遺跡めぐり
      

大椎城をあるく 2 (城内)

 

二郭東端の土塁跡に立つ

(前方下はニの堀)

 

 2002年5月19日(日) 

 

■4月21日の大椎城遺跡めぐりでは、参加希望者が殺到し多くの地元の方々の申込みを断らざるを得ない事態となりました。強い要望もあり、今回とくべつに地元の方だけを対象にした遺跡めぐりを実施した次第です。雨天のため城内を見学できなかった4月21日の参加者のみなさん、後日再度大椎城見学を行いたいと思っております。しばらくお待ちください。

  あすみが丘プラザ(集合・講義)→あすみが丘プラザ展示室→大椎第一遺跡→要害台(城山)(大椎城東側)→切通し・横井戸→根古屋集落(大椎城南側)→大椎城入城口→大椎台剣鏡碑→大椎城帯曲輪→主郭(西要)→虎口→三の堀→2郭→土塁・虎口→二の堀→3郭→土橋状地形→一の堀→4郭→二の堀(もどる)→後沢毘沙門天堂→あすみが丘プラザ(解散)。

●参考

イベントお知らせページ

大椎(おおじ[い])城とはどんな意味をもった城か?まずはここをご覧ください。
大椎城図 上から見ると・・・
大椎城 鳥瞰図 「余湖くんのホームページ」2003年5月11日余湖さんがリクエストに応じてすばらしい鳥瞰図を描いてくれました。感謝!
1/25,000地形図:東金(南西) 国土地理院の試験運用ページ。地形図閲覧システムの利用規定に注意。閲覧以外の利用はできません。「大椎町」の文字の上の台地が大椎城。「板倉町」の文字の上の台地が向砦。下の台地が板倉砦。その南西対岸が猪ノ台城。「あすみが丘9丁目」の「目」の付近が小山城。

 要害台の切通し。写真中央やや右に横井戸があります。
 横井戸。
 屋号「こうや」のお宅を通らせてもらい、急坂をのぼって城内に入ります(左は下見のときの写真)。いざというときは、城主家来一同、武装してこの坂をかけのぼったことでしょう。
 坂を上りきると、台地南縁、東西に長くのびた平坦地に出ます。一般に細長くつくられた平坦地を帯曲輪とよびますが、この帯曲輪は大きなものです。西から主郭、2郭、3郭、4郭と3つの堀により隔てられた郭がならびますが、この帯曲輪は、それらの堀につながっておりそれぞれの郭を連絡する通路の役割を果たしています。写真左は三の堀の南端。前方中央やや左高くなっているところは、2郭。画面外、左手前に主郭(1郭)、という位置関係になります。三の堀の掘底道に入り、すぐ左が主郭の虎口(入り口)となっています。
  剣鏡碑。坂を上りきって帯曲輪に出たところ、すぐわきの若干高くなっている場所に立っています。江戸時代、地主さんのご先祖がここで剣と鏡を発見しました。再び埋め戻し、この碑を立てた、という趣旨が記載されています。一般に古墳時代の古墳があったのだろうと、言われていますが、中世においても剣と鏡は埋められることがあるので、塚などの城に伴う中世の遺構である可能性もある、とのことです。
 帯郭の南西付近。小休止。これから主郭に上がります。
 急斜面を樹木につかまってよじ登り、直接、主郭を急襲します(笑)。
 全員登頂できました。 主郭(1郭、いわゆる本丸)の様子です。平坦な地形が広がっています。主郭はさらに直角に屈曲した堀と土塁で二分されていたが、昭和初期の開墾の際、その堀は埋め戻された、といわれており、実際、それらしい跡を確認できました。

 主郭のまわりは急斜面です。東縁の堀のに接する付近以外、土塁は見られません

 主郭東縁の虎口跡と「大椎城址」の石碑(三の堀側から撮影)。

 主郭の東縁の土塁は、ここで切れており、虎口(こぐち、入り口のこと)と推定されています。堀は主郭に向かって折れており、入口が主郭の内側むかって引いているかっこうです。講師の先生によれば、掘から虎口にむかって迫る敵の側面を攻撃できるような、いわゆる「横矢がかかる」構造になっているのです。「升形」と呼ばれる虎口の一種かもしれない、とのことです。地元の人はこの付近を「升形」とよんでいたと伝えられています。

 三の堀。大椎城には、南北に台地を切る堀(掘切の一種)が3つあります。主郭から見てもっとも遠い堀を「一の堀」として三番目の堀が「三の堀」です。この三の堀は、三つの堀のうちいちばん大きな堀です。現状で見るかぎり、掘底は平坦になっています(箱堀または箱薬研)。写真は北を見ており、左側が主郭、右側が2郭です。
 三の堀から2郭へ。 
 2郭東縁の土塁跡に立って、二の堀を見下ろす。土塁が切られて虎口とみられるところがあります。

