七天王塚の謎 (その2)

荒久古墳との関係は?

 

荒久古墳

※写真中央、樹木の繁っているところ。南側下より撮影。

 千葉大医学部構内古墳・七天王塚の南東約800mのところに荒久(あらく)古墳がある。

  1.古墳の形態がことなる、

  2.地形的に生産基盤となる谷が別である

等の点から、両者は、別の集落の長の古墳と見る見方がある。しかし

  1.荒久古墳は千葉大構内古墳より約1世紀後の、新しい時代のものである。

  2.距離は近い。

すくなくとも何らかの関係があった可能性は大きいのではないだろうか。

 *****

 荒久古墳がとくに注目されるのは、

荒久古墳を造った勢力が、のちに千葉寺(荒久古墳の西約500m)を氏寺として造営した勢力であり、そしてその勢力こそ、文献史料に現れる千葉国造である

  という可能性があることである(『千葉市史』武田宗久氏執筆部分等参照)。むろん、これは<可能性>であり、<仮説>であり、批判的に験証されなければならない<推測>である。そもそも千葉国造がこの付近を支配していたかどうかもよくわからないのだ。しかしそれゆえにこそ<おもしろい>のである。

 さて千葉大医学部構内古墳・七天王塚と、その荒久古墳をつくった勢力と関係あるとしたら・・・ますますおもしろくなる。

 

 

 荒久古墳の標柱 (墳丘上石室入口付近)

荒久古墳 


(あらくこふん 千葉市史跡 1961年3月31日指定)

 千葉寺支谷の最奥部にあたる台地先端に位置する。千葉大学構内前方後円墳7世紀前半頃)、七天王塚の南東約800mである。現在、青葉の森公園の中にある。周辺地表が削られてしまい1辺9mほどになっているが、もともとは一辺約20mの方墳であったことが調査の結果わかっている。説明版によれば、大陸の墓制の影響を強く受けた最終末期(8世紀)の古墳である。

 1891年(明治24年)に発掘調査が行われたが、出土した遺物は散逸してしまい詳細は不明である。その後、1959年武田宗久氏により発掘調査が行われた。このときは一体分の人骨琥珀製棗玉(なつめだま)3個、鉄製馬具が発見された。埋葬施設は凝灰質性砂岩を素材とする横穴式石室である。石室は、羨門(せんもん)と玄室と両者を区切る石門からなり、玄室の入口は幅約1,2m、奥行き約2.07m、奥壁幅約1.4m、床には粘土が敷かれている。そこに木棺が安置されていた、と推定される。天井には6枚の巨岩がのっている。(以上、『千葉市史』および千葉県の設置した説明板による。)

 この一帯が畜産試験場であった数年前までは、石室が露出しており、許可を得れば、石室内に入れる千葉市内では唯一の古墳だった。現在は埋め戻されている。千葉市によると、「青葉の森公園整備の際に安全管理上、埋めたらしい」とのことである。なお貴重な荒久古墳の石室内の写真は、自称「穴リスト」、物怪守屋さんのサイト、大倭穴友会〜古墳と横穴式石室のページ〜原色石室図鑑に掲載されている。古墳や石室について詳しい説明があるので、ぜひ訪問されたい。

 (批評)古墳のわきに説明版は設置されているが、公園の出入り口など、数箇所に置かれている青葉の森公園全体の案内板には荒久古墳を示すものが何ももない。これはどうしたことだろうか。せっかく保存していても、青葉の森公園を訪れた人の多くが千葉市の指定史跡である文化財に気が付かずに帰ってしまう。千葉県に改善をもとめたい。 

 

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七天王塚の謎(その1) (その2)

 

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