千葉市の城郭
 

― 支川都川右岸・大宮町ー


城ノ腰城 (2)

 推測:城ノ腰城はいかなる城か

 
■問題点

   城ノ腰城はいつ誰が、どんな勢力がまもった城か

   誰に、どのような勢力を敵として想定していた城か

   なぜこの場所に千葉市内でも有数の規模の堀と土塁をもつ城が築かれたのか

   築城は未完に終わったらしいことは何を意味するか

 城ノ腰城については、これらの疑問を念頭に、板倉筑前守の伝承のほかにも、いろいろなことが言われてきた。いわく、その巨大な堀と土塁から、鉄砲を意識したものにちがいない。秀吉来襲にそなえて急遽つくられたものにちがいない。いわく、支川都川をまもるための城郭ネットワークのひとつだろう。とくに支川都川のさらに上流、後期千葉宗家が本佐倉城に移る前、一時居城としていたという平山城との関連の城だろう・・・・

 いずれも時期的にずれているので相互に背反するわけではない見解だが、「なぜこの場所に?」にじゅうぶん答えるものではない。ここでは「なぜこの場所に?」に焦点をあて、別の観点から推測してみたい。

手がかりは、城の直下にある道標兼石仏(青面金剛)である。

■石仏が教えてくれること

 ▲城ノ腰城下の道標兼石仏

千葉市の道標クイズ 城ノ腰城下 へ
拡大写真はこちら

  最初、何気なく文字を読んでみた。「寛政元年」(1789年)とある。おそらく城の腰城が最終的に機能していた時代から200年以上、たった江戸時代に造られたものである。いい石仏だが、やはり城ノ腰城とは関係ないか・・・そう思ったところ、次に刻まれた文字を見て驚いた。「南ハ 大厳寺」「左ハ 成田道」と刻まれているではないか!「大厳寺成田道」(仮称)が通っていたことを示唆しているのである(→空中写真 →マップ(注1)

●大厳寺成田道(→空中写真

 大厳寺は1551年、原氏が建立した浄土宗の寺であり、その南対岸は原氏の本拠、生実城である。大厳寺道ということは、生実道といいかえてもいい。時代はそれより以前のものかもしれないが、大厳寺自体、館址(大厳寺館)であったといわれている。他方、成田へ至るということは、その手前、本佐倉に至る道でもあるということだ。本佐倉はいうまでもなく戦国期の千葉宗家が本拠とした地である(本佐倉城)。要するに千葉宗家・その有力家臣原氏の本拠本佐倉・生実を結ぶ街道がとおっていたことをこの石仏は示唆しているのである。そしてその「左ハ 成田道」はまさしく城ノ腰城主郭のわき、城域と推定される3郭内を抜けていくのである。この大厳寺成田道に接する部分は、墓地としての利用のために改変されている可能性があるが、虎口状の地形も見て取れる・・・・

 自動車交通から発想してしまう現代の交通感覚からはとても想像できない近代以前の交通事情をこの石仏は気が付かせてくれる。もちろんこの石仏は江戸時代の道標であり、大厳寺成田道が中世にさかのぼる道であると、速断することは危険である。そもそも江戸期においても道標の道が「街道」と呼べるほどの道であったか、確かというわけではない。だがこの道標が示唆するものは大きく、「確かでない」として見過ごせるものではない。

 

●脅威−生実から北上する里見・正木軍

 大厳寺成田道の推定のうえにさらに城ノ腰城にとって重要と思われる史実を重ねてみよう(→マップ)。外山信司1996が高品城についてが説明しているように、永禄期(1558-1569年)前後、千葉庄(現在の千葉市にあたる地域)は、安房の里見・正木軍による度重なる侵攻を受けていた(→千葉市歴史年表)。1561年には千葉よりもはるかに北の原氏の根拠地、臼井城(佐倉市)が正木氏の手に落ちた。また1566年、上杉謙信が臼井城を包囲したが、このときにも里見・正木軍はこれに呼応して北上したといわれる。里見・正木軍にとってどうしても押さえておかなければならないのが、上総方面から見て下総の玄関口にあたり、かつ浜野湊を控えている要衝であり、さらにまた原氏の本拠地でもあった生実城であった。当然、激しい攻防が繰り返されたであろう。実際、史料で確認されているだけでも、生実城は1561年、1570年、1571年と里見・正木軍に奪われている。このため原氏はその本拠を北の臼井城に移さざるをえなくなった。生実城と城ノ腰城の間は直線距離でわずか約3.5kmしかない。大厳寺成田道の道筋の者にとって、生実の地を占領した里見軍は現実的で深刻な脅威であったにちがいない。そしてそれは、大厳寺成田道の先にいる臼井城の原氏、本佐倉城の千葉宗家にとっても基本的に同様であった。

 大厳寺成田道の道筋の中では、二つの河川に囲まれ、南側に急崖をもつ長峯(大宮西部)の地こそ、もっとも防衛上すぐれた場所であったろう。北年貢道の高品城とともに大厳寺成田道の城ノ腰城は、千葉・原氏の防衛ラインの最前線の中核として築造整備されようとしたのではないか(外山信司1995も城ノ腰城を里見に対する原氏の城と位置付けている)。外山信司1996は、高品城の改修時期として里見正木軍の攻勢が最高潮に達した1571年に着目しているが、城ノ腰城築城についてもこの時期に注目したい。しかしこの時期をピークに、里見正木軍の攻勢は急速に終息し、北条vs里見・正木の攻防ラインは南下する。1578年、前年に里見正木両氏より関東出陣要請を受けていた上杉謙信が死去し、北条優勢の大勢は決定的となる。里見正木軍の脅威は去ったのである。城ノ腰城が未完におわったらしいということはこのあたりの事情に関係しているかもしれない。

