中世海上交通・水軍の拠点、湊の城
 
 


浜野城

(千葉市中央区浜野)


 浜野城を取り囲むように流れる浜野川(旧名、塩田川)

 

 ■浜野城の発見■

 本行寺(千葉市中央区浜野)の東側に隣接する一画は以前は江戸時代の遺跡「生実藩蔵屋敷跡」として知られていた。 近年、狭い範囲であるが、その一部が発掘調査されたところ、注目すべき結果が出た。中世の城郭と思われる遺構が出たのである(その最初の報告は木内達彦1995)。その時期は15世紀末から16世紀初頭に始まり、生実城が機能していた時期と重なった。生実城を本拠とした政治勢力が当時、海上交通の重要拠点であり、生実の海の玄関口ともいうべき位置(おおよそ東約2km位置)にある浜野湊を守るために築いた城であったと推測される。浜野は、主家千葉宗家を凌駕する実力をつけた原氏の台頭の経済的原動力となったと推定される湊である。小弓公方の時代には古河公方の関宿城攻略のためぜひとも必要だった水軍の拠点であったろう(簗瀬裕一2000)。戦国末期には北条氏のベースキャンプとなった湊である。その湊をまもる「湊の城」「浜野城」があったのだ。むしろ湊が要塞化され、城とされた、と言ったほうがいいかもしれない。「湊の城」である点、低地に築かれた城郭である点、千葉市内でめずらしい城郭というだけでなく、中世房総史、中世の海上交通の諸問題を解明するうえで学術上高い価値を有する遺跡であろう。さらに発掘調査の機会があるなら、重要な知見がもたらされることが予想される。しかし残念ながら、現在、一帯は市街化したおり、地表面を一見しても城郭の存在がわかるような遺構は皆無に等しい。幸い、簗瀬裕一2000(以下、簗瀬2000)が上述の発掘調査の結果を紹介するとともに、地形図・地籍図・絵図を用いて浜野城の復元を試みている。そこで簗瀬2000を頼りに浜野城の跡を歩いてみた。※写真は2000年9月撮影のものである。

(追記) 2008年夏 「主郭跡」(蔵屋敷跡)南西部分(下記)について、宅地開発にともなう発掘調査が行われました。将来その調査報告書が出された段階で、本ページの内容は、訂正される可能性があることにご注意ください。

  

■主郭跡(蔵屋敷跡 字蔵ノ後)■

 古地図には「御蔵」とある場所である。北東端より南東に眺めてる。発掘調査のなされたのは、画面左先の建物のある一画と思われる。かなたに見える民家付近で堀が横切っており、その先は「御蔵」を取り囲むような三日月形の区画をつくっていた。江戸時代の古地図には「城の内」との記載のあるところで、そこが第2郭となる。上記発掘調査によれば、15世紀末から16世紀初めには「ある程度城郭化していた」とのことである。本行寺まで城郭化されるのは、本行寺北の堀の複雑な屈曲などから、戦国盛期以降と見られる。

簗瀬2000によれば、上述の発掘調査においては、

1.土塁、堀、溝、土こう、ピット、貝ブロックが確認されたが、明確な建物跡は確認されなかった。北側の土塁の下から、中世の堀が検出された。土塁は近世の蔵にともなうものと推定されている。外堀は幅約3m。

2.出土遺物は「瀬戸天目茶碗・平碗・擂鉢・、常滑窯鉢・甕、かわらけ、内耳土器、青磁器、銅銭(開元通宝)、白磁器、五輪塔など」ということである。時期は、基本的に生実城の主体となる遺物と併行する、とする。

【重要】 なお、上述の発掘調査においては、中世関係以外で、縄文時代早期の撚糸文土器をふくむ縄文土器、古墳時代前期から平安時代の土器、8世紀頃の瓦、円筒埴輪が出土しており、縄文・古代の低地遺跡としてもおおいに注目される。報告書は出されたのであろうか。ともあれ簗瀬2000年76頁、注33は貴重な情報である。

 写真、左側には外堀が横断する浜野保育園があり、さらに浜野川が流れるという位置になる。堀に併行して南下する暗渠にしたがって進んでみよう。

■主郭跡(蔵屋敷跡)南西部分と第3郭■

 荒地になっているところが、蔵屋敷の南西部分にあたる。簗瀬2000によれば、写真右端に暗渠が走るが、その左側に併行する位置に堀が掘られていたようである。堀は、右端民家の先・樹木の向こうあたりで分岐し、その分岐した堀は画面左、中央の民家の方に向かうようである。分岐した堀とそのまま伸びる堀の間の空間、写真前方右側が第3郭である。第2郭「城ノ内」は、写真左側の先(民家の向こう側)になる。

 

