空撮 矢作貝塚・矢作砦 (1974年)
千葉市中央区矢作字貝殻 
国土画像情報(カラー空中写真)(c)国土交通省
(1974年国土地理院撮影) 撮影縮尺1/8000 400dpiを使用
 写真にマウスポインターをおくと、貝層(推定)、字名(黄)などのマークが現れます(java使用)。    ■千葉東部(南西) 国土地理院 1/25000  
北緯35度36分22秒,東経140度8分16秒

  • やはぎかいづか。都川左岸の亥鼻台地。標高27m。都川に突き出た舌状台地上、現在の都川河口から約2kmの地点。馬蹄形に盛り上がった地形に立地。三直貝塚のように人為的に盛土した環状盛土遺構である可能性が指摘されている。
     
     
  • 北の都川にむかって開口した馬蹄形の環状貝塚。貝層の規模は直径約150m、と伝えられる。貝殻散布は今も顕著だが、古墳時代の集落建設から現代の給水塔建設にいたる各時代の開発により貝層の確認は困難(給水塔付近は立入不可)。
     
  • 貝種はイボキサゴが主体。そのほかハマグリ、アサリ、ツメタガイ、サルボウ、ハイガイ、シオフキ、オオノガイ、アカニシ、ウミニナなど。付近の環状貝塚にくらべ、海水と真水がいりまじる汽水界に生息するヤマトシジミが多い点が注目される。矢作貝塚人はとくに都川河口付近を漁場としていたか。
      
  • 縄文後期。貝層付近からいったん集落が離れる加曽利北貝塚などと異なり、矢作貝塚の場合、貝層付近に連続的に集落が営まれたたことがうかがえるという。
     
  • 弥生時代後期の住居址が見つかっており、また古墳時代後期の大きな集落址でもある。製鉄関連の遺構が見つかっている。
     
  • 中世には亥鼻城の支城である矢作城があったという。伝えられる遺構としては土塁・空堀・腰曲輪。給水塔・病院・宅地などの建設により、地形は改変されている可能性があり、地表面の観察では判別は困難である。城郭に関連する可能性のある地名として「作台」「竹山」などの地名が周辺にある。「矢作」の地名は矢を作る専門集団、矢作部がいたことに由来すると説明され、材料に使ったとする竹林、「矢の坂」(いやんさか)の地名が伝わる。千葉氏に奉仕していたなどともいう。
     
  • スケール・貝層などのマークは、おおまかな目安である。
                            
    (参照) 

    ・清藤一順2000 「矢作貝塚」 千葉県史料研究財団編2000 『千葉県の歴史 資料編 考古1 (旧石器・縄文時代)』

    ・千葉県教育委員会1983 『千葉県所在貝塚遺跡詳細分布調査報告書』。

    ■古代亥鼻をあるく@千葉市の遺跡を歩く会
    ■亥鼻台遺跡千葉市の貝塚


| 本館トップメニュー |新館トップメニューパノラマ砦|
| ごあいさつ| 掲示板 / 旧掲示板/投稿上の注意| | 活動記録(遺跡めぐり以外)|  
お知らせ|
利用上の注意| リンク集  |


千葉市の遺跡を歩く会
COPYRIGHT 2000
aruke

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送