鈴木ジャイアンツが遺してくれた城郭


元堀城 (1)南東側 ―四街道市小名木 

(関連ページ) 空撮 元堀城    元堀城3D立体モデル

 現在四街道ゴルフ倶楽部の敷地になっているが、遺構はよく残っている(「消滅した」というのは誤り)。もちろん同倶楽部が文化財保存に理解を示したことに負っているが、そこに至るまでには、故鈴木英啓氏による孤軍奮闘があった。別称、小名木城。
 立入困難のため、周囲からの観察・推測によるが、現状で空堀・土塁で区画された明瞭な城の中心範囲は、おおむね変形した五角形の形をなす。
   北西辺:約110m 北東辺:約55m、東辺:約55m、南東辺:約50m(ただし屈曲あり)、南西辺:約64m(土塁・空堀未確認)
そのほか東隣接区域に外郭の痕跡らしきものも存在する。
 土塁の折れなど、からみて、最終段階としては戦国期の形態の城郭と見てよいだろう。東西を小名木川のなす支谷ではさまれた台地上に立地する。また鹿渡城と南年貢道(佐倉道)とをむすぶ古道がすぐ東わきを通っており、上野城、福星寺館、小倉城、加曽利城、遠くは生実方面とも通行は可能である。元堀城はどちらかというと、東側、とくに南東側の縄張が発達し、防御が厚いようだが、この古道との接触個所を意識しているのにちがいない。なお小名木川は印旛沼に注いでおり、鹿渡城をへて臼井城・本佐倉城方面にいたる水運の面でも注目したい。
 北東対岸の「坪山」(現ゴルフ場内)には、妙見砦が存在し、「宿内台」という地名も残る。元堀城が本城、妙見砦が支城、宿内台が「宿」=家臣団の居住する城下集落という関係にあることは推測できよう。地名「小名木」の「木」については、「城」(き)ではないか、ということも想像可能だが、その真偽ははっきりしない。
 地元の者に古くから、城跡であると認識されていた城郭であるが、城主についての伝承は伝わっていない。史伝類から、臼井六郎有常の孫、臼井常益が「小名木四郎太郎」を称したことが知られており、元堀城は、その子孫の本拠であった可能性がある。

馬出虎口

▲右に虎口。左側が馬出とおもわれる突出部である。中央の虎口の土塁から、左に馬出部が突出するという形状である。ここで空堀は大きく屈曲する。以下の写真も同様だが、土塁の大きさが表現されないのが残念である。地元の方の話しによると、土塁はもっと高かったそうである。土取りなどに使用し、現状はかなり低くなったという。それにしても元堀城をはじめて訪れたとき、この個所に最初に遭遇したのだが、期待以上の保存のよさ(形状がわかりやすいように、ある意味、整備されている!)に、とにかく、ぶったまげた。

屈曲する南側空堀 

▲馬出の先端近くより、北西方向を見ている。埋まってしまい、浅くはなっているが、V字形の薬研堀がジグザグ(いわゆる「屏風折れ」状)に屈曲していることはじゅうぶんうかがえる。
■馬出と南側土塁の折れ

▲もう南西方向に少し離れて、土塁・空堀の屈曲部を見てみた。写真右に、虎口の、土塁のすき間が見える。馬出部は、右端に張り出し、先に小土塁が築かれている。空堀は、南西に伸びる途中で不明瞭になり、その先は埋められている。なお一番右のすき間は、土塁を破壊して開けられた現代の入口である。
南東側土塁遠望 
▲もっと南にひいて、南辺土塁南側の全体を遠望してみた。右端が馬出のある虎口の個所である。左が現存する土塁の南端になる。土塁左端の左肩付近にわずかに向こう側の北辺の土塁の西端が見えている。南西辺は、現状では土塁の跡は見られない。南西側は小名木川支流の渓谷になっており、土塁・空堀などの施設がもともとなかった可能性もあるが、1974年撮影の空中写真を観察すると、空堀があった形跡がある。またはっきりしないが、北西辺の土塁の西端は南西側に屈曲して続いたかのように見える個所がある。ゴルフコースのために削平されたのであろうか。

対岸の北西辺土塁
▲少し移動し、ズームアップしてみた。左側に対岸の北西辺の土塁の端が見える。明るくなっている部分が南西辺にあたる。

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