遺跡めぐり
  2002年9月16日(月)

古代亥鼻をあるく

― 猪鼻城跡・七天王塚と矢作貝塚 ―

 
この夏、千葉大学構内で前方後円墳が発見され、話題になりましたが、この機会に、中世より前の時代に焦点をおいて、亥鼻台地をあるきました。

 

 ■コース(10:00-12:30

  千葉市郷土博物館(集合)→猪鼻城主郭跡(市指定史跡)→七天王塚(千葉大学構内遺跡)矢作貝塚(矢作砦)→矢ノ坂(いやんさか)→千葉大学附属病院入口(解散)

 

集合場所。千葉市郷土博物館西わき。猪鼻台地上の遺跡全般、猪鼻城の性格について話がありました。土気城や大椎城とはかなり性格が異なる城であり、それほどの要害ではない。また各時代を通じてずーっと遺跡が存続するというのではなく、各時代の遺跡がぽつりぽつり存在する、という感じである。都川の河口に近く、古代の東海道が通る、ある種交通の要地であるという地理的な位置関係が背景にあるかもしれない、ということでした。
 郷土博物館前の虎口(城の出入り口)。土塁の手前地下に空堀が埋まっています。  
  郷土博物館東わき。発掘調査が行われた場所。弥生時代中期・後期の集落跡がありました。南から入り込む谷(東禅寺谷地、字「東禅寺作」)(→こちらの上の写真=、東禅寺の西台地付近から東を眺めた写真)が重要である、とのことです。
 郷土博物館から千葉県文化会館の付近には気をつけてみると、微細な土器片が落ちていることがあります。右の写真は下見のとき、発見した須恵器片(ボールペンの先の灰色の物体)。車がビュンビュン通り過ぎる道路のわきにありました。

 上の須恵器片を拾い上げて土を落ちして見ると、こんな具合です。いわゆる叩き目(たたきめ)がついています。写真ではわかりにくいですが、赤いものが・・・朱か?

 講師の先生の鑑定によれば、甕の一部。平安時代のもので、在地の窯で焼かれたものであろう。千葉市金親町付近に中原窯宇津志野窯などいくつかの窯があった2002年12月御成街道・御茶屋御殿周辺)が、そこで製造されたものではないか、ということでした。

 やはり少し離れた道路わきの地点に、こんどは、土師器片を発見!同じく平安時代の頃のもので、甕の一部だろう、とのこと。
 郷土博物館を後にして、北へ。千葉大学構内の七天王塚の方へ向かいます。前方信号の左右に横切る通りは旧東金街道(現、病院通り)です。従来の通説的な見方によれば、ここから先が猪鼻城の外郭ということになります。ただしこの夏の前方後円墳の発見など新たな考古学的知見から、この見方についても早晩、議論が起こるでしょう。

模擬天守と騎馬武者像

模擬天守=郷土博物館前

同左

 千葉大学医学部構内、七天王塚5号塚近く(七天王塚一覧はこちら。人の影に隠れてみえませんが、8月発掘調査終了後に前方後円墳1号墳の横穴式石室がここに運ばたようです。これを運んだ人はたいへんだったでしょう。しかし残念ながら、雨でかなり崩れてきています。切石は、軟質砂岩なので、樹脂などで固めないと、保存は難しいようです。

 七天王塚5号塚(七天王塚一覧はこちら。木を切ると祟るなど、数々の恐ろしい伝承で有名な七天王塚のひとつです。聞くところによると、今も、毎月かならずお祭りがなされているとか。
 七天王塚6号塚(七天王塚一覧はこちら。全体に墳丘の上が平たく、「ザブトン古墳」と俗に言われているものに近いそうです。この種の古墳には木棺直葬の古墳が多い、とのこと。今回千葉大構内で発見された前方後円墳の近くで調査された木棺直葬墓も、この種の古墳だったかもしれない。またそれゆえ七天王塚として一括されている塚も、2種類に分けられるかもしれないとのことでした。
 千葉大学医学部校舎と医学部附属病院の敷地の間には、北の都川の方から谷が入り込んでいますが、病院との間をむすぶ土橋の上から、その谷を見ているところです。弥生時代から古墳時代にかけてこの台地上の集落の人々は、南の谷のほか、この谷にも水田をつくっていたかもしれません。ここまで猪鼻城の範囲だとする通説が正しいとすると、この谷は大きな堀の役割を果たしたかもしれません。
 前方後円墳が発見された医学薬学研究棟建設予定地。工事が始まっており、ネットごしに、調査現場をみました。工事開始前の様子は、医学部構内遺跡MENU で。

