遺跡めぐり | |
2004年7月25日(日)
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― 千葉市若葉区坂月町 ー
モノレール・千城台北駅改札口前(10:00集合) → 中雉(なかなぎ)遺跡(千葉東警察署付近) → 蕨立(わらびたち)貝塚跡 → さら坊貝塚跡 →味噌草野遺跡→坂月台貝塚 → 坂月古墳(坂月小学校前) →家ノ上古墳群→馬頭観音→坂月神社(古墳)→バス停「坂月」(国道126号線) (12:00頃、解散) |
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▲坂月小学校 坂月市民の森の続きの南東の森の中に、古墳が数基ありますが、今回は藪のためそこはパスして、坂月古墳に向かいます。坂月小学校正門前を東に進んですぐのところです。 坂月小学校のみなさん、 すぐ近くに古墳(大むかしの人のお墓) があるって、知ってました?? |
▲坂月小学校(左)と坂月古墳(右) |
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▲坂月古墳(東より) 写真では樹木のためはっきりしませんが、けっこう大きいものです(直径20m、高さ2.5mはある?)。上の写真に全体が入りきれていません。円墳でしょう。
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▲家ノ上古墳群(1号墳) 「磯部茂呂町線」をわたった南西側の山林には、家ノ上古墳群(やのうえ)が展開します。坂月の台地の南西端にあたります。まず坂月古墳の南西150mの位置に一基発見。仮に北から1号墳と呼びます。以下同じ。 ※小字「家ノ上」の呼び方は未確認。ここではさしあたり千葉市遺跡地図に従う.和田茂右衛門氏は「いぇんだぇ」とふりがなをつけている。 |
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▲家ノ上古墳群(1号墳) 別の日に、南側から撮影した写真です。目測ですが、直径20m、高さ3m。以前に訪れたときは樹木で形がよくわかりませんでしたが、今回は手前の隣接地とともに半分が伐採されていました。何か開発の前かな? |
▲さらに南西へ |
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▲家ノ上古墳群(2号墳) 南西の山林中に少なくともさらに2基の古墳があります。写真ではわかりにくいでしょうか。坂月古墳・家ノ上1号墳・2号墳・坂月神社古墳と、どうも一直線上に並んでいるような気がするのですが・・・ |
▲家ノ上古墳群(3号墳) これらは、いちおう古墳と推測されますが、中近世の塚の可能性もあります。長善寺の裏山、墓地の裏にも塚ないし古墳があり、お稲荷さんの祠が置かれています。 |
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▲馬頭観音の石造物と塚 昔の旧道を長善寺・坂月神社方向に進むと、路傍に塚状の地形があり、江戸時代から明治時代の馬頭観音の石造物が数基置かれています。 |
▲「文化九年」の馬頭観音 その一つ。「文化九年七月吉日 〇主 清右エ門」とあります。 |
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▲坂月神社の社殿と古墳(4号墳) 南西に突き出した台地の南西端、字「殿地」(「殿池」)に坂月神社があります。御社の背後は大きな古墳です。御社の周辺は削られていることもあり、不正確ですが、直径30m、高さ3mはあるでしょうか。思うに立地や大きさからみて、この付近を支配した代々の族長の中でももっとも権威のある族長(始祖?)の墓ではないでしょうか。坂月神社の由緒は不明ですが、たいへん古いことが予想されます。 |
▲新田山遺跡と南東の眺め
坂月神社からの眺めはなかなかのものです。遠くは多部田方面が見えます。すぐ西(写真左)の台地は、新田山(しんでんやま)遺跡です。1941年、吉田格氏により発見され、1942年に杉原荘介氏、1951年武田宗久氏により発掘がなされました。千葉市ではめずらしい弥生時代中期(須和田式)の遺跡で、「千葉市最古の弥生遺跡」といわれてきました。しかも集落址でなく墓域だったようです。壷型土器が意図的に置かれた凹地が数箇所発見されており、土器を蔵骨器とした土壙墓と考えられています(以上『千葉市史』による)。 |
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▲坂月神社から南側対岸をみる−謎の羽黒神社 坂月神社の南側直下は国道126号線。さらに南の向かいに羽黒神社のある台地(島状の地形)があります。本来、坂月神社の台地は羽黒神社の台地に連続していたが、国道126号線(その前身・東金道)を作るときに、切通しにされたため、羽黒神社の台地が島状になったのでしょう。この付近はなぞめいています。 1. 謎その1−城館か? |
▲塚状の地形の上にある羽黒神社 2.謎その2−古墳群? 将来の研究課題としましょう。 ****** 本日は、おつかれさまでした。 |
千葉市の貝塚のyygucciさん撮影の写真を使用させてもらっています。 |
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