 2郭の土塁は、主郭東縁の土塁よりもよく残っています。虎口状の地形は後世になって耕作などの便宜のために切られたものである可能性もある、とのことです。

 
 2郭東の虎口状地形から二の堀の掘底道に降りる。二の堀は、三の堀とちがってV字に近い断面をしています。
 土塁上から二の堀を見下ろす。堀が屈曲しており、堀底をやってくる敵の頭上正面からも攻撃できることがわかります。この「折れ」は戦国時代の城の特徴です。一般に堀に折れが多用されているほど、発達した城郭と見られるとのことです。  
 二の堀から南の帯郭へ。帯郭からの南方向の景観。前方正面の黒っぽい杉山が向砦(板倉町)です。その先の台地は板倉砦(板倉町)。大椎城の根古屋集落から金剛地砦(市原市)をへて本納に至る古道がとおっています。村田川は向砦付近から右手前(写真画面外)の方向に流れています。

 土気酒井氏四代胤治が北条氏についたとき、本納城城主黒熊大膳が里見方につき、この地域の軍事的緊張がとくに高まった時期がありました。このとき胤治が板倉に砦を設け、黒熊大膳に備えたと伝えられています(結局、酒井氏が本納城を急襲し、黒熊氏を攻め滅ぼします。)

  一の堀をのぞく。現状から見るかぎりV字形の断面の堀です。2の堀に比べると、小規模ですが、かなり埋まっているようです。二の堀と同様、折れが見られます。写真左が3郭、右側は4郭です。4郭の東端は細い尾根で要害台とよばれる台地につながっており、虎口が設けられています。
 二の堀を通り、撤退します。二の堀はほぼ直角の見事な折れが見られます。この折れの効果のひとつとして、掘底を通って攻めてくる敵が堀を見通すことができない、ということがありますが、それがよくわかります。
 大椎城の北側、後沢(チバリーヒルズの調整池が作られた谷)におりました。北側はほとんど自然地形のようです。この付近だけ千葉市の所有になっています。  

 大椎城が全国に誇る、たいへん貴重な城跡であることを実感しました。土気城とともにこの地域の個性をなすかけがえのない文化遺産といえましょう。

 プラザにて解散。講師の先生、おいそがしいところどうもありがとうございました。また見学のための立ち入りを許可してくださった地主さんにあらためてお礼を申し上げます。

yygucciさんの写真を一部使用させてもらいました。

 

 (主な参考文献)


小高春雄『市原の城』小高春雄1999年
小高春雄「大椎城」「大谷城」「土気城」笹生衛・柴田龍司編『千葉県の歴史 中世1 考古資料』千葉県1998年。
後藤和民「大椎城の調査(上)」『千葉県の歴史』4号、千葉県郷土史研究連絡協議会10-14頁。
後藤和民「王朝後半の情勢と平忠常の乱」千葉市史編纂委員会編『千葉市史 原始古代』千葉市1974年。
千葉県文化財センター『第376集千葉県埋蔵文化財分布地図3−千葉市・市原市・長生地区(改訂版)− 』
千葉市教育委員会文化課『千葉市遺跡地図』2000年。
千葉重胤(?)「千葉大系図」(寛永年間)『改訂 房総叢書 第五輯 史伝(1)(2)』1959年
千葉城郭研究会編 『図説 房総の城郭』 国書刊行会、2002年。
千葉城郭研究会簗瀬祐一氏作成資料2002年
服部清道「上総大椎の遺跡調査報告」『房総郷土研究』第4巻2号(通巻24号)(昭和12年5月25日特集号)1937年7-9頁。
村田六郎太「大椎城と立山城」千葉市史編纂委員会1993年。『千葉市図誌』上巻。
簗瀬裕一「千葉城跡概説―千葉氏居城の基礎的考察」『千葉いまむかし』No.11、1998年3月。
簗瀬裕一「中世の千葉」『千葉いまむかし』No13、2000年。
「中世の城跡」『市民フォト千葉』No.103 98夏,1-9頁、千葉市総務局市長公室広報課編集発行1998年。
山本勇「大椎城」『日本城郭大系第6巻千葉・神奈川』新人物往来社、1980年。
「千学集抄」(天正年間?)『改訂 房総叢書 第二輯 史伝(1)(2)』1959年

 

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大椎城遺跡めぐり part 1(周辺) 4月21日

▼大椎城周辺の歴史的景観(仮)

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