これが本当の世界的遺産 - 世界最大の貝塚
  2005年4月03日(日)

貝塚町貝塚群(千葉貝塚)をあるく  (1)

― 千葉市若葉区貝塚町 ―

 けっして大きくない貝塚町の台地上に荒屋敷貝塚(国史跡)、台門貝塚、草刈場貝塚という巨大環状貝塚が3つ並ぶほか、その間を小貝塚が埋めます。なぜこれほど貝塚が密集しているのか。縄文社会の謎がこの遺跡に集約されています。時代的にも、縄文早期から前期・中期・後期・晩期と数千年にわたる縄文人の営みの変遷をたどることができる貴重な遺跡です。さらに旧石器、弥生時代、古墳時代、奈良平安、中世、近世の複合遺跡でもあります。中世には千葉家の諸侍屋敷(跡)を見おろす台地上に城郭(貝塚城)が築かれました。 それぞれの時代で重要性をもつ遺跡であり、その価値は説明しつくせません。
 加曽利貝塚と混同されたりして、一般にはあまり知られていませんが、故武田宗久先生が「現代の奇観」「東洋のナポリ遺跡」と評したほか、専門家たちが「世界遺産級」「遺跡のバケモノ」と評するなど、市内はもちろん全国的にも最重要クラスの遺跡です。日本各地で世界遺産登録の動きがありますが、「顕著な普遍的価値を有する」等々世界遺産の要件に真に該当する遺跡は、貝塚町貝塚群のような遺跡でしょう。(「世界最大の貝塚 千葉貝塚(貝塚町貝塚群)園生貝塚研究会

 なお今上天皇陛下は、学習院中等部1年に在学中の皇太子時代、1946年10月11日、貝塚町貝塚群を視察され、荒屋敷貝塚を発掘調査されました。


国道51号線バス停「都町」(9:30集合) →貝塚銀座通り→貝塚城主郭・西光院貝塚大門古墳台門西遺跡台門貝塚→荒屋敷支谷→→台門北貝塚荒屋敷貝塚荒屋敷西貝塚荒屋敷北貝塚→谷津堀貝塚→向ノ内東遺跡→草刈場貝塚  (12:00頃、解散) 

遺跡めぐりのお知らせ 

 空撮画像  1/25,000地形図:■千葉東部(南西)  国土地理院地形図閲覧システム。閲覧のみ。

※明治時代、貝塚町貝塚群は全体を千葉貝塚と呼称されていました。最近、考古学者の間で千葉貝塚の呼称が復活しつつありますその理由についてはこちら

 

▲出発

 集合場所は、千葉家の諸侍屋敷があったといわれる地域の一画ですが、後で触れることにして、いざ出発。

▲高品台地の東田貝塚(貝堤貝塚)をのぞむ

 貝塚台地の、高品支谷をへだてた西対岸の台地です。台地先端部に、貝塚町貝塚群の中でもっとも早い時期の縄文早期の貝塚、東田貝塚がありまず。

▲目的地の貝塚台地

 標高約28m前後、低地との比高差約19m.東西約600m、南北1.6km。貝塚の最密集地であり、遺跡でないところをさがすのが難しいさえいわれている場所です。写真中央やや右の台地南端は、西光院という寺がある一画です。貝塚城の主郭(本丸)にあたるところです。また西光院貝塚という貝塚があります。まずそこを目指します。

▲花辺田からいよいよ貝塚台地へ

 舗装整備されていますが、昔の道です。前方左側は干場遺跡(ほしば)です。縄文早期・前期・中期・後期、古墳時代、中世、近世(諸磯b、阿玉台、加曽利E、加曽利B)。古墳ないし塚、井戸跡、土塁をもつ中近世の屋敷跡とも見える遺構があります。

 ▲西光院貝塚・貝塚城主郭(本丸)
 左の建物が西光院。
 この一画は付近でもっとも高い場所であり、貝塚城の主郭(本丸)とみられています。かつて「永正八年」(1511年)の年を刻む板碑が境内にありました(→年表)。板碑は智光院(千葉市中央区市場町)に移されているそうです。
 写真は西光院の本山にあたる延命寺(都町)にある「算額」について話をしているところです。 

西光院貝塚
 境内やその周辺の地下には、貝層(加曽利E3)が点在しています。境内では、チラチラ程度ですが、貝殻や土器片の散布がみられる個所があります(加曽利E、阿玉台、加曽利B)。周辺には中世、近世以降の貝塚もあるようです。
■貝塚城主郭付近より南東方向

