪れ浜野湊(浜野城)本行寺に宿泊した連歌師柴屋軒宗長(1448-1532 今川時代が帰路、検見川に宿泊していることは、検見川の繁栄が中世に遡ることをうかがわせるものかもしれない。房総往還が大久保城の南500m検見川神社付近で、犢橋をへて佐倉に至る陸路を分岐していることも見逃せない。一方、安房里見氏は国府台合戦で舟運を使って兵員物資を輸送していたことが知られている(さらに国府台合戦の背景として舟運・物流という要因に注目する見解もある)。

 

   

花見川河口側からみた大久保城中心部(推定)。 右が本宿。

  

はまのむらをたちて、気見川といふ所に浦風余り烈しかりしかば、一宿して、いまだ日も高かりしに、人々物語のつゐでに一折などの事にて、
    玉かしは藻にうづもれぬあられかな
――柴屋軒宗長「東路の津登」 永正六年(1509)年10月22日の条

とすれば、里見氏と対立する原氏・千葉氏にとって、とくに検見川を監視・防衛する必要は少なくなかったはずである。さらに花見川に原氏・千葉氏の本拠臼井・佐倉方面への連絡網を想定することはできないか。花見川沿いに点々と中世城郭が分布しているのである。畑中雅子1996によれば、天保14年(1843年)の花見川改修後のことだが、佐倉藩や犢橋村の年貢米は花見川を通じて検見川浦に運ばれ、海上輸送されたという。また検見川・猪鼻橋(畑町)間には毎日通船があったという。印旛沼と花見川を結ぼうとする幕府の花見川改修事業は、最終的には、利根川を通行する高瀬船を通行可能にする目的であったされる。それ以前にその素地があったのではあるまいか。あるいは同じように河口に立地する猪鼻山(猪鼻城)が湊へと舟を導くための目印(さらにいえば灯台)になっていた可能性を指摘する見解(簗瀬裕一2000)が別の可能性のヒントになるかもしれない。なお湊をまもるための低地の城、あるいは湊自体を要塞化した「湊の城」として、浜野城(千葉市中央区浜野)がある。

 近辺の花見川流域の城として、北東1kmに殿山城跡(殿山遺跡、東京大学農学部付属植物実験所、花見川左岸畑町)、北約1kmに武石城跡(花見川右岸)が大久保城、北約2kmに長胤寺城(花見川右岸長作、上記写真で、かろうじて見える、花見川延長線上のかなたの台地)、北北東約2.7kmに城山城(花見川右岸長作)、東北東約4kmに押越城(花見川支流左岸)がある。河口にある城郭として、大久保城の西北西約2km、浜田川河口の大須賀砦がある。ほかに東南東2.5kmには城山城(小中台川右岸小中台)、南東約8kmに猪鼻城という位置関係になる。

●大久保城の城域

 明治前期に陸軍参謀本部により作成された迅速測図を見てみると、小山より約250m東の台地上に2個所、あたかも方形土塁の一部をなすように東西約100mのものと南北約150mほどの土塁らしき地形がマークされている。これが城の方形土塁の残部だとすると、城本体の西を区画するもので、より東の台地基部に近い部分に城の中心部があったことになる。『千葉市遺跡地図』などは城域を櫓台がある個所に限定しているが、大久保城の遺構で現在、確認可能なのは櫓台以外ほとんどないのでやむをえないか。余湖君のホームページでは朝鮮学校付近を主郭と想定する。千葉市1974一覧表は「花見川館址」の項に「浪花町字地頭屋敷」、「平山城、単郭式」、「土塁、腰曲輪(詳細不明)」、「花見川開鑿のためほとんど壊滅」と記載するが、大久保城のことである。なお交通の要中の要ともいえる地点に立地する検見川神社の台地(花輪台)も気にならざるを得ない。出丸の機能を有していたか。念のため。大久保城に関しては、物見と思われる遺構も含め発掘調査は行われていないので、確実なことはないことに注意されたい。

  

