2002年12月1日(日)

御成街道・御茶屋御殿周辺をあるく

 

― 金親町・御殿町周辺 

 


 東金御成街道は、家康が東金で鷹狩をするためにつくられた船橋・東金間をほとんど直線で結ぶ道路です(政治的背景については後述)。千葉市若葉区金親町から御殿町付近には当時の街道の雰囲気をうかがわせる町並みと家康の休憩宿泊施設、御茶屋御殿の跡がのこっています。

 金親町・御殿町付近から1kmほど南にいった台地下は東京湾に注ぐ都川流域になりますが、金親町御殿町付近は印旛沼・佐倉方面へ流れる鹿島川の水源地であり、北の方から谷がいくつも入りこんでいます。縄文〜江戸各時代に佐倉・印旛沼方面の影響がうかがえます。


 

 ■コース(9:30-11:45

 千城台駅(集合)→ちょうちん塚(御成公園)→荒立貝塚(土器塚)高札場跡→北寺山古墳群→中原窯跡御成街道→北寺山西遺跡→金光院宇津志野窯跡→御成街道→御茶屋御殿(解散)

   ※ 茶屋御殿は水道・トイレなどの設備がないのでご注意ください。

●参考

イベントお知らせページ2002年12月

 

千葉市歴史年表関連部分

 

1/25,000地形図:千葉東部(南東)

国土地理院の試験運用ページ。地形図閲覧システムの利用規定をよんで見ましょう。たいへんよい地図なのですが、閲覧以外の利用はできません。

ちょうちん塚(御成街道)から荒立貝塚へ

 写真左右に御成街道が通っています。中央やや左の高まりがちょうちん塚(の残存部)。御成街道をへだてた前方つきあたりの藪にもう1基のちょうちん塚がある(?)。
 近くから見たちょうちん塚
 縄文時代後期〜晩期の環状点列貝塚、荒立貝塚(あらたち)[千葉市内大型貝塚リストへ]。写真でははっきりしないが、白いのは貝殻です。細かい土器片もかなり多く散らばっています。荒立貝塚は、その西側で北の方から谷が入っており、印旛沼(古鬼怒湾)に注ぐ鹿島川支流の水源地にあたります。しかし荒立貝塚で見られる貝種はイボキサゴなど東京湾のものです。荒立貝塚の縄文人たちは、南の都川を下り東京湾の方に出て漁をしていたようです。なお園生貝塚研究会によれば、写真外右の駐車場になっているところの下に大きな貝層と土器塚があるようです。  

 なんだかわかるでしょうか?砂利ではありません!縄文土器片です。いわゆる土器塚でしょう。
 道路の反対側もこのとおり。縄文土器の細片。白いのは貝殻です。どうやら土器塚に道路を作ったようです。まさか砂利代わりに土器片を使った・・・?

 園生貝塚研究会によれば、この荒立貝塚には土器塚状の箇所が何箇所かあります。一般に、古鬼怒湾・印旛水系の縄文遺跡の特徴として土器塚の存在が指摘されています。荒立貝塚は、貝種は東京湾のものが主体をなしますが、古鬼怒湾・印旛沼方面との関わりがうかがえる学術上重要な貝塚です。

 なお荒立貝塚は道路建設のほか宅地開発も行われていますが、これまで一度も発掘調査は行われていません。

 古鬼怒湾(こきぬわん)・・・2万年前頃から地球温暖化が進み、縄文時代には、茨城県南部から千葉県北部、現在の利根川、鬼怒川、印旛沼をふくむ広大な地域に海が入り込んでいました。この内海は「古鬼怒湾」と呼ばれています。

中原窯跡

 高札場跡からいったん谷津(金親町谷地)へ下り、平安時代、9世紀中頃、下総の須恵器生産の拠点、中原窯跡へ向かいます。「谷風がふきあがってくるような地形のところに窯がつくられる」といいますが、よくわかります。

切通しのところを見ると・・・
  須恵器片がいくつも露出しています。

 なぜこの地が須恵器生産の拠点として選ばれたか、大問題です。役所や寺院、有力豪族など何らかのバックがあったと思われますが、それが何かは不明です。同じ台地500m北東には金光院が現在地に移る前、もともと所在したという伝承がのこる場所(旧金光院跡)があります。また中原窯跡は1974年頃、市内遺跡分布地図の作成の際、加曽利貝塚博物館職員が武田宗久氏より「布目瓦等の出土する場所」として教示を受け現地を踏査した結果、須恵器窯跡と認識されるに至ったという経緯もありますので、瓦の生産が行われていなかったか、が気になるところです。1989年に千葉県文化財センターが実施した確認調査では、108の瓦片が出土したのですが、瓦の焼成が行われた窯の存在は確認できなかったとのことです。

 
   台地上の窯跡に上がってみました。第一窯の跡です。平坦面が二段になっておりその下段です。平坦面とはいえ緩やかな斜面になっています。ここに穴窯がつくられていたのです(ローム層を掘り込んだ半地下式窖窯)。穴窯についてはyygucciさんの千葉市の貝塚を御覧ください。

 1989年の確認調査では、ここを含め2基の窯跡と灰原が確認されていますが、窯跡の範囲はさらに南側に広がっている可能性が指摘されています。上段の平坦面には集落跡が展開しているとのことです。工人たちが住んでいた集落の跡でしょう。

 

 この遺跡を綿密に調査することにより、当時の社会体制の根幹に関わるいいろいろなことがわかるわけで、たいへん重要な遺跡です。中原窯でつくられた須恵器は、下総各地に供給されたようです。ここでつくられたのと同じ特徴をもつ須恵器は千葉市内はもちろん、八千代市や東金市でも見つかっています。(歩く会のとき、猪鼻台地で見つけた須恵器片はこちら

  ※八千代市村上込の内遺跡、萱田地区遺跡群、千葉市東南部地区遺跡群(いわゆるおゆみ野の遺跡群)、東金市久我台遺跡などで中原窯跡のものと思われる須恵器が確認されている。一方、中原窯跡では「山口」と線刻された須恵器片が見つかっているが、これは有名な山田水呑遺跡など奈良平安時代の大規模集落跡のある山口郷(東金市)を指しており、中原窯がそこに製品を供給していた可能性が高いと考えられる。実際、山田水呑遺跡では、9世紀中頃の住居跡から中原窯のものと思われる須恵器が出土しているそうである(以上、関口達彦『千葉市中原窯跡確認調査報告書』千葉県文化財センター・千葉県教育委員会1990年)

御成街道から金光院へ

 御成街道にもどりました。写真中央やや右、街道沿いの樹木が生えているあたりが高札場の跡です。
 御成街道と長屋門(金親町石井家)。

 『元禄郷帳』では金親に「かのをや」と訓がついているそうです。

 金光院の山門御茶屋御殿の門(表門と裏門と両方の説がある)を移築したものといわれています。

 金光院の号は愛染山延命寺(古くは寿徳寺)。真言宗豊山派。正応2年(1289年)に貞成が中原(旧金光院跡)に開山したが、天文20年(1551年)に焼失原胤清が山林を寄進し、現在地に再建されたといいます(説明版等による)。正応2年の2月の武蔵型板碑、同年の墨書箱書きのある大曼荼羅が所蔵されているそうです。

 

 ※原胤清・・・孫次郎、式部少輔。千葉家の筆頭家老の家系、原氏の当主。1517年、上総武田氏(のち足利義明)に本拠小弓城(千葉市生実または南生実)を奪われたのち、家老の高木氏の居城、根木内城(松戸市)に逃れて、小弓城奪還の機をうかがっていたが、1538年国府台の戦いにおける足利義明の敗死を機に、小弓城を奪還しました。新たに生実城を築城し嫡男の原胤貞を置いたというが、詳細不明。1555年頃には家督を嫡男の胤貞に譲ったらしい。千葉親胤の後見という立場であったが、1557年、北条氏康の命令で反北条の勢力と結ぼうとした千葉親胤を暗殺したといわれています。(千葉氏の一族参照。)

 ※金親氏・・・金光院が火災にあう前年の1550年11月23日に妙見宮(現、千葉神社)御遷宮が行われました。その参列者の記録には千葉親胤、原胤清につづき、金親兵庫政能という人物の名が見え、胤清の馬を請けとる役をしています。『さらしな風土記』によれば、金親字フキラに「堂屋敷」(俗称「殿屋敷」)と呼ばれる場所があるとのことです。金親町の山林には、大きな塚があり、中世の五輪塔の一部および板碑がいくつか見られます(この板碑については、千葉市議会で取り上げられていました。1999.10.01 : 平成10年度決算審査特別委員会(第5日目)野本信正議員の質問および田村多一郎生涯学習部長の応答、参照)。これらは金親の在地領主である金親氏と関係があるかもしれません。秀吉の北条征伐・関東制覇の結果、金親村での居住が許されず追放されたという家伝をもつ金親姓の家が千葉市内にあるそうです(歩く会参加者からの教示)。

そのほか『千学集抄』には次の記述が見えます。

 「屋形様御役人の子金親は、御旗差の御役なり。中治は御長持取り出し申す。御陣の奉行也。此の故に、いづれも名字の者なり。」(「千葉御家御元服儀式の事」)

