遺跡めぐり
  2003年7月20日(日)

武石・幕張をあるく(1)(仮)

― 武石三郎胤盛とその母の伝承 ー


 2003年11月1,2,3日には「三山(みやま)の七年祭」が行われます。馬加康胤にまつわる伝説を秘めた七年に一度の大祭です。この機会に馬加康胤と武石氏ゆかりの幕張・武石付近の史跡を歩いてみました。

 まずは主に、鎌倉時代、武石台地の東側を領していた千葉常胤の三男武石三郎胤盛の一族関係の史跡から歩いていきます。その母にまつわる伝承と史跡は、断片的で全貌は見えませんが、時代を超えて、われわれの心を揺さぶるものがあります。


 

 ■コース(09:30-12:30

JR新検見川駅―大久保城跡―愛宕山古墳―真蔵院・板碑―羽衣神社―武石神社(古墳)・武石城跡―大小塚―三代王神社―椎崎古墳―馬加城跡―宝幢寺―子守神社(素加天王社)―大須賀山砦(堂ノ山)〔馬加康胤首塚〕(―JR幕張駅)

国土地理院 1/25,000地形図:

千葉西部(北西) 千葉西部(北東)

国土地理院の試験運用ページ。地形図閲覧システムの利用規定をよんで見ましょう。たいへんよい地図なのですが、閲覧のみ。

 大久保貝塚。千葉市花見川区浪花(なにわ)町。西に花見川下流を見下ろす砂丘上に位置します。和洋女子大検見川寮周辺にあたります。園生貝塚研究会によれば、古墳時代〜近世の貝塚です。1997年、一部の発掘調査により奈良時代の竪穴住居址が発見されています。

 大久保貝塚。和洋女子大寮の西側の畑です。夏草が茂っており十分確認できませんが、園生貝塚研究会によれば、小円墳の跡と思われる盛り上がりが2個所あります。写真の左端(寮との境界付近)と中央やや右です。

 大久保城(推定)から眺める武石台地。台地南西端=中央の高層マンション「幕張ハウス」の付近が馬加城跡です。「大久保城より馬加城・武石城方面を眺める」もご覧ください。

 

 花見川の旧流路を進みます。和田茂右衛門氏は、伝承にある平良文の幕張着船や千葉常胤の妻の遺体漂着は、この付近であったろうと推定しています。

 愛宕山古墳武石2丁目。海抜6mの砂洲上にあります。考古学的には、古墳時代後期の方墳。石室があり、金環・直刀・鉄鏃が出土しているとのことです。伝承では、次に述べるような話が伝わっており、実際、江戸時代中ごろまで、板碑が置かれていたようですので、一般にしばしば見られることですが、中世に塚として再利用されたのでしょう。

 ※砂洲上につくられた古墳
 千葉市内では、ほかに浜野の前田古墳、服部塚古墳、墳形規模は不明ですが白旗神社古墳(結城稲荷、新宿一丁目)などが知られています。千葉神社(千葉妙見)も砂洲上に作られた古墳がその起源ではないかと推測する人がいます。

 愛宕山古墳頂上の愛宕神社の祠です。伝承では、千葉常胤の妻=武石胤盛の母(嫡子正胤の母と同一人物で正室、秩父重弘の娘)はどういうわけか入水自殺した。その遺体を地元の猟師が花見川河口のこの地で見つけた。胤盛ら息子たちは悲嘆このうえなく近くの愛宕山に母を弔いまつった。これがこの愛宕山古墳でありその頂上にある愛宕神社とのことです。

 なお武石氏については、こちらをご覧ください

 武石台地の前面に広がる水田地帯を北へ。武石台地の裾部分の武石の集落に向かって進みます。写真前方のかなた畑(はた)町の台地上には、子安神社があります。七年祭で、船橋三山の二宮神社が父親=夫役をするのに対して母親=妻役をする神社です。

 写真右には、花見川区役所の建物も見えます。写真では見えませんが、その向こうは、昨年2002年7月にたずねた殿山遺跡(殿山城跡、東大農学部付属植物実験所)落合・鶴牧遺跡(東大総合グラウンド)という位置関係になります。

波切不動堂。武石の集落の一画、真蔵院境内にあります。

 羽衣神社です。真蔵院境内にあるの裏山。天女が舞い降りたという伝承のある場所です。和田茂右衛門氏の書いたものでは、山下の池に舞い降りた、ということになっています。境内に小さな池らしきものがあるが、それでしょうか。

 天女は常胤の妻になり、7人の息子の母となったという話があり、とすれば、おとぎ話のような天女伝説は入水自殺した胤盛の母親を美化し神話化した物語であり、哀切きわまりない意味を帯びてきます。

真蔵院開山は806年。『千葉県千葉郡誌』には、武石胤盛が母の菩提を弔って造営したとあります。

 史実かどうかは不明ですが、素加天王社(子守神社)には、武石胤盛は短慮のため父常胤から疎まれていたという伝承があります。激情家ゆえに母を亡くした悲しみが強かったのかもしれませんが、それだけでなく胤盛にとっては、母親は、ほかの兄弟たちとくらべていっそう特別な存在だったのかもしれません。ひょっとすると、母の自殺の原因は常胤・胤盛の父子関係と関わりがあるかも?

 真蔵院の前に置かれた板碑房総最大の大きさです。1294年8月14日、当主となった武石胤晴(7代目武石氏当主→武石氏略系図 )が同年9月30日に愛宕山に建立したと考えられる7基の板碑のひとつです。

種子光明真言二十四文字と、「右為先妣聖霊出離生死証大菩薩也永仁第二暦季秋卅之天」という文字が刻まれています。漢字辞典によると、「妣」とは「母」ないし「亡くなった母」という意味だそうです。アップ画像はこちら(110kb)。

 台地下沿いの、武石城の根古屋集落と思われる集落の中を北へ。馬加康胤の家臣と伝えられる姓の表札が目立ちます。京葉道路の高架橋近くの細い薄暗い山道をのぼって武石城、馬加城のある武石台地の上に上がります。いよいよ主要な話題は中世後期、動乱の時代へ。

たかしpart3さん、ワイワイグッチさん提供の写真を使わせてもらっています。両氏に感謝します。

武石・幕張をあるく(2) 動乱期の武石氏  

武石・幕張をあるく(3) 馬加康胤 

●参考

イベントお知らせページ2003年7月

花見川水系の歴史的景観

|お大久保城より馬加城・武石城方面を眺める  大久保城 物見(櫓台)| 武石之里を歩く (1)真蔵院板碑と愛宕山古墳  武石城・武石台地遠景   

武石・幕張年表   武石氏略系図 武石氏について 武石之里について

主要参考文献 −検見川・幕張・武石の歴史

幕張メッセのそのむかし――1:25,000地形図「千葉西部」――

OLD MAP ROOMのページ。幕張の浜の埋め立ての変遷がわかります。

 

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