 工事車両の進入路を整える工事か?病院通りに接するところは進入口として削られました。ちょうど車両の見えるあたりの地下に、前方後円墳2号墳の本体があるわけで、心配です。
 七天王塚1号塚(七天王塚一覧はこちら。古墳であるならば、千葉市内としては、残りのよい古墳とのこと。
 同上。

前方後円墳石室前

七天王塚5号塚

七天王塚6号塚

 七天王塚を後にして、矢作(やはぎ)へと向かいました。写真はいわゆる都川給水塔。 ちょうどこれをとりまく一帯が縄文時代の環状貝塚、矢作貝塚です。貝層は北の都川の方に開口しています。最近、君津の三直貝塚で話題になった環状土盛り遺構に類する地形も見え、環状貝塚との中間形態であるように見られるとのことです。

 なおこの給水塔(千葉県水道局千葉浄水場都川給水塔)は、昭和12年に建設された外観5階、正12角形の建物で、アールデコ風(?)の「均整のとれた洒落た」つくりと評されています(千葉県の近代産業遺跡による)。現役だそうですが、それ自体近代化遺産です(そのほか、千葉県現代産業技術館のページ)参照。

 

 また矢作貝塚は、堀の内2型期も連続して存続しており、千葉市内ではめずらしい貝塚であるそうです(加曾利貝塚では堀の内2型期には居住地は加曽利貝本体から離れる)。矢作貝塚等についてはこちらまたyygucciさんの千葉市の貝塚も御覧ください。
 残念ながら、今の時期は雑草が生い茂っており、貝殻が散布している状況はよく見られませんでした。しかしこの通り、貝塚であることはじゅうぶんうかがえました。そのほかいろいろ活発な質疑応答がありました。なおこの付近は猪鼻城の出城、矢作城(矢作砦)の跡ともいわれています。

 矢の坂(イヤンサカ)。この坂を地元の人はそう呼びます。矢作の地は、矢をつくる職人集団が住んでいたことから、「矢作」と呼ばれるようになったといわれています(一説には、中世猪鼻城に関連する集団。一説には古代、大化の改新前の「矢作部」)。その職人集団が矢の材料につかった矢竹が現在もこの付近に生えているといわれています。写真右下、路傍に石仏があり、それを見ています。

 途中から振り出した雨が本降りにならないうちに、解散。青葉の森の荒久古墳は別の機会に見学することにしました。

 講師の先生、お忙しいところ、どうもありがとうございました。

七天王塚と附属病院

病院庭

矢作貝塚

yygucciさん、矢野さん撮影の写真を一部使用させてもらいました。

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(参考文献)

大谷克巳『千葉の牛頭天王』大谷克巳教授退官記念会1988

千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)』2000

千葉県文化財センター『矢作貝塚 2』

『千葉市史 資料編 原始古代中世編』千葉市 1976

千葉市教育委員会・千葉市文化財調査協会編『千葉市猪鼻城跡』1999

千葉大学猪鼻地区埋蔵文化財調査委員会「猪鼻城跡(千葉大学亥鼻地区構内遺跡)説明会資料」200288

 

 

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猪鼻城・千葉大学医学部構内遺跡ページ 

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現地説明会(南)―2号前方後円墳など

現地説明会(北)―1号前方後円墳石室

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七天王塚の謎

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