遺跡めぐり | |
2004年1月25日(日)
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― 大宮町・支川都川右岸の城郭群 ー
バス停「和田新田」−12分−城ノ腰城−20分(支川都川散歩道<コスモスロード?>)−城山城−5分−栄福寺(館跡)−10分−(押元貝塚−5分−)バス停「大宮学園入口」(解散) |
旧長峰村へ
■大宮町・千城台地
大宮町の台地(千城台地)は、平山方面から北西に延びた台地ですが、その北−西−南は、北の都川本流、南の支川都川(仁戸名川)に囲まれています。さらに台地の付け根である南東側では、南から北へ都川の一支流が小谷を刻んでおり、独立性の高い地形をなしています。これらの河川は、軍事的には、天然の堀として機能したでしょう。(ちなみに現在の国道126号線〔現東金街道〕と和田新道に該当する道は明治15年測量の陸軍迅測図には記載されていません。)また実態は不明ですが、経済的には、これらの河川は水運という観点から注目されます。 和田新道を南東に進み、大宮町・千城台地の先端部から旧長峰村に入ります。 (注1) 現在大宮町にあたる地域の行政区画は、 長峰村・坂尾村→長峰村(江戸初期)→長峰村・坂尾村(1679年)→ と変遷した。旧長峰・坂尾両村の地所は入り組んでいるが、おおまかにいえば、長峰(長峯とも表記)は、西側(北西)の地域にあたる(西山太郎1988;『千葉市図誌』など)。 (注2) 大宮町の「大宮」は、村の鎮守である大宮大権現にちなんで名づけられた(『千葉市図誌』)。「千城」は字名「千城」(菊池真太郎・谷旬1974)によったものと思われるが、「千城」はこの地域に城が多いことに由来するという見解がある。 (注3)和田新道について、「千葉常胤の時代、猪鼻城によりはやくかけつけられるように新設した」という説明があるが、疑問である。 |
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現大宮町(旧長峰・坂尾村)の一帯は、坂尾五郎治(さんごのごろうじ)という人物が開いたといわれています。五郎治は平常長(千葉常胤の曽祖父)の家臣で、主君とともに源頼義旗下として前九年の役(1056-1063年)に参戦したが、その功により、この地を与えられ、各地区を一族郎党に開発させた。現大宮町の西部をなす長峰地区については、五郎治の末孫和恵を娶った長峰田所三郎という人物が開いたというのです。一方、源頼朝が安房に上陸したとき(1180年)、頼朝を迎えにいった千葉常胤の留守中、平家方の下総守藤原親正が千葉荘を攻撃するという事件が史書に記載されていますが、このとき親正を撃退した者の中に、常胤の孫、加曽利冠者成胤とともに、長峰田所(または帰所)三郎胤行の名が見えます。(以上 山本勇1980aなど参照) 史実かどうかわかりませんが、開発領主として勃興した関東武士団の姿を想起させる貴重な伝承ではありませんか。 忠常の御子常将父子討死にければ、常将の御子亀寿丸[千葉太郎、平常長]六歳に成り給ふを、乳母の夫内田五郎則定、「此の若君討たせては、千葉家の正統断絶なり」と思ひ、「如何なる山谷深林へなりとも隠し奉らん」と、御供して出けれども、諸方の道筋には敵充満して、落つべきようなければ、「何卒一方を切り抜けん」と思ひけり。此の時、亀寿の君に付き随ふ人々には、利根五郎、岩富九郎、船尾太郎、松丸七郎、本納三郎、坂尾五郎治、是等内田則定と同じく踏み留まりて苦戦す。其の内に、船尾・松丸は亀寿丸の御供して上総の方へ落ち行きけるが、残る人々は、ようように一方を切り抜けて、辛き命を助かり、「これ偏に妙見尊の加護なり」と悦びて、亀寿丸の御後慕ひ落ち行きけり。 ・・・時に、源頼義朝臣奥州安部貞任宗任追討の砌ゆゑ、諸国に触れられけるは、「たとひ罪科流人の武士たりとも、今度吾が幕下に来たりて、朝家の為に忠戦ある者は旧科恩免有るべき」由、申し出されければ、則定は「時こそ得たれ」と、若君の行方を急ぎ尋ねて、上総の国国分寺に忍び在する由聞き届け、彼の寺に参着す。亀寿丸幼けれども、御悦び限りなく、それよりも東の大友へ御供し、此所にて御一族譜代恩顧の者供集めたり。 第五代 常長 亀寿丸 千葉太郎 長男常兼 大椎権之介 千葉太夫 ・・・ 此の時、常長へ馳せ参りし人々には、御一族中村小太郎常方、利根の五郎、岩富九郎、船尾太郎、松丸七郎、本納三郎、坂尾五郎治、内田五郎、岩佐八郎、椎崎三郎、船橋弥太郎、城平太、深町七郎、この外、雑兵ども二百余人なり。これを引具して頼義の御幕下に属し、貞任の征伐九箇年の勲功に依り、上総の国大椎の郷を下し置かれり。然れども、御座所は東の大友と旧書に見ゆ。(『千葉実録』) |
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■江戸初期の領主 板倉筑前守の伝承
時代がくだり、大宮地域は板倉筑前守(または筑後守)の所領となったといます。そしてわれわれの目的地である城の腰城、城山城、栄福寺館は、それぞれこの板倉筑前守の城であり、館であるとの伝承があるのです。板倉筑前守とは、山本勇1980aによれば、寛永16年(1639年)にこの地を知行した板倉重直と比定されます。この重直は、1638年、島原の乱で戦死した板倉内膳重昌(大阪の陣絵巻)の次男です。未調査ですが、重直が大宮の地を知行するに至るのも、父重昌の戦死(ほとんど自死)が関係していたのでしょう。島原の乱という当時の大事件が関東の小さな村の支配にも影響しているかもしれないことは、ありうることとはいえ、感慨ぶかいです。それはともかくこの時代になってのこの地方での築城は考えにくく、当地の城が板倉重直の城だというのは、山本勇1980aのいうとおり疑問があります。伝承は鵜呑みにできないという一例でしょう。 |
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■重要な追記 ―千葉宗家の本佐倉移転前の拠点か 2010年6月26日(土)千葉市民会館で開催された平成22年度千葉市史研究講座(第一回)「千葉市の戦国時代」において、黒田基樹氏が「戦国時代の千葉氏御一家」という講演をされた。そのなかで重要な指摘があったのでここに記す。 |
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城ノ腰城へ |
参考文献【大宮町の歴史】 (本文での出典は原則として著者名+発表年によります。より詳しい出典の情報はこちらをご参照ください。) |
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