大久保城周辺の遺跡

 大久保城跡は古墳時代から近世にいたる複合遺跡(大久保遺跡)である。土師器をともなう貝塚が存在し、和洋大学検見川寮の西側に古墳状の地形が2箇所ある(現在では1箇所は確認困難)。さらにその台地上北隣は字「居寒台」(いさむだい、いしゃぶだい)。今では大半が住宅街になっているが、古墳時代から奈良平安時代にかけての遺跡(居寒台遺跡)であり、開発にともなう調査により住居跡57軒、掘立柱建物跡22棟、土壙19基、溝8条、ピット10口のほか、旧石器時代石器集中地点一箇所が検出されている。そのほか周辺には古墳時代から奈良平安時代、中世にかけての遺跡が多い。直道遺跡横塚遺跡瓜堀込遺跡(ウリホッコメ)(検見川神社周辺)など。(以上、小笠原永隆1999) 幕張村になるが、花見川西対岸は字「須賀原」であり、大久保城物見より100m余のところが愛宕山である。「武石の板碑」として有名な板碑(1294年、武石三郎胤盛が母のために作ったという)は現在、真蔵院(武石)に保管されているが、江戸時代、愛宕山が開拓されるまで、この地の小墳に置かれたいたという。

  

●周辺の古地名

 「地頭屋敷」についてはすでにふれた。字「大久保」の東隣の小字名「玉造」はこの地域の歴史の古さを示唆する。さらにその東は字「直道」(ナオミチ)であり、房総往還・検見川神社から北北東へほぼ一直線に殿山城(畑町字殿山)へ至る道が通る。その道と犢橋・佐倉方面への陸路が交差する付近には字「大道」もある。畑中雅子1996は「大道」の字名と古代東海道浮島駅との関係の可能性を示唆する。見過ごせない指摘である。字「大久保」の南隣、大久保城直下、花見川河口の小字名は「本宿」(ホンシク)である。さらに東へ「東上宿」「西上宿」「中宿」「西中宿」「中下宿」「西中下宿」「大下宿」「西大下宿」という小字名が街道沿いに続くが、これは古い町場の中心が大久保城直下で花見川河口の「本宿」にあり、次第に東の方へ移ったことを示唆しているのではないだろうか。江戸時代の絵地図で大久保城下の花見川(旧流路)付近に「関場」と記載するものがある。城との関連の可能性がある字名として、大久保城の東方には「花輪」「堀込」「瓜堀込」「遠堀込」(トオウホッコミ)「木戸尻」が南から北へと並ぶ。北には「城ノ下」(ジョウンシタ)があるが、これは殿山城に対しての地名だろう。現在検見川神社がある台地は「花輪台」である。なお和田茂右衛門1978は、八坂神社(検見川神社)の縁起によって、検見川には、嵯峨天皇とゆかりのある「嵯峨」という地名があり、また検見川は「葛飾の原」と呼ばれた時代があった、とする。

  

●検見川

 現在の花園・朝日ヶ丘・浪花は検見川町から分かれた町である。江戸時代には、徳川家の家臣宮城越前守の所領になったのち、家綱の時代に代官支配となり、元禄時代、旗本金田忠八郎、清野平右衛門、御料地の相給地となる。その後変動はあったが、基本的には旗本と御料地の相給地で、明治を迎えた。村高は元禄15年11月改メで602石6斗8升2合1勺。「千葉盛衰記」によれば、花見川にちなみ華見川村と呼ばれた時代があったという(以上、和田茂右衛門1978)。千葉県立中央図書館1970は『郡史』を引用するが、要するに「往昔ソノ変遷ニ就イテハ、載籍ノ依ルベキナクシテ、幽遠トシテ今知ル由ナシ」である。宗良法印の『東路の土産』(ママ)のほか「鴻台合戦草子」を引用している。「夜ヲ冒シテ小弓ヲ出デ、結城・三川・稲毛ヲ経テ、気見川ニ至ルト」。三川は寒川である。その南が結城野とする。畑中雅子1996は「元禄三年の幕府廻米津出浦々河岸之道并運賃書付に検見川湊とあり、海上江戸まで八里、運賃は米百石につき一石としている。年貢米のほか甘藷などが津出しされ」たとする。
 社寺の縁起から見ると、東上宿の医王山宝蔵院天随寺(真言宗豊山派)は宝亀5年(774年)の開基。検見川神社(東上宿台地、花輪台、1987年4月検見川八坂神社から改称)は、嵯峨天皇にゆかりのある五位蔵人後胤平春績の子孫が葛飾原(検見川付近か)に土着し、付近の開墾を始めた際、災害が重なったので、承平四年(934年)に「嵯峨」の地(検見川所在)に社殿を建立したのが始まりという(「検見川神社」。和田茂右衛門1978は、検見川神社の縁起によりつつ、承平4年(934年)、兵部少輔平春頌が創建した「嵯峨神社」が検見川神社の前身とする。