眼下の谷には、 送電線にほぼ沿うような形で、葭川の支流にあたる小川(現在は下水道として都川に接続)が流れています。少し前まで水田地帯が広がっていましたが、埋立てが進んでいます。
 対岸の東西に伸びる台地(宝導寺台台地)北縁にあった曽場鷹神社は、明治時代に大六天神社に合祀されました。戦国時代末期に成立したといわれる『千学集』には、「千葉の守護神曽場鷹大明神」とあり、千葉氏の北東の鬼門除けとしての役割を果たしていたと考えられます。『千学集』によると、「広小路谷部田」(現在の千葉刑務所付近)から曽場鷹神社まで国道51号線沿いの一帯が「国中の諸侍の屋敷」であり、曽場鷹神社までが千葉氏の「宿」(城下町)として位置付けられていたようです。『千学集』の記述がいつの時期のものか、難しい面がありますが、貝塚城や貝塚台地にのこる屋敷跡は、対岸の千葉家諸侍屋敷と関連する存在である可能性があります。
 車坂遺跡は、縄文前期・中期・後期、弥生後期、古墳中後期、奈良平安、中世の遺跡であり、諸磯式期の竪穴に貝層が見つかっています。
 ※貝塚城の成立時期は不明です。地元に詳しいある考古学者は、考古学的見地から、台地南下に今なお続く旧集落は平安・鎌倉期にさかのぼると見ています。
 ※先祖代々この地に住んでいるというのCさんによると、曽場鷹神社跡はソバタケ山と呼ばれていて、大きな杉の木があったそうです。終戦後、1軒家が建ったが、その後、1軒また1軒と家が建ち始め、現在のような住宅地になったとのことです。今は、車両通行禁止を示す大六天神社の立看板によって、かろうじてかつての曽場鷹神社の存在をうかがうことができます。

▲貝塚城の土塁跡

大門古墳(大門塚)

 左側。

台門貝塚跡をのぞむ

 台門貝塚の跡です。台門貝塚は、縄文後期・晩期の大貝塚であり、そのうえ工房を伴う古墳時代の集落跡でもあって、国史跡クラスの貴重な遺跡でした。現状は、写真のとおり、約7m低くなって住宅地と畑が広がりますが、もともとはわれわれがたっている高さ標高約28mの土地と同じくらいの高さの土地が続いており、そこに東西200m×南北170mの範囲に環状の台門貝塚が広がっていました.。ところが1966年5月、現在の都賀の開発を企画していた東千葉土地区画整理組合は突如、土取りを開始し、台門貝塚の大半を未調査のまま壊滅させてしまいました。当時、千葉県教育委員会関係者や有識者を驚愕させた台門貝塚破壊事件です。現状の地形はその事件の結果です。
 ※台門貝塚の遺物を多量に包含する貝層は、土砂として現在の都賀駅東方の谷を埋めるのに使用され、その地に今も眠っています。しばらくして付近を踏査したある考古学者は、新たな貝塚を発見したと、見間違ったといいます。

▲ 台門貝塚南東側をみる

 原地形は左前方の家の2階付近まであったそうです。道路は市道都賀宮崎線。もともと川崎製鉄の工業用水を供給するための水道道路として昭和30年代に整備されたもので、左に述べた土取り工事に先立って、道路部分が切通し状にされ、台門貝塚の西縁にあたる部分が未調査のまま破壊されました
 なお台門貝塚の大半が破壊されたことは事実ですが、完全に遺構等がなくなったわけでなく、周辺部は部分的に残っています。現在進められている市道拡幅工事に伴い、われわれが立っている撮影地点も調査され、古墳時代の住居跡が検出されました(台門西遺跡)。写真前方の個所では、残存した貝層の一部が調査されようとしています。ほかの個所についても、機会があれば、保護すべきものは保護し、またきちんとした調査を行うことが望まれます。
▲台門貝塚南端の地層断面をみる

 粘土層は、そこから出る湧水により人間や動物達を潤し、土器の原材料になった、等々説明をしています。
▲台門貝塚南縁の崖の貝層を観察

 イボキサゴ、ハマグリ、イボキサゴ、アサリ、ツメタガイ、シオフキなど。なぜかここでは大型の貝、とくに大型のハマグリが目立ちます。
yygucciさんに写真を提供してもらいました。謝々!

(参考)
●貝塚町貝塚群を歩く 千葉市の貝塚 / ●貝塚第3自治会私設ホームページ
●「世界最大の貝塚 千葉貝塚(貝塚町貝塚群)園生貝塚研究会

※今回まわった遺跡はは貝塚町貝塚群(千葉貝塚)のすべてではありません。一部です。


貝塚町貝塚群(千葉貝塚)をあるく (2)荒屋敷貝塚〜草刈場貝塚

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