遺跡めぐり | |
2004年5月22日(土)
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― 千葉市若葉区中野町・和泉町 ー
バス停「八幡」先−八幡神社−中野城・本城寺周辺−東金道旧道−中野町本郷前・酒井家旧家臣宅前 −殿川橋−鹿島川本流−石出城(伝)遠望 −道標−千葉中道−古屋敷・木ノ間古墳群・天赦神様−和泉道−東金道旧道−寺井田古墳(天神様)−和泉神社(熊野神社)−東光寺−和泉宿跡・酒井巌邸 −エンドウ山・塙塚−観音山古墳・馬頭観音−バス停「和泉」(解散) (約2時間半) 集合地点地図 遺跡めぐりのお知らせ(2004年5月16日) 1※天候不良のため22日に延期しました。 1/25,000地形図:東金(北西) 中野城主郭(本城寺)の位置: 北緯35度34分56秒,東経140度15分56秒 |
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▲東金道旧道 現在の国道126号線は台地上を通りますが、東金道旧道は台地の腰の部分を通ります。ご覧のとおり、かなりの部分、昔のままに残っています。 |
▲東金道旧道より鹿島川本流南対岸をのぞむ。 左の台地が千葉中集落の台地。15世紀初め、東庄を拠点とした千葉氏の一族、石出氏が移住し、石出城を築いたと云います(石出聡史・石出猛史1988;石出猛史2000)。 |
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▲本郷前付近 東金道旧道は本郷前で舗装された誉田中野線と合流します。本郷の東金道旧道沿いには、酒井氏の家老であり中野における代官を勤めたという鈴木家(屋号ジョウノウチ)、同じく酒井氏の旗頭だったという松本家など、中野の「草分け七騎」の家が並んでいます。 |
▲道標。 「千葉中道」「和泉道」「作場道」とあります。 鹿島川本流をわたり、中野の西隣、和泉町に向かいました。 |
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▲木ノ間古墳群(向古墳群) 和泉町字木ノ間(このま)または古屋敷(こやしき)。塚がすくなくとも7基以上あり、地元では酒井氏の墓地と言われています(西郡さん教示)。
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▲天赦神様 木ノ間古墳群のうちの一基です。養鶏場拡張のため、この古墳を削ったところ、甲冑を身に着けた人が立ったような状態で、甲冑が出土したそうです(前角榮喜作成資料)。祟りを恐れ、天赦神を祀ったとのこと。道標のところまで戻り、和泉の集落のほうへ向かいます。 |
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▲寺井田古墳(天神様、左上)と東金道旧道 民家の庭にある大きな塚です。天神様が祭られています。お宅のご主人によれば、以前は祭りのときには、提灯が道路までずらりと並んだとのこと。墳丘上に建物があり、子供たちが集まって菓子などをいただいたそうです。また旧東金道を拡張したとき、古墳も一部削られましたがそこから石棺が出土しました。石棺はばらして和泉神社と東光寺に移されました。ご主人がおばあ様から聞いた話では、寺井田古墳はもともと西ないし南西に突き出ていたが、その部分は大水が出たときに流されてしまった、ということです。明治かそれ以前のことでしょう。流された土砂は、126号線のわきに塚状になって比較的最近まで残っていたそうです。寺井田古墳は、前方後円墳である可能性が少なくないと思われます。 |
▲和泉神社 字上原に所在。旧熊野神社。諏訪神社を合祀して和泉神社となりました。創建年代不明。神社はけっこう大きな土塁で囲まれていますが、城郭遺構といえるかどうか。なおここは東光寺の裏山の隣接地あたります。土気酒井氏の姫君が土気城が炎上するのを見た裏山というのはこのあたりかもしれません。実際に土気城が見えるかどうかはともかく、和泉は酒井領のはずれですから、そのように感ずるのはわかる気がします。
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▲寺井田古墳の石棺 和泉神社の境内に置かれています。和田茂右衛門1959にこの石棺のことが出てきます(480-1頁)。「附近の人に訪ねたが石棺を掘当たと云う話は皆知りません」とあり、和田茂右衛門さんたちは、結局、その由来はわからなかったようです。寺井田古墳のある民家のご主人の話を聞くことができたのはラッキーでした。40年以上前にわからなかったことが今わかるということがあるのです。 |
▲東光寺 酒井小太郎定隆の改宗令により成った寺で、日泰上人の草創と云います。西隣の野呂は、斎藤胤次の領地で、妙興寺は日蓮宗ですが別系統ですから、酒井氏の領域は和泉村までだったのでしょう。 |
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▲東光寺山門 山門の左は江戸時代、代々問屋役をつとめた酒井巌県議邸(屋号「南の家」)。立派な屋敷と長屋門がありましたが、1991年火事のため焼失。和田茂右衛門1959には、東光寺の山門は同家の寄進によるものとあります。 同家にはつぎのような話が伝えられています。1590年、秀吉の小田原征伐のとき、秀吉派遣軍は土気にもやってきた。土気城主酒井康治の姫君は和泉村まで逃げてきたが、東光寺の裏山から土気城が炎上するのを見た。姫君は酒井巌家に隠れ住み、いつしか家人になった。酒井巌家は太田道灌の後裔で「太田」という名字だったが、これを機に「酒井」と名字を変えた(和田茂右衛門1959;房総路事務局1998aなど)。 |
▲エンドウ山 通りかかったおばあちゃんに聞いたところでは、地元のみなさんが集まってここで花見をするそうです。しかしエンドウ山とはどういう意味か、どういう場所か不明とか。更科郷土史研究会の前角さんは、エンドウは塩湯で、塩湯の儀式をした場所であろうとしています(前角榮喜作成資料)。塙塚に関係させて、次のような説明もあるようです。どうでしょうか。
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▲塙塚
エンドウ山にあります。村が困ったときはここを掘れ、と言い伝えられているありがたい塚です。塙塚に関連して地元の西郡さんより、エンドウ山の意味についてこういう説明を聞きました。−−塙塚は酒井定隆の改宗令によって廃棄されることになった寺の仏具を埋めた塚であろう(酒井領ではこの種の塚についてよく耳にします)。エンドウ=ウエノドウ=上の堂であろう。 |
▲国道126号線・東金道
和泉は江戸初期より馬継立場で、東金・千葉に継ぎ立てたといいます。上総屋・柳屋という旅籠が営業をしていました(房総路事務局1998a)。その気になれば、現在もその面影を感じ取ることができます。 おつかれさまでした! |
「房総の城郭」の主、たかしpart3殿提供の写真を一部使用させてもらっています。感謝! |
イベントお知らせ2004年5月 交通アクセスなど | 参照HP 「房総の城郭」の「中野城」のページ |
参考文献 【中野町周辺(千葉市若葉区)】
(本文での出典は原則として著者名+発表年によります。より詳しい出典の情報はこちらをご参照ください。) |
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