■如意山本行寺(浜野城第4郭)■

 簗瀬2000は、戦国盛期には本行寺の敷地付近も浜野城の城域になり、第4郭をなしていたと見る。写真手前は本行寺公園。1469年、日泰上人(→土気酒井氏が「谷」にあった廃寺をこの地に移し、開山した(なお本行寺は江戸時代に別の場所(といっても近くだが)からこの地に移ったとという説がある)。1509年(永正6年)に小弓の原氏を訪れた連歌師柴屋軒宗長(1448-1532 今川時代が宿舎としたことが知られている。本行寺が浜野の町の中心であったのであろう

けふはことに日も長閑にて、かつしかの浦春の如し、
 
原宮内少輔胤隆、小弓の館のまへに浜の村の法華堂本行寺旅宿なり

――柴屋軒宗長「東路の津登」永正六年(1509)年10月

 浜野湊は諸勢力にとって重要な拠点であった。小弓城ないし生実城は何度も落城しているが(→年表、それは浜野湊をめぐる争奪戦といってもよいのではないか。簗瀬2000は、本行寺は浜野の湊を管理する役所の役割を果たしていたであろう、としている。戦国末期になると、浜野湊は「北条氏のベースキャンプ」となった(宍倉健吉1986)。元亀2年(1571年)の北条氏政の本行寺宛制札と添状が残っている。実際の浜野の管理は、当時小弓から臼井に拠点を移してしまった原氏でなく、北条氏の許可のもと、土気酒井氏(→土気城が行ったようである。北条氏にとって、対里見との前線が上総安房へと南下していくごとに浜野湊の軍事的意義がいっそう高まったのであろう。村田川源流の内陸に本拠をもつ土気酒井氏にとっても浜野湊は物資輸送の重要な拠点だった。

 1590年戦火により本行寺は灰燼に帰した。一説には土気酒井氏(→土気城)の家臣たちが本行寺に立てこもり秀吉軍と一戦しようとしたところ、かつて北条氏のため池和田城を失った多賀内繕が本行寺に放火したという(『土気古城再興伝来記』)。浜野と土気酒井氏との関係、浜野城の存在をうかがわせる話で興味深いが、史実かどうかは不明である。

正面から見た本行寺。

本行寺入口(堀跡

 画面左右に外堀が通っていたと推定されている。画面上の民家は堀が埋められた上に建っていることになる。前方は、浜野城4郭にあたる。その主要部は本行寺の敷地(画面やや右方向)である。主郭は、本行寺のさらに先。
 本行寺の周辺にまわると推定されると堀の北側の部分は、複雑な折れ歪みがみられるようなので、主郭よりも後の時代に城郭化されたものであろう、ということである。
 
 外堀跡(主郭北東側浜野川開口部付近)

 浜野保育園の庭。北西を向きに撮影。左手前すべり台付近から前方建物の方向に本行寺北辺から伸びる外堀があったと推定されている。この保育園の向こうは浜野川であり、外堀は浜野川に開口していたと考えられる。
 簗瀬祐一2000は、防御用の堀と、船の係留、荷揚げの場を兼ねたものであろうと推定している。

 

参考文献

木内達彦1995 「生実藩蔵屋敷跡」『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査交北諸 −旧下総地域−』。

宍倉健吉1986 『千葉市南部の歴史』千葉市教育委員会。

千葉市1986 『千葉市史跡整備基本計画』 

千葉県文化財センター1998 『第376集千葉県埋蔵文化財分布地図3−千葉市・市原市・長生地区(改訂版)− 』1998年6月。

簗瀬裕一2000 「小弓公方足利義明の御座所と生実・浜野の中世城郭」『千葉城郭研究』第6号、2000年7月 ※きわめて重要な論文。

 

 

生実の歴史的景観

おゆみ探訪:特別編 南生実の章 1.南生実城を遠望する

おゆみ探訪 ―戦国動乱の古城址を歩く 2000年10月8日(日)
1/25,000地形図:

蘇我(北西)  
 浜野城 本行寺 
 北生実城(生実城) 南生実城(小弓城) 立堀城 

国土地理院の試験運用ページ。地形図閲覧システムの利用規定に注意。閲覧以外の利用はできません。

◆浜野城(主郭)の位置:北緯35度33分32秒,東経140度7分43秒 主郭は本行寺東北東隣。北生実城より約1.75km。南生実城より東北東約2km。浜野駅より北北東約750m。

◆北生実城(生実城)の位置:北緯35度33分59秒,東経140度8分42秒 「生実町」の文字をふくむ一帯が城域。主郭は「本城公園」付近。重俊院北東。

◆南生実(小弓城)の位置:北緯35度33分15秒,東経140度9分2秒 北生実城の南南東約1.5m。主郭は八剣神社の東。

◆立堀城の位置:北緯35度34分25秒,東経140度10分41秒 鎌取インターチェンジの北東約200m。

 

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