御成街道・御茶屋御殿周辺をあるく 番外編1
 
 


金親町の中世遺産 

板碑と五輪塔(一部)


 貴重な文化遺産です。五輪塔の空輪・風輪の部分もおいてありました。板碑は一見したところ、文字は見えませんが、きちんと調査すれば、何が書いてあるか、わかるかもしれません。

 この板碑については、千葉市議会で取り上げられていました。1999.10.01 : 平成10年度決算審査特別委員会(第5日目)野本信正議員の質問および田村多一郎生涯学習部長の応答、参照。同じ金親町の金光院にある1289年の武蔵型板碑が千葉市内最古の板碑ということです。また同じ鹿島川流域の四街道市吉岡軽戸の木出城跡でも、正和元年(1312年)五月十三日の銘がある武蔵型板碑のあることが知られています(渡辺太助氏が発見)。これらの板碑との関係が問題となるでしょう。

 これらは金親の在地領主である金親氏と関係があるかもしれません。秀吉の北条征伐・関東制覇の結果、金親村での居住が許されず追放されたという家伝をもつ金親姓の家が千葉市内にあるそうです(歩く会参加者からの教示)。

 


旧金光院跡(金親町中原)


 伝承によれば、金光院は正応2年(1289年)、貞成上人により金親町中原の台地に創建された。天文20年(1551年)に火災にあい、焼失。原胤清より山林20町歩の寄進をうけて現在地(金親町959)に移動したといいます。金光院がもともとあった場所とは金親字中原のどこでしょうか。中原窯の起源を考えるうえでも気になるところです。

 yygucciさんが遺跡めぐりの下見のとき、地元の方から、金光院のもとあった場所の伝承がある、という情報をキャッチしてきました。ただその位置は聞いていないとのこと。そこで金親町を訪問。地元の方にその位置を尋ねてみました。たしかに「火災にあい、何度か移動した、と聞いている」とのこと。もっとも古い旧跡地というのが、ここだそうです。まわりは畑と山林ですが、建設会社の用地になっていました。それにしてもこの場所に到達するまでの山林の中に塚(円墳)をいくつも目撃しました。台地全体が広大な墓域になっているようです(北寺山古墳群)。金光院の現在地は、台地東の東縁辺にあたり、台地の東側は「北寺山」という字名です。

 

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