2007年4月22日(日)
|
東金城(1) −戦国動乱の古城址をあるく
― 千葉県東金市台方1657番地ほか ―
(参考)
|
|
|||
![]() |
![]() |
![]() |
|
▲東金街道=銚子街道と東金御殿・表門跡 写真左端に小さく表門跡の標柱が見えます。なお街道沿いには、「上宿」などの「宿」地名がのこっており、中世の「宿」、つまり東金城に伴う城下集落にさかのぼる可能性があります。 |
▲「慶長史跡 東金御殿表門跡」の標柱 |
▲東金高校(東金御殿跡) 東金御殿は、1613年に鷹狩にくる徳川家康の宿舎として建造されました。1636年家光のため増築されたが、結局、家光の東金訪問はなく、1674年に取り壊されました。近代になり、学校用地となったため、遺構は残っていない(といわれているが、発掘調査してみないとわからないだろう。)正門の趣きある門柱は、明治時代に作られたものだそうです。 |
|
|
|||
![]() |
![]() |
![]() |
|
▲東金城入口 まず主郭(本丸)を中心とした城の主要部へ向かいます。 |
▲登山です。 険しい自然地形を利用してつくられた城ですので、入城は、いわば登山です。 |
▲急坂を登ります。 | |
![]() |
![]() |
![]() |
|
▲4郭 急坂を登りきると、4郭に出ます。狭い曲輪(くるわ)です。ベンチが用意してあり、一息つけます。写真は、西側の3郭との間の空堀を見ているところ。 |
▲空堀にいったん降りて、3郭へ。 |
▲堀底 堀底から4郭、3郭との比高差は3m、4m。 |
|
![]() |
![]() |
![]() |
|
▲主郭(本丸) 3郭をへて、最高部、標高74mの主郭にはいりました。調査報告書によれば、東の3郭、西の2郭との比高は6m.面積約1000平米。昔はこの場所は桜の名所だったそうですが。残念ながら、今は雑草が多く、見通しがききません。ここが主郭だと気付かないで、とおりすぎてしまう人も少なくないようです。写真、人が立っている付近に鍛冶関連の遺構が4基確認されています。山上しかも本丸で鍛冶をするというのは平時では考えにