大椎城周辺の景観


向砦
 (板倉砦側より)

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退却(板倉城) ↑前進(大椎城)  小山城→

 

■ 向砦 


―陸上・河川交通の要地を押さえる土気酒井氏の砦か

  千葉市緑区板倉町字向。法行寺裏山。急峻な斜面に守られた台地に所在する。連郭式。空堀、土塁、腰曲輪など。郭の面積は狭いが、砦らしい砦であり、大椎城とセットでぜひ後世に伝えたい文化遺産である。山本勇1980aには要をえた図がある。

 土気城の南東約4km、大椎城の南800mの地点に位置しており、すぐわきを村田川本流が流れる。また村田川にほぼ併行するかたちで本納(千葉県茂原市)より金剛地(市原市)をへて大椎にいたる古街道(現、県道大椎停車場金剛地線)が通る。大椎城とともに村田川流域を守るための、土気酒井氏の支城である、というのが大方の見方であろう。南200m対岸台地が、板倉砦に比定されるところから、向砦もまた、板倉砦、猪ノ台城、さらには大椎城と連携して、南の金剛地砦方面からの黒熊氏の侵攻(→板倉砦のページへ)に備えるものであった可能性が高い。

 写真の谷地の奥(右方)は、現在、小食土・昭和の森付近にあたり、印旛沼に注ぐ鹿島川、東京湾に注ぐ村田川、太平洋に注ぐ南白亀川それぞれの水源となっている。要するに分水嶺であって、丘ひとつ越えれば、比較的容易に外房方面に物資を送り出すことが可能な地域なのである。河川交通に依存することの大きかった古代・中世では、交通の結節点にあたり、きわめて重要な地域であった。内房と外房を結ぶ物流ルートを考えるうえでも、番士を置いたという伝承の残るこの向砦の存在は注目されるのである。

●向砦の伝承・里伝 
 山本勇1980は「承平年間(931-38)、平良兼は大椎城に居たが、板倉小字向台の頂上に番士を置いた。ゆうがいは要害の訛りである」(『わたしたちの郷土市東村』)と「大椎権介常兼向台ニ番士ヲ置ク」(『千葉県市原郡誌』)という記事を引用している。
 

●土気・本納の合戦       (→板倉砦のページへ

●内房・外房をむすぶ最短交通輸送ルートか?

 かつて河川を使用する舟運は自動車や鉄道交通の発達した今日では想像もつかないくらい大きな比重をもつ交通輸送手段であった。陸上交通が発達しはじまる江戸時代以前ではとくにそうである。たとえば重く壊れやすい古代の瓦を陸路で運ぶことはたいへんな労苦を要した。舟運ということを考えると、なぜ国府から遠い内陸のこの地に瓦を生産する拠点が設けられ、ここから国府や寺院へ供給されたのか、ある程度、うなづけるのである。舟運の意義は中世においても同様で、中世の城郭はよく「山城」といわれるが、むしろ河川、舟運との関連がきわめて強いこと、それだけ舟運の意義が大きかったことが、大椎城周辺の城郭群などを見てもうかがえるのではないだろうか。

 河川を使うとして、外房と内房をむすぶのはいかなるルートだったろうか。村田川が大きく屈曲する、立山城・大椎城・御堂崎城という三つの城が集中する付近から上陸するルートなど、いくつか考えられるが、村田川水系と南白亀川水系を結ぶ最短の陸上ルートとして注目されるのが写真の谷である。板倉砦のわきから村田川支流を遡り、小山城の下を通り過ぎて、小食土に上陸。陸路、小中に出て、南白亀川を下って外房に至るルートである。渡辺太助氏は、以前よりこのルートに目をつけており、実際にこのルートをたどって歩いてみたそうである。舟運をうかがわせる遺跡・地名・伝承など見つかっていないようであるが、気になる仮説である。

