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▲昭和の森・小食土(やさしど)廃寺跡。
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▲辰ヶ台貝塚
なんと標高98mの高所にある縄文時代前期の貝塚です。残念ながら説明板があるのみ。 |
▲辰ヶ台砦・金堀城へ
この通路は、空堀を土橋状の個所でわたり、そのまま2郭をつっきり、直接主郭の八幡神社に上がるようになっているが、神社に参拝するための後世の改変であろう。中央寄りのところに空堀が狭くなったところがあり、はね橋をかけていたのではないかと思われる。あるいは余湖さんのみるように土橋の跡かもしれない。 |
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▲金堀城の主郭・八幡神社
1616年創建。偶然の一致かもしれないが、城郭としての機能を完全に失った時期に創建されたことになる。なお金堀城は、辰ヶ台城(砦)、八幡砦などの別称をもつが、地元民は、主郭であるこの境内地を「金堀」と呼んでいる。「金堀」は、金堀城の「空堀」を指している可能性もさらに考慮し、ここでは金堀城と呼ぶことにする。
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▲主郭
周囲の土塁の痕跡らしきもののほかは平坦であり、、顕著な遺構は見当たらない。ただし植林にともなうものかもしれないが、虎口付近の微妙な凹凸があるのが気になる。また最近立て直された社殿付近に貝殻が散っているが、自然貝層のそれが工事の結果、散らばったのか。 |
▲主郭の坂虎口(主郭南西)
坂道が一段低い2郭(写真左)につながる。坂道の両側は土塁状に盛り上がり、相横矢とまでいかないが、2郭側に突き出し気味である。 |
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▲2郭西端の土塁
主郭坂虎口状の個所より、撮影。南側の2郭は、主郭より一段低く、郭を土塁がぐるりと回っている。余湖さんのいう「穴倉」状態である。一種の枡形、馬出として機能をもった曲輪だろう。写真両端手前、坂虎口の土塁状の地形。写真前方先の土塁の向こうは、空堀。
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▲主郭北東の虎口
東の下の小中集落に至る尾根道につながる。 |
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▲北東側の細尾根
一人が歩くのがやっとの細尾根の道。両脇は急崖。下の小中の集落のところまで下りられる。細尾根に防御施設を設ければ、小中の集落の住民にとっては、村を襲われたときの逃げ場となる城である。「村の城」としての機能をもった城かもしれない。 |
▲切通し
これ自体は、新しいものにみえるが、細尾根を上がってくる敵にたいする堀切・柵などの施設があったとしてももおかしくないだろう。 |
▲切通しに露出した自然貝層
標高90mにある。太古、隆起したことを示唆するものである。 |
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▲北=善勝寺城・南玉方面の景観
土気城の出城である善勝寺城と対峙する位置関係にある。余湖さんによると、小高春雄氏は、この位置関係から、土気城を攻めるため里見氏が金堀城を付城として使った可能性を指摘しているそうである。 旧土気往還が屈曲し、また土気の宿城内を貫通する県神社道が交差する交通の要地(荻生道遺跡付近)からそう遠くもないことから、善勝寺城と連絡をとりあいながら、街道を監視する機能も持たされた土気城の支城かとも思ったが、なるほど里見側で使った可能性もあるだろう。 |
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■ さらば長塚古墳群 (土気東土地区画整理事業地) |
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▲長塚古墳群
古墳は9基確認されている。分水嶺上に並んでおり、一番西に、この地区で唯一の前方後円墳、舟塚古墳が位置する。写真は、なんとかまだ残ってる東端の1基。 |
▲長塚古墳群
最期の別れを惜しむ。分水嶺上に位置する古墳群を境に集落は南北に分かれて展開していた、とのこと。北を長塚遺跡。南を上塚遺跡と呼んでいる。 |
▲長塚遺跡と旧土気往還跡
前方に住居址が見える。右の土坑は、貝層ブロックを伴っているよう。集落の中心は7世紀後半から8世紀と考えられている。
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▲長塚6号墳
西寄りの一基。調査で削られている最中。旧土気往還に並行するように東西に9基並んでいる古墳群であり、この地域個性をなすものだが、いままさに1500年近い生命を終えようとしている。 |
▲舟塚古墳跡(現土気高校)
この地区で唯一の前方後円墳、舟塚古墳がここにあった。現在の土気高校の体育館の南あたり。 |
たかしpart3さんに一部写真の提供を受けました。Thanks !
(参考)
・財団法人 千葉氏教育振興財団 埋蔵文化財調査センター 2007 『平成18年度 千葉市遺跡発表会要旨』 |