遺跡めぐり |
|
大椎城をあるく 2 (城内)
|
|
二郭東端の土塁跡に立つ (前方下はニの堀) |
2002年5月19日(日)
あすみが丘プラザ(集合・講義)→あすみが丘プラザ展示室→大椎第一遺跡→要害台(城山)(大椎城東側)→切通し・横井戸→根古屋集落(大椎城南側)→大椎城入城口→大椎台剣鏡碑→大椎城帯曲輪→主郭(西要)→虎口→三の堀→2郭→土塁・虎口→二の堀→3郭→土橋状地形→一の堀→4郭→二の堀(もどる)→後沢→毘沙門天堂→あすみが丘プラザ(解散)。 ●参考
|
![]() |
要害台の切通し。写真中央やや右に横井戸があります。 |
横井戸。 | ![]() |
![]() |
屋号「こうや」のお宅を通らせてもらい、急坂をのぼって城内に入ります(左は下見のときの写真)。いざというときは、城主家来一同、武装してこの坂をかけのぼったことでしょう。 |
坂を上りきると、台地南縁、東西に長くのびた平坦地に出ます。一般に細長くつくられた平坦地を帯曲輪とよびますが、この帯曲輪は大きなものです。西から主郭、2郭、3郭、4郭と3つの堀により隔てられた郭がならびますが、この帯曲輪は、それらの堀につながっておりそれぞれの郭を連絡する通路の役割を果たしています。写真左は三の堀の南端。前方中央やや左高くなっているところは、2郭。画面外、左手前に主郭(1郭)、という位置関係になります。三の堀の掘底道に入り、すぐ左が主郭の虎口(入り口)となっています。 | ![]() |
![]() |
剣鏡碑。坂を上りきって帯曲輪に出たところ、すぐわきの若干高くなっている場所に立っています。江戸時代、地主さんのご先祖がここで剣と鏡を発見しました。再び埋め戻し、この碑を立てた、という趣旨が記載されています。一般に古墳時代の古墳があったのだろうと、言われていますが、中世においても剣と鏡は埋められることがあるので、塚などの城に伴う中世の遺構である可能性もある、とのことです。 |
帯郭の南西付近。小休止。これから主郭に上がります。 | ![]() |
![]() |
急斜面を樹木につかまってよじ登り、直接、主郭を急襲します(笑)。 |
全員登頂できました。
主郭(1郭、いわゆる本丸)の様子です。平坦な地形が広がっています。主郭はさらに直角に屈曲した堀と土塁で二分されていたが、昭和初期の開墾の際、その堀は埋め戻された、といわれており、実際、それらしい跡を確認できました。
主郭のまわりは急斜面です。東縁の堀のに接する付近以外、土塁は見られません |
![]() |
![]() |
主郭東縁の虎口跡と「大椎城址」の石碑(三の堀側から撮影)。
主郭の東縁の土塁は、ここで切れており、虎口(こぐち、入り口のこと)と推定されています。堀は主郭に向かって折れており、入口が主郭の内側むかって引いているかっこうです。講師の先生によれば、掘から虎口にむかって迫る敵の側面を攻撃できるような、いわゆる「横矢がかかる」構造になっているのです。「升形」と呼ばれる虎口の一種かもしれない、とのことです。地元の人はこの付近を「升形」とよんでいたと伝えられています。 |
三の堀。大椎城には、南北に台地を切る堀(掘切の一種)が3つあります。主郭から見てもっとも遠い堀を「一の堀」として三番目の堀が「三の堀」です。この三の堀は、三つの堀のうちいちばん大きな堀です。現状で見るかぎり、掘底は平坦になっています(箱堀または箱薬研)。写真は北を見ており、左側が主郭、右側が2郭です。 | ![]() |
![]() |
三の堀から2郭へ。 |
2郭東縁の土塁跡に立って、二の堀を見下ろす。土塁が切られて虎口とみられるところがあります。
2郭の土塁は、主郭東縁の土塁よりもよく残っています。虎口状の地形は後世になって耕作などの便宜のために切られたものである可能性もある、とのことです。 |
![]() |
![]() |
2郭東の虎口状地形から二の堀の掘底道に降りる。二の堀は、三の堀とちがってV字に近い断面をしています。 |
土塁上から二の堀を見下ろす。堀が屈曲しており、堀底をやってくる敵の頭上正面からも攻撃できることがわかります。この「折れ」は戦国時代の城の特徴です。一般に堀に折れが多用されているほど、発達した城郭と見られるとのことです。 | ![]() |
![]() |
二の堀から南の帯郭へ。帯郭からの南方向の景観。前方正面の黒っぽい杉山が向砦(板倉町)です。その先の台地は板倉砦(板倉町)。大椎城の根古屋集落から金剛地砦(市原市)をへて本納に至る古道がとおっています。村田川は向砦付近から右手前(写真画面外)の方向に流れています。
土気酒井氏四代胤治が北条氏についたとき、本納城城主黒熊大膳が里見方につき、この地域の軍事的緊張がとくに高まった時期がありました。このとき胤治が板倉に砦を設け、黒熊大膳に備えたと伝えられています(結局、酒井氏が本納城を急襲し、黒熊氏を攻め滅ぼします。) |
一の堀をのぞく。現状から見るかぎりV字形の断面の堀です。2の堀に比べると、小規模ですが、かなり埋まっているようです。二の堀と同様、折れが見られます。写真左が3郭、右側は4郭です。4郭の東端は細い尾根で要害台とよばれる台地につながっており、虎口が設けられています。 | ![]() |
![]() |
二の堀を通り、撤退します。二の堀はほぼ直角の見事な折れが見られます。この折れの効果のひとつとして、掘底を通って攻めてくる敵が堀を見通すことができない、ということがありますが、それがよくわかります。 |
大椎城の北側、後沢(チバリーヒルズの調整池が作られた谷)におりました。北側はほとんど自然地形のようです。この付近だけ千葉市の所有になっています。 | ![]() |
|
大椎城が全国に誇る、たいへん貴重な城跡であることを実感しました。土気城とともにこの地域の個性をなすかけがえのない文化遺産といえましょう。
プラザにて解散。講師の先生、おいそがしいところどうもありがとうございました。また見学のための立ち入りを許可してくださった地主さんにあらためてお礼を申し上げます。 |
yygucciさんの写真を一部使用させてもらいました。 |
(主な参考文献)
|
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||