(追記)越智小学校2003は次のような興味深い聞き取りを記録している。

「今から400年位前ごろ(江戸時代の初めごろ?)、越智町の若菜光一氏のご先祖さんが、自宅にある楠の大木3本を、京の妙満寺へ奉納するために、村田川を利用して筏を組み、浜野まで運び、海岸づたいに京まで、筏を組み運搬されたと言う。この後、妙満寺より若菜家に礼状が届き、その巻物が現存し、この事を証明している。」(越智小学校2003「越智の楠の大木が、村田川を筏で下り、京へ(大網 宏氏より)」38頁)

 


向砦
 板倉砦を突破して大椎城へ向かう・・・

 金剛地砦方面から攻め込んできた本納の黒熊勢は、板倉砦、猪ノ台城からの左右からの攻撃を突破したとしても、向砦が正面に立ちふさがることになる。手前は村田川支流と橋である。

 向砦は、板倉砦に比べると、かなりの比高差がある。ただし南対岸200mほどには板倉砦の台地があり、金剛地方面への視界をさえぎる。したがって遠目をきかして直接見る物見という点ではあまり機能を期待できない。余湖氏が言うように狼煙台という機能が大きいだろうか。

退却(板倉城) ↑前進(大椎城)  小山城→


向砦
 (大椎城・前田より)

 

 

大椎城周辺の景観

 

タイトル 撮影地点(小字・旧地名) 大椎城主郭からの方角 撮影方向 主要対象
●大椎城 前田 大椎城ほぼ全体、大椎根古屋集落
●大椎城と立山城(1) 大椎橋西方(町田・崩ノ下境界) 南西 大椎城、村田川、立山城、御堂崎城跡、城谷台物見跡
●大椎城と立山城(2) 新大椎橋(城ノ谷) 北西 大椎城、村田川、立山城
●村田川防衛網(重要交通路をまもる城郭群) あすみが丘西南端(榊畑) 北西 大椎城、御堂崎城跡、立山城、八幡砦
●八幡砦下より見た立山城 八幡砦下(大門)
北緯35度31分28秒,東経140度15分0秒
北西 立山城、御堂崎城跡
●向砦(1) ―板倉砦側より(ここ) 板倉砦北側下 
村田川支流右岸
南 約900m 向砦、小山城。
向砦の位置:北緯35度30分37秒,東経140度15分24秒
●向砦(2) ―大椎城側より(ここ) 大椎城前田 南 約300m 向砦、板倉砦
●小山城 宮田 南東約1.2km 小山城、向砦
●板倉砦 板倉前 南 約1.5km 板倉砦、亥ノ台城。板倉砦の位置:北緯35度30分26秒,東経140度15分18秒
●金剛地砦 (未完) 不明 南南西
約2km
金剛地火の見

 

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土気の南西の守りの中核、大椎(おおじ[い])城とはどんな意味をもった城か?まずはここをご覧ください。
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1/25,000地形図:

東金(南西) ・・・大椎・土気

茂原(北西)・・金剛地・本納

国土地理院の試験運用ページ。地形図閲覧システムの利用規定に注意。閲覧以外の利用はできません。「大椎町」の文字の上の台地が大椎城。「板倉町」の文字の上の台地が向砦。下の台地が板倉砦。その南西対岸が猪ノ台城。「あすみが丘9丁目」の「目」の付近が小山城。

 

山本勇1980a 「板倉砦」『日本城郭大系第6巻千葉・神奈川』新人物往来社、1980年、129頁。

山本勇1980b 「向砦」『日本城郭大系第6巻千葉・神奈川』新人物往来社、1980年、156頁。

越智小学校2003 「大木戸・大高・高津戸・平川町の歴史余聞」千葉市立越智小学校・越智メダカの会編2003所収。

千葉市立越智小学校・越智メダカの会編2003 『ふるさと 大木戸・大高・高津戸・平川 −ふるさと越智 歴史学習特別誌・第2集』。

 

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大椎城遺跡めぐり part 1(周辺 2002年4月21日)

大椎城遺跡めぐり part 2(城内 2002年5月19日)

 

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