 「胤直の時、妙見菩薩を寺崎に捨て申せし所、覚實法印御供ありて十二間の客殿に移し参らす。「屋形様より大切の御神預也」とて、供分六人に老成者(おとな)六人さし添へられ、御番仰せつけられる也。覚實は外の屋敷寺家へ移らる。・・・・蓮乗坊 同草香邉殿 (同跡 金親三郎左衛門)  福壽坊 同山崎殿 (同跡 金親兵部少輔) (「妙見御番の事」)196-7頁」

 「一、十たてよりふきおくる間、こくもつとりあつかひ、金親兵部少輔致されけり。」

 「常覚の御時、那須兵部といへる人、新五郎両人して、夜中に慶陽坊を捕られし事の現はれけるを、金親兵部丞、市原新左衛門、成田与五郎右衛門に仰せ付けられ、九月二十九日討たせにけり。」

 「御遺跡常覚の世に、左近八郎佐倉へ参り、深山新六所を宿に取りて  金親彦四郎同兵部少輔、並に新六三人をもて申さるるは、「御神事銭二貫上げ申すべし」とて、御むづかしき事なく、「馬人御よりなさるる事あるまじ」とて、御一礼を取りて帰られ、二貫づつ上げられけり。」

 ※弥富原氏・・・同じく妙見宮御遷宮参列者の中には原胤行の名も見えますが、この人物は弥富(やとみ、いやとみ)原氏のひとりです。弥富原氏は、原一門の有力な一派で、当時、金親から鹿島川の数キロ下流の岩冨城(現在の佐倉市岩富町)を本拠として、千葉市若葉区谷当、大井戸、下泉、上泉(→女城)、古泉、中田を含む鹿島川中流域(白井荘)を支配していました。金親もその勢力下にあったという可能性もあるのではないでしょうか。
 原胤行自身は1538年の国府台の戦いに北条側として参戦していますが、『本土寺過去帳』等の資料によれば、胤行の兄(弟?)にあたる原朗久は1517年に弥富で、原朗伝(弥富原氏当主)は1535年小弓で、討ち死にしており、原本家の小弓退転以降、弥富原氏が上総武田・安房里見・足利義明らの勢力と攻防を繰り返していたことがうかがえます。弥富(岩富)と小弓との間に位置する金親周辺もこのような歴史と無関係ではなかったでしょう。(
更科郷土史研究会編『さらしな風土記(更科地区の歴史)』、柴田さんの千葉一族参照。資料についておおいに負っています。)

 金光院本堂「神君お手掛けの桜」。家康がたいそう誉めたという桜です。元和元年(1615年)家康が東金鷹狩の際、金光院に立ち寄っており、そのとき使用した什器・衣類が保管されているそうです。

金光院谷津から宇津志野窯跡へ

 金光院下の谷津(金光院谷地)。鹿島川水系の最奥部のひとつであり、北の印旛沼方面へとつながっています。右の半島状地形の向こう側の谷が宇津志野窯跡です。

 なおこの金光院谷地は、数年前、千葉市環境局により谷津田保存の候補地としてとりあげられ話題になったことがあります。

 宇津志野窯跡。一部時期的に重なりますが、中原窯の後、9世紀後半から稼動した窯です。
 あった。須恵器片が落ちていた。
 宇津志野窯跡で地面から露出した須恵器片。ふつう須恵器は青灰色ですが、左の写真のように、この時代の下総の窯でつくられた須恵器にはこげ茶色のものが多いのです。この特徴から「くすべ焼き」との関連が指摘されたことがありました。(須恵器の焼成等に関連する問題については、yygucciさんの千葉市の貝塚を御覧ください。)

 

 
 一般に杯底部の切り離しは、糸切りとヘラ切りの二種があるのですが、南河原坂(土気)などの上総の窯は、糸切りであるのにたいして、中原窯、宇津志野窯など下総の窯はヘラ切りです。ヘラ切りを代表するのは常陸だそうで、ここでも印旛沼方面との関係が注目されるのです。なお切り離し後の調整は、回転したままヘラ削りをするものと、手でもってヘラ削りをするものがありますが、中原窯は前者が多く、宇津志野窯は後者が主体をなすのだそうです。(以上、『房総ライブラリー 歴史時代(1)』)  

御茶屋御殿へ

 土橋から空堀をみたところ。V字型の薬研堀です。右は土塁です。その右が内部になります。土塁の基底幅6.5m、高さ約2.2m。空堀深さ、2.9m、上面の幅5.4m。1614年1月に行われた家康の東金鷹狩の直前、御成街道とともに急造され、以来、1630年11月まで、3代にわたって使用されました(家康2回、秀忠11回、家光1回)。1670年代に東金御殿が取り壊されているので、御茶屋御殿もそれまでに廃絶したと考えられています。歴史的背景については 年表参照。

