【日 時】 2001年722日(日)9:30-11:30 | |
【コース】
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1.北年貢道から小向郭へ
高品交差点、集合。いざ出陣! | |||
鉄塔の乗っている山は、地元の人から「ゆうがいやま」とも「りゅうぎやま」とも呼ばれています。「ゆうがい」は「要害」=中世の城の呼び方からきているでしょう。道路で台地本体から切り離されていますが、南西に突き出た半島状の台地の先端にあたり、物見であっただろうと見られています。「夕方、ほら貝を吹いて、猪鼻城と連絡をとりあっていた、だから夕貝山」という話も伝わっているそうです。写真左付近は「城の下」という字名です。このあたりはズボズボと足がもぐってしまう湿地で、地元の人も昔たいへん難儀をした、と聞きます。城の防衛には役立ったことでしょう。付近には湿地を表す「大ふけ」という字名もあります。 | |||
交差点から見た「とうかんやま」(稲荷山?)。字では「西台」。町の人から「あかんぺんやま」と呼ばれ、おキツネさまが住んでいると言われていたとか。台地上の山林部には西台古墳があります。けっこう大きな古墳(円墳?)です。この山も城の一部であり、物見など、なんらかの機能をはたしていたと考えられます。
高品の森には、ミミズクがいるそうです。下見のときにはウグイスが鳴いておりました。高品の山は緑地としても大切です。東へ向かって歩いていきます。 |
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字「南台」。南に突き出た半島状の台地です。この台地も城の一郭をなしていたと思われます。周囲は削られて急斜面になっています。台地上は平坦で、基部付近は畑と墓地になっており、縄文土器片の散布が見られます。切通し状の道が横切っており、掘切りとも見えますが、住宅への通路のために最近造られたものかもしれません。切通しで縄文時代の貝塚が露出している個所があります。断面から貝殻や土器片がぼろぼろ落ちて、かなり崩壊が進んでいます。以前には土塁があったとのことですが、現状未確認。 | |||
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北年貢道の常夜塔。1861年(文久3年)に高品村の人たちが、疫病退散・寿福招来と旅人の交通安全を祈願して、北年貢道(臼井道)と東寺山道の分岐点であるこの場所(刑務所方向から来る道は以前は現在の道路より東からこの地点につながっていたようです)に建立した、とのことです。実際に灯をともしていたそうです。
「ここから千葉の町ですよ」というというシンボル的な意味があったという指摘があります。たしかに佐倉・臼井方面から夜道を急いで来た旅人は、ここで常夜塔の灯を見たら、「千葉の町にはいったなー」と感じたでしょう。 |
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千葉(荘)から臼井・佐倉方面にいたる古街道、北年貢道に入り、佐倉方向へ進みます。戦国時代以前に何と呼ばれていたか不明ですので、江戸時代の呼び名「北年貢道」で呼ぶことにします。
※なお地元の参加者より、<常夜塔のところから左、いわゆる「東寺山道」を高品の集落の中心部(本郷)に進み右折して、旧春日神社の前を通って高品橋付近に出るのが昔のメインルートだった>、という趣旨の指摘がありました。そうだとすると、城内を通過することになりますが、たしかに道の位置は時代により移動する可能性があるので、小向直下の道も含め、慎重な検討が必要でしょう。 |
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ふりかえって千葉市街地の方向を見る。千葉県庁の建物(都川をへだてた向かいの現在千葉地方裁判所の敷地が佐倉移住前の千葉氏の館跡と推測されている)が見えます。千葉神社はもう少し右の方向になります。『千学集抜粋』は、佐倉からやってきた千葉宗家嫡男の一行は、高品から「生足」(はだし?)になると記しています。高品から千葉妙見宮(千葉神社)のお膝元である聖域になると意識されていたのでしょう。 | |||
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北年貢道、台地上。1561年(永禄4年)には、上杉謙信の小田原城攻撃に呼応して、里見・正木勢が北条側にたつ千葉宗家の家老、原氏の本拠、臼井城(現、佐倉市臼井台)を攻撃、落城させています。1566年(永禄9年)には、上杉謙信が臼井城を攻撃、「実城堀一重」、落城寸前まで迫ったといいますが、このときも里見・正木勢は謙信に呼応し、北進しています。ここから5,6kmほど北年貢道を進行した地点にある和良比堀込城(四街道市)が里見方の中継基地とされたらしいことがわかっていますので、里見・正木の軍勢がこの道を通った可能性大です。危うし、高品城! | ||
北年貢道わきに落ちていた土器片(土師器?)。よく観察すると、道のわきに縄文土器、土師器、須恵器などの土器片が落ちています。