  

●猪鼻山灯台説と検見川の灯台

 猪鼻山灯台説は、この見解を提示する簗瀬裕一2000によると、1999年、滝川恒昭氏が最初に猪鼻山聖地説とともに発表した。
 さてそこで検見川湊。海岸からの距離からいうと、江戸湾航行者から信仰を集めたという検見川神社の方が目立ちそうだが、河口への誘導という点で、大久保城の意味はなくならないと、机上でながら、想像する。猪鼻山の場合、戦前、実際に灯台として使われ、猪鼻山を目安に夜間航行した例がある、ということである。検見川・花見川の場合はどうであったろうか。昭和初期、検見川5丁目(検見川の東側)の三峰神社付近に灯台的な施設が置かれ使用されていた、というページを目にした(検見川のホームページ「灯台発見」)。規模は小さいが、聖地と灯台という関係からも興味深い。検見川の西端にあたる花見川河口ではどうだったか。

   

●稲毛の浜の合戦?

 「土気古城再興伝来記」は、国府台合戦後の撤兵の際、土気の酒井胤治・康治父子は稲毛の浜で、北条氏の追撃を受け、戦闘があったとしている。この記事には疑問があるものの、大久保城から遠くない稲毛の浜での何らかの史実を反映しているかもしれない。

   

●居寒台館

 「居寒台」の地名と遺跡名について若干の混乱がある。和田茂右衛門1978、千葉市1993によれば、字「居寒台」((いさむだい、いしゃぶだい)は字「大久保」の北隣であるのだが、谷を隔てた北対岸の殿山城(字「殿山」)を「居寒台館」と呼ぶ文献がある(千葉市1974、千葉市1985など)。また読み方についても「きょかんだい」とするものがある。左記の文献の関係者によると、この読み方は、本来、居館台を「居寒台」と表記したものを、後世、里人が「いさむだい」と読むにいたったのだろうという推定に基づいているようである。

  

大久保城 物見(櫓台)

 

千葉西部の歴史的景観 ―花見川水系の城郭群

タイトル 撮影地点(小字・旧地名) 位置 撮影方向 主要対象
大久保城(ここ) 花見川・浪花橋 花見川左岸 大久保城跡、物見、花見川
大久保物見(櫓台) 花見川河口 花見川左岸 大久保城物見、花見川
殿山城 字中谷 花見川左岸 殿山城
大久保城より馬加城・武石城方面を見る 花見川・浪花(字大久保・大久保城推定地) 花見川左岸 西 大久保城物見、馬加城、武石城、三代王神社、幕張新都心

 

1/25,000地形図:

千葉西部(北東)

国土地理院の試験運用ページ。地形図閲覧システムの利用規定に注意。閲覧以外の利用はできません。大久保城は「浪花町」の文字の左付近。その物見の位置は北緯35度39分31秒,東経140度3分49秒。殿山城は「東京大学総合運動場」の北。武石城は「武石一丁目」の「武」の字付近。

 

小笠原永隆1999 「花見川左岸の貝塚」、『貝塚研究』4号1999年、園生貝塚研究会。

小澤清男1997 「居寒台遺跡」 千葉市1997所収。

千葉県立中央図書館1970『千葉県地名変遷総覧』千葉県立中央図書館

千葉市1974 『千葉市史 原始古代中世編』千葉市 1974年

千葉市1976 『千葉市史 資料編1 原始古代中世』千葉市 1976年

千葉市1985 『千葉市史跡整備基本計画』

千葉市1993 千葉市史編纂委員会 『千葉市図誌』 

千葉市1997 小澤清男編著『埋蔵文化財調査(市内遺跡)報告書 −平成8年度 −』千葉市教育委員会文化課1997年3月31日。

千葉市2000 『千葉市遺跡地図』

千葉県文化財センター1989 『第376集千葉県埋蔵文化財分布地図3−千葉市・市原市・長生地区(改訂版)− 』1989年6月。

畑中雅子1996 (千葉市の個所)『日本歴史地名 千葉県の地名』 小笠原長和監修 平凡社、1996年。

簗瀬裕一2000 「中世の千葉」『千葉いまむかし』No13

和田茂右衛門1978 『千葉市小字図」(稿本)

 

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