トピックス
★加曽利貝塚博物館友の会 提唱

千葉市の大貝塚を世界遺産に!

 さる6月29日(土)、加曽利貝塚博物館友の会の総会が開かれました。友の会として、まず加曽利貝塚の世界遺産(世界文化遺産)登録を提唱することが議決されました。具体的な取り組み手順については今後決めるとのことです。(『千葉日報』2002年6月30日(日)記事) 

 (世界遺産・参考ページ)

  ―未来へひきつぐ 地球のたからもの― 

(日本ユネスコ協会連盟より)

    ・日本ユネスコ協会連盟「世界遺産活動」

    ・TBS「世界遺産」 の「世界遺産条約について」

    ・秀学社 の「世界文化遺産」

 

★千葉城郭研究会

『図説 房総の城郭』 8月刊行

 待望の本が、いよいよ刊行されるそうです。県内80余の重要城郭を最新の研究成果をふまえつつわかりやすく図説したもの。小弓城、生実城、御茶屋御殿、千葉亥鼻城、土気城、大椎城、立堀城など千葉市の主要城郭ももちろん取り上げられている。出版社は国書刊行会。本体2800円。

★出版記念千葉城郭研究会セミナ-開催!!

『城郭が語る房総の歴史 −戦国武将の夢のあと−』

   日時 2002年11月10日(日) 9:00-16:00頃


   場所 千葉大学けやき会館


   内容
   記念講演 佐藤博信氏(千葉大学教授)  「題未定」
     
    セミナ−講演
     井上哲朗氏 「中世城郭への誘い」
     簗瀬裕一氏 「小弓公方足利義明と”おゆみ”城」
     外山信司氏 「上杉謙信と臼井城」
     中山文人氏 「高城氏と小金城」
     滝川恒昭氏 「国府台合戦の実像 −里見氏と北条氏−」

誰でも参加できるようです。くわしくは千葉城郭研究会で。

★七天王塚(千葉市文化財)中央で前方後円墳!

七天王塚の守護する主の墓か?

さらにもう1基!!前方後円墳 -古墳群の存在 濃厚

 千葉大学医学部敷地(千葉市中央区亥鼻)の発掘調査で、7月中旬、前方後円墳(ホタテ貝形、縦約28m、円形部約20m、古墳時代後期=6世紀後半〜7世紀前半)がみつかった。場所は、七天王塚(千葉市文化財)がとりかこむ中央の地点。墳丘はすでに失われていたが、周溝はのこっており、石室、人骨、金環(耳飾り)、鉄鏃、馬具のくつわ等が出土した。調査は、研究棟建設にともなうもの。千葉大学文学部岡本東三教授(千葉市文化財保護審議会委員)の研究グループが5月から調査にあたっていた。

(報道)

千葉日報2002年7月27日(土)社会面
NHKテレビ総合ニュース 2002年7月31日午前6時50分
考古学通信240号(メールマガジン、2002年8月1日)
千葉日報、2002年8月6日(火)千葉市エリア
「2基目の前方後円墳?」「別の周溝に4土坑墓」「謎残し研究棟着工へ」

(現地説明会)

8月5日(月)13:00  対象:学内関係者
8月8日(木)10:00  対象:学外一般市民 ※
    ※急遽実施。平日ですが、工事予定ギリギリの日程だそうです。
(場所) 千葉大学医学部体育館の南、駐車場隣り。七天王塚のとりまく一画。    

    ※ アクセス  千葉駅より「大学病院行き」 

    1.「裏門前」で下車。裏門から構内に入り、病院通りと並行する道を東へ進行。左手。

    2.「千葉県中央博物館入り口」で下車。真菌医学研究センターの入り口(医学部敷地東南端)

     から入り、左手、駐車場の向こう側。

 

※ 参考

        

 付属病院HP交通案内マップ   
     (注)医学部キャンパスは付属病院の西の赤い線で囲まれた場所です。
        病院まで行ってしまなわないようご注意ください。
 キャンパスマップ (千葉大学医学部ホームページ

(意義)

 第一に、亥鼻台地ではじめて確認された古墳である。岡本教授のコメントにあるように、今回の古墳が亥鼻台地上に孤立してあったのでなく、古墳<群>が存在した可能性は大きいだろう。

 第二に、これまで謎とされてきた七天王塚(千葉市指定史跡)の性格解明への一歩となると期待される(千葉日報記事参照)。近年、専門家の間では、七天王塚は本来、塚でなく、猪鼻城の土塁の残存部である、とする説が有力になっていた。ところが今回の発見により、塚・古墳説が浮上することは必至である。七天王塚は今回発見の古墳を守護する意味をもつ陪墳である可能性も出てきた。

 第三に、千葉寺、荒久古墳をつくった勢力、ひいては千葉国造(※)との関連も問題となろう。発掘地点は、都川本流下流域を直下に見る台地上であり、千葉寺(伝702年創立)の北約800m、荒久古墳(別名「石の唐戸」、一辺20m方墳、古墳終末期、青葉の森公園所在、千葉市指定史跡)の西北約800mに位置する。発見された古墳はまた、規模の点でも、都川下流域にかぎれば、小さくはない。

※千葉国造

 『日本後記』(840年成立)の延暦24年(805年)癸卯の条〔桓武天皇朝〕に「千葉国造大私部直善人(おおきさいべのあたいよしひと)授外従五位下。」また大同元年(806年)癸巳の条に「外従五位下千葉国造大私部直善人為大掾。参議従三位朝臣勝長為兼下総守。」とある。この記事から大化改新前に千葉国造が設置されていたこと推測する立場がある。大私部直善人は大化改新前の千葉国造の子孫であり、神事祭祀を主宰する海上国造、出雲国造の子孫らと同様に、改新後も国造の称号を公許されていたとするのである(武田宗久『千葉市史』1974年)。さらに千葉寺は千葉国造の子孫一族により創建された氏寺ではないか、との推測がなされる。武田氏は、都川下流の沖積平野をふくむ周辺台地を千葉国造の本拠とし、西は花見川沿岸、東は鹿島川沿岸、南は大厳寺町付近までをその支配領域と推測する。ただし武田氏は、(1974年当時判明していた)遺跡の分布や古地名等から、畑町・朝日ヶ丘付近をも本拠の候補地としている。

 第四に、旧石器、縄文、弥生、古墳と続く複合遺跡であることも注目される。古墳とともに発掘されたそれらの時代の住居跡や遺物は、千葉氏による千葉開府前に、亥鼻の地に連綿と続く人々の活動の歴史があったことを示唆している(なかでも弥生時代の遺跡は千葉市では数が少なく貴重である)。近接する医学部付属病院側には、縄文時代の大環状貝塚、矢作貝塚および中世城郭、矢作城が所在し、矢作の地名は矢作部に由来するともいわれている。千葉寺(伝702年創立)や猪鼻城(中世)の存在はいうまでもない。これらの周辺の遺跡との関連でとらえるとき、今回発掘された遺跡の意義は、千葉市の歴史全体を考えるうえでも小さくない。

 第五に、発掘された遺跡というより、調査とその背景の問題であるが、開発と文化財、大学と地域社会、地域資源の活用、情報公開、生涯学習等々の問題からも注目である。

 

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