地元の方に以前お聞きしたことですが、この台地半島部(東田遺跡)の先端付近に数基の古墳があり、戦前、その近くで、人物埴輪が出土したとのことです。その方は、「ここはどうも芋の成長が悪いなぁと思って掘ったら、石棺があった。」「もう亡くなった姉が朝、畑の芋掘りに出かけるときよく『お人形さん、探しにいってくるね〜』と言っていた」と話してくれました。JAの建物があるところでも、数年前に古墳が発掘されています。 |
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北年貢道沿道から西対岸の高品城、字「小向」(こむかい)の台地を見る。高品城主郭(本丸)の東南に位置する南に突き出た半島状の台地で、周囲を土塁、切り岸で囲まれた高品城の外郭(かりに小向郭とよびます)です。広大な平坦地を有することが写真からもわかります。谷=巨大な空堀をはさんでこちらの北年貢道をにらんでいるように見えます。左すみには、千葉の市街地。千葉神社付近の高層ビルが見えます。 | |||
樹木の少ない冬に小向の郭(くるわ=城の一区画のこと=江戸時代の[丸」)を南側対岸の道路から撮影した写真です。周りが急斜面となるように人為的に削られていること(いわゆる切岸)、また周縁部に土塁がまわっていることが、写真からもわかります。 | |||
高品城東南の谷に降りました。まず南東下側から小向の郭の切岸を見あげてみます。写真ではそれほどでもないように見えますが、急斜面が人為的に作られています。 | |||
小向の郭の上は、平坦面が広がります。このような広大な平坦面をもつ外郭をそなえていることが高品城のひとつの特徴です。同じく広大な平坦面の外郭をもつ城に、佐倉市の小篠塚城がありますが、小篠塚城は交通の要衝「白井馬渡の橋」を押さえるための城だそうです(外山信司論文)。北年貢道を押さえることを期待された高品城との共通点が興味深いです。
1990年に共同住宅建設にともなう発掘調査が行われており、平坦面は人為的に造成されたものとわかっています。 |
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『千学集抜粋』によれば、佐倉から千葉妙見で元服の儀をあげるためにやってきた千葉宗家嫡男は、500騎の随兵を従えていました。1騎につき数名の従者がつきますから、千人をかるく超える人数だったことがわかります。それほどの人数を収容する空間といえば、まさにこの小向の郭をおいてほかにないでしょう。
軍馬の嘶きが聞こえてくるような気もします。写真は北東方向。北年貢道と接触する城の東端付近から、土塁がこちらまで延々と土塁が伸びていたようです。こちら側の土塁は最近、一部削平されました。 |
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南側の周縁部にも土塁の跡がまわっています。樹木の生えているところです。南西側の森の中に古墳(舌田古墳)が一基のこっています。 | |||
小向郭南東側の土塁跡、近影。
北年貢道にもどり高品城・主郭(本丸)方面へ向かいます。
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たかしpart3さん、矢野さん、yygucciさんに写真を提供していただきました。
末筆ながら、篤くお礼申し上げます。
(参考文献) とくに太字の文献はおおいに参照させていただきました。
「千学集抜粋」千葉県文書館/編『妙見信仰調査報告書(2)』1993年 「千学集抄」『改訂 房総叢書 第二輯 史伝(1)(2)』1959年 「中世の城跡」『市民フォト千葉』No.103 98夏,1-9頁1998年。 『千葉県の地名』平凡社1996年 石井進「たたみなす風景5 中世荘園行 下総国寺山郷」『みすず』396号1994年20-28頁。 笹生衛「廿五里城跡」笹生衛・柴田龍司編『千葉県の歴史 中世1 考古資料』千葉県1998年446-453頁。 白井千万子「幻の高品城」『房総路』35号31-32頁1996年、「房総路」を学ぶ会事務局 武田宗久解説「千葉市の散歩道シリ−ズ20 都賀の台・みつわ台・高品周辺」 谷村美鈴「高品マップ」次山信男指導『郷土史のしらべ方事典10 郷土を記録しよう』ポプラ社1992年32頁。 千葉県企画部県民課/編『千葉県史料 金石文編 1』1975年。 千葉県教育庁生涯学習部文化課編『千葉県歴史の道調査報告書佐倉道17』1991年 千葉市『千葉市図誌』。 千葉市教育委員会文化課『千葉市の仏像』1992年。 千葉市史編纂委員会『千葉市史 8巻』千葉市。 外山信司「再発見・ふるさとの城」『千葉日報』1995年 外山信司「下総高品城と陸上交通」『千葉城郭研究』4号1996年27-46頁。 「廿五里城跡」『千葉都市モノレ−ル関係埋蔵文化財発掘調査報告書』千葉県文化財センタ−1986年。 中山法華経寺所蔵「天台肝要文」紙背文書1号。石井進『中世を読み解く 古文書入門』東京大学出版会1990年76-87頁。 飛田正美「廿五里遺跡」『平成9年度千葉市遺跡発表会要旨』千葉市文化財調査協会1998年 簗瀬裕一『千葉市高品城跡1』大和ハウス工業、1997年(外山信司氏論文も掲載。高品城関係文献で、現時点での決定版。) 簗瀬裕一「高品城跡」笹生衛・柴田龍司編『千葉県の歴史 中世1 考古資料』千葉県1998年。 |
千葉市の遺跡を歩く会