 

●大厳寺成田道と城ノ腰城

 以上のように、大厳寺成田道を押さえることこそ、戦国後期の城ノ腰城の主要な役割だったのではないか。なぜ市内で有数の規模の土塁と空堀がこの場所に掘られているのかなぜ(西でも、南の先端でもなく)わざわざ台地基部の付け根の東側の端にあたる土塁aの部分をもっとも高所(物見)としているか・・・大厳寺成田道は、これらの疑問を解いてくれるように思われる。

 

 ▲虎口の土塁b上よりみた大厳寺成田道と新都川橋(中央右)

●大厳寺成田道城郭群

 へたの台砦月ノ木砦・城ノ腰城・加曽利城・夕鶴城―大宮の千城台地周辺は、従来より東寺山周辺、生実椎名崎周辺とともに、千葉市内でも城郭の密集地として知られていた(→マップ)。大厳寺成田道の存在を考えると、これらの大宮・千城台地周辺の諸城郭の意味がいっそう理解できる。これらの城郭は大厳寺成田道によってみごとにつながるのである。個々の城郭の存立時期など詳細な検討が必要であることはいうまでもないが、大厳寺成田道城郭群と呼べるグループを想定できるのではないか(注2)

●原氏の城か

 外山信司1995等がすでに示唆しているように、城ノ腰城は原氏の城であった可能性が高いだろう。外山信司1996等によれば、平新左衛門と原越前入道が、長峯 高篠(高品)・原に所領、との記録がある(『香取造営料足納帳』)。長峯とはまさに城ノ腰城のある地域のことであろう。同じ台地の東の坂尾に位置する栄福寺に原氏最後の当主原胤栄が天正2年(1574年)に臼井城内の妙見堂に寄進した黄銅製金箔付きたがね透彫六角型釣灯炉が伝えられていることもこの地と原氏との関係を物語る。また南対岸の仁戸名はやはり原氏の一族である仁戸名牛尾氏の拠るところであり(→「千学集抄」抜粋)、支川都川流域はさらに上流の平山に至るまで、原氏の勢力圏であった(だからこそ原氏によって擁立された後期千葉宗家は原氏の勢力圏の奥深くに位置する平山に拠った)と見る見方がある。これらの状況からいって原氏または原氏に近い勢力の城であった可能性が高いだろう。

 以上、大厳寺成田道が中世に存在したことを想定して、ざっぱくな推測を重ねてきた。より正確で綿密な研究の発展を期待してやまない。

重要な追記-本佐倉移転前の千葉宗家の拠点か 


(注1)「大厳寺成田道」の道筋・・・・陸軍迅測図(明治15年)である程度、推定できるが、月ノ木・へたの台砦以南と加曽利城の以北は、はっきりしない。

 月ノ木・へたの台砦以南については、月ノ木砦の西を南下する経路とへたの台砦の東を南下する経路が考えられる。

 加曾利以北については、南年貢道は江戸期に開発された街道と一般に理解されているので、江戸期には、いささか廻り道気味だが、夕鶴城の北を通って、南年貢道(現、国道51号線)に合流する道筋が有力だと思われる。問題は中世である。(大厳寺成田道があったとしてだが)、いちおう次の可能性が考えられる。

  (1)中世にも、原・南年貢道と呼べるような道があり、北上してそれに接続した(滑橋附近でか?)。
  (2)北西に進み現在の貝塚中学校附近から都賀に至り北年貢道に接続した。
  (3)北東へ進み坂月川を渡り小倉村から吉岡(四街道)へ向かった。

(注2)城ノ腰城と城山城との関係・・・・城ノ腰城より南西約1km、同一台地上に占地し、東金道・川戸橋を見下ろす城山城との関係も問題になる。伝承や発掘調査の結果からは、城山城のほうが古そうであり、城ノ腰城は、城山城の出城であった可能性が自然に思い浮かぶが、確証はない。なお大厳寺成田道は月ノ木砦・へたの台砦の南で、東金道とも交差しており、東金道からやはり原氏の一族の拠る佐倉岩富方面に向かうルートもあるわけであるから、生実に進攻した里見軍の脅威は城山城も同様であったろう。里見軍の侵攻が本格化する以前の時代(1517−1536年)になるが、このルートは小弓城を奪い弥富原氏と抗争した小弓公方足利義明の進攻経路であった可能性もあろう。

(注3)交通の要衝を押さえる城として、北年貢道の高品城、馬渡の小篠塚城があるが、この二つの城には広大な平坦面よりなる外郭を持つという共通の特徴が指摘されている(外山1996)。城ノ腰城についてはどうか。城域がはっきりしないことと何か関係があるかもしれない。


工事中


参考文献【大宮町の歴史】
 
 
(本文での出典は原則として著者名+発表年によります。より詳しい出典の情報はこちらをご参照ください。)
マップ「里見・正木軍の千葉庄侵攻と城郭分布」 遺跡めぐり 2004年 長峰
空中写真 城ノ腰城 千葉市観光情報

「19.栄福寺と貝塚・古墳めぐりコース」

1/25,000地形図:

千葉東部(南西)

国土地理院の試験運用ページ。地形図閲覧システムの利用規定に注意。閲覧以外の利用はできません。

 

△このページの最初へ

●本館メニューへ

●新館トップメニューへ


| 本館トップメニュー |新館トップメニューパノラマ砦|
| ごあいさつ| 掲示板 / 旧掲示板/投稿上の注意| | 活動記録(遺跡めぐり以外)|  
お知らせ|
利用上の注意| リンク集  |


千葉市の遺跡を歩く会
COPYRIGHT 2000
aruke
chibaiseki@yahoo.co.jp

SEO [PR] カード比較  冷え対策 温泉宿 動画無料レンタルサーバー SEO