 

 御茶屋御殿。南の大手の虎口から、北の虎口を見ています。手前は土橋で、両側に空堀が掘られています。

 同じような施設は各地につくられましたが、現在、ここほどよく残っているところはないのです(船橋御殿跡については、さわらび通信中世船橋と千葉の湊・巨大五輪塔の記憶参照)。

 御茶屋御殿内部。運動場として使えそうな平坦なスペースが広がります。1992年には御主殿、大広間、休息所など8棟、1993年には72mに及ぶ長屋、1994年には番所、御鷹部屋とみられる掘立柱建物跡が検出された、ということです。写真左あたりが御主殿、大広間の位置になると思われます。

 小雨がときどき降る中、お疲れ様でした。

 ・yygucciさんから提供してもらった写真を一部使用させてもらっています。

 ・下見などで撮影した写真も使用しています。

 ・金親町のみなさんにいろいろお世話になりました。ありがとうございました。

 

●番外編 「金親町の中世遺産−板碑と五輪塔(一部)/旧金光院跡」へ

●番外編 女城 (千葉市若葉区上泉町)

(参考サイト)

東金御成街道  おおいに参考にさせていただきました。御成街道研究で有名な本保弘文さんのサイト。必見です。
御成街道と沿道の歴史 千葉の総合情報サイトC-PORT内のページです。
  会員yygucciさんのサイト。
園生貝塚研究会 on web 「貝塚を訪ねて」のページに荒立貝塚が取り上げられています
さわらび通信 中世船橋と千葉の湊・巨大五輪塔の記憶のページ船橋御殿跡の写真が掲載されています。

 

 

参考文献

市民フォトちば』2002(No.120)御成街道特集

千葉市立磯辺第一中学校2年B組『郷土史探訪 御成街道』昭和61年11月(伊藤芳仁教諭指導)

更科郷土史研究会編『さらしな風土記(更科地区の歴史)』  

『千葉県の地名』平凡社 1996年。

本保弘文『東金御成街道を探る』暁印書店。

本保弘文『東金御成街道史跡散歩』暁印書店。

『千葉市史 資料編1 原始古代中世』千葉市 1976年  

千葉県文化財センター1989 『第376集千葉県埋蔵文化財分布地図3−千葉市・市原市・長生地区(改訂版)− 』1989年6月。

(御茶屋御殿関係)

岡田茂弘『千葉御茶屋御殿 第5次調査概報』千葉市教育委員会・千葉御茶屋御殿跡調査会、1993年3月。

『房総ライブラリー 歴史時代(2)』千葉県文化財センター、1994年9月、292-293頁。

(中原窯跡・宇津志野窯跡関係)

『房総ライブラリー 歴史時代(1)』千葉県文化財センター、1993年9月、410-429頁。

関口達彦『千葉市中原窯跡確認調査報告書』千葉県文化財センター・千葉県教育委員会1990年

郷堀英司「中原窯跡」『千葉県の歴史 考古3』千葉県574-575頁。

(荒立貝塚関係)

『貝塚研究』3号1998年、園生貝塚研究会。

 

千葉市 『【鹿島川上流】いずみグリーンビレッジ/構想について』 

  御茶屋御殿のある御殿町と金親町の一部がこの構想に含まれています。基本構想の中には自然資源・文化財などの資料(ただし内容は完全ではない)もあります。

●千葉市議会 関連発言(1995年以降)

       (金親町板碑、中原窯跡、宇津志野窯跡)

  1999.10.01 : 平成10年度決算審査特別委員会(第5日目)野本信正議員

     1999.10.01 : 平成10年度決算審査特別委員会(第5日目)  田村多一郎生涯学習部長

  1999.10.01 : 平成10年度決算審査特別委員会(第5日目) 野本信正議員 

       (御茶屋御殿保存整備関係)

  1998.12.15 : 平成10年第4回定例会(第6日目) 小川善之議員

  1998.12.15 : 平成10年第4回定例会(第6日目) 飯田征男教育長

  1998.12.15 : 平成10年第4回定例会(第6日目) 飯田征男教育長

  1996.03.15 : 平成8年度予算審査特別委員会(第6日目) 高橋薫議員

  1996.03.15 : 平成8年度予算審査特別委員会(第6日目) 菊地俊正生涯学習部長

  1996.03.15 : 平成8年度予算審査特別委員会(第6日目) 高橋薫議員

  1996.03.15 : 平成8年度予算審査特別委員会(第6日目) 菊地俊正生涯学習部長

   ※試験的に掲載しました。特定の議員・政党等を応援または批判するものではありません。

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