鹿島川中流域の遺跡
 
 


女城

(城?秀忠を接待した「泉村の亭」?バクチ場?千葉市若葉区上泉町)


 

 女城(めじろ)―想像力をかきたてる名前ですね〜 近くに「男城」といわれる場所もあります。(^^)名前だけでなく実体も謎めいてます以下をご覧ください。

 写真の川は鹿島川。上流=北東方向を向いています。前方の橋は泉橋。画面右から左に、佐倉へ到る古道(佐倉道)が通ります。

 正面の台地縁辺部が女城です。千葉御茶屋御殿より東北東に1.5kmほど、佐倉岩富城の真南4kmほどの位置になります竹薮の中に段状に整地され土塁に囲まれた大小数個の曲輪状遺構を確認。空堀、井戸跡などもあるとのことですが、未確認。千葉県文化財保存協会の渡辺太助氏は以前、障子堀があるとの話をきき、市職員とともに調査したことがあるが、確認にいたらなかったとのことです。写真やや左、谷が入いりこんでいる台地斜面を中心に現在集落がありますが、そこも曲輪状遺構群の一部である可能性があるでしょう。時代は不明ですが、周囲を掘りこんで、土塁状にしている個所が何箇所かありました。ちなみに男城は女城の右の台地(上泉町字出口)にあったといわれています(下泉説もある)。
 左の黒っぽい台地には宝泉寺があります。その周辺は宝泉寺館址といわれています。宝泉寺の山門は御茶屋御殿の表門が移築されたものと伝えられています。

●城郭か?
 女城は千葉常胤の居城との伝承があったとのことです。更科郷土史研究会1998によれば、この上泉を含む鹿島川中流域一帯は、古くは平常長の子常親(白井次郎)の系統に属する白井氏の支配する白井荘の一部をなしていたが、千葉胤時(白井八郎、常胤の孫)、円城寺氏(千葉本宗家の家老)をへて、やがて戦国期には岩富城を本拠とする弥富原氏の勢力下に入ったようです。弥富原氏は当時、小弓公方・安房里見氏と攻防を繰り返しており、岩富や小弓で戦闘があったことが知られています。女城のわきを通る佐倉道は軍勢の往来に使われた可能性があります。この女城の遺構は弥富原氏の防衛網と関係があるかどうか・・・

(追記1) 千葉城郭研究会の左衛門尉さんより、「女城」の遺構は城郭の遺構とは見なせない、との教示がありました。「何の遺構かは不明」とのことです。下記の参考文献はすべて女城を城館址に分類しており、地元の人も城跡として見ているようですが、たしかに渡辺太助氏もよくわからない遺構と評していました。女城という奇妙な地名と何か関係あるのか?ますますおもしろくなってきました。

(追記2) 千葉城郭研究会の外山信司さんより「斜面を段々に郭をつくる城はないことはないが、女城の場合、背後の台地上に大土塁などの防衛施設がまったくみあたらないことなどから、女城の遺構は城ではないだろう、という指摘がありました。では何なのか?外山さんの推理は以下をご覧ください。

(追記3) 2003年3月16日(日)たかしpart3氏主催ミニオフで女城を再度訪問しましたが、同行した余湖さんがあっという間に見事な縄張図(城郭とすれば)をかきあげ、公表されました(→余湖くんのホームページ「女城と男城」)。余湖さんは、<全体の形としては城ではないが、西の部分の遺構は城郭という感じがする。もともと城郭があり、それを改変したのではないか>という見解です。

●秀忠を接待した「泉村の亭」?
 御茶屋御殿との関係では、1629年、佐倉城にいた老中土井利勝が東金へ鷹狩に赴く途中の徳川秀忠を「佐倉泉村の亭」で接待したことが記録にありますが、「泉村」はここ千葉市若葉区上泉・下泉地区と考えられています。本保弘文氏はこの女城に「泉村の亭」が造営されたと推定しておられます(183頁)。鹿島川を眼下におき、眺めもよかったでしょうし、昭和30年代にこの付近を調査した和田茂右衛門氏は、女城の曲輪のひとつには旱天でも枯れることのない湧水が湧き出ている(注1)、という伝聞を伝えていますので、ありそうな気もします。御成街道・御茶屋御殿造営一切をとりしきった土井利勝が工事を監督するためにこの地に別邸を設置したということも考えられるでしょう(更科郷土史研究会1998)。上泉よりも下流の岩富村(女城より北3〜4km)には「岩富別邸」という土井利勝の別邸が設けられ、前年の1628年には利勝はそこで東金へ赴く途中の秀忠を接待しています。すくなくとも当時の実力者である土井利勝がいる佐倉と千葉御茶屋御殿とをむすぶルートがつくられていたこと、千葉御茶屋御殿が佐倉との結節点に設けられていたことがうかがわれるのです。

 (注1)女城内の池跡 更科郷土史研究会によれば、直径約1m、深くとも1mほどで、土砂や竹・雑木で埋まっている、ということです。

 (注2)女城の石垣 更科郷土史研究会は、大正時代まで石垣が残っていたという話を記録しています。この地域の中世の城で石垣があるというのは、信じにくいですが、その石垣の存在が確かめられれば、女城に泉村の亭があったことを推定する証拠のひとつになるのではないでしょうか。

●女城でバクチ!?
 地元の方に声をかけたところ、たしかに「女城」という字名とともに城跡であることを認識しておられました。残念ながら、「女城」という名称のいわれについては自分は知らないとのお答えでした(ネット上で最初に女城を紹介した余湖さんもわからなかったと言っています)。
 その後、千葉城郭研究会の外山信司氏より、氏が聞き取りをしたときの情報を教えていただきました。女城は「バクチをしたところだ」という伝承があるというのです!!!

●馬牧の施設か?
 「女城」でバクチとは!これでは怪しげなネオンまたたく歓楽街みたいではないか。大変なことになった・・・・と思ったら、千葉城郭研究会の外山さんがあっと驚く推理をしてくださいました。外山さんによれば、

   「女城」=メジョウ=馬場

   「博打」=バクチ=馬口

ではないか。女城は佐倉七牧の一つ小間子牧に近接する。遺構としても「綱原屋敷」(佐原市多田字綱原)と呼ばれる馬牧の施設に似ているというのです。綱原屋敷は、城館跡と言われてきたところが、実際発掘してみると馬込の跡であったということです。

 (追記1) 縄張り図は、余湖くんのホームページ「女城と男城」。「まるで釣堀」などという感想も!ただ西の遺構は城郭的であり、余湖さんは、要するに、<もともと何らかの城郭遺構があり、それを改変して馬牧の施設としたのでは>という見解です。

  ※綱原屋敷、小間子の牧については以下のページをご参照ください。 

 台地上縁の土塁状遺構

 この下に斜面が段状に造成されており、土塁で区画された数個の曲輪状遺構が築かれています。しかし台地上には遺構らしき地形は見当たりません。これはどういうことか・・・

 台地上の畑にはおびただしい数の土器片(土師器・加曾利ET・U)が見られます。縄文時代中期、古墳時代、平安時代の周知の遺跡です(山ノ越遺跡)。女城の遺構と関係あるかどうか?
 段状の曲輪状遺構を囲う土塁。

 高さ1.5〜2mほどでしょうか。現状では曲輪内の方が外側より低いです。ものすごい藪のため曲輪内を撮った写真は何がなんだかわからない状態でした。
集落内の土塁状地形

いつごろつくられたものか、不明です。

 

参考文献

更科郷土史研究会編1999 『さらしな風土記(更科地区の歴史)』(執筆 本保弘文・前角栄喜ほか)1999年12月。 ※すばらしい本です。この地域の歴史情報についてはまず本書が参照されるべきでしょう。

千葉市1986 『千葉市史跡整備基本計画』 

本保弘文1998 『東金御成街道を探る』暁印書店1998年10月 ※台地上の女城土塁の写真、掲載。

『千葉市史 資料編1 原始古代中世』千葉市 1976年  

千葉県文化財センター1998 『第376集千葉県埋蔵文化財分布地図3−千葉市・市原市・長生地区(改訂版)− 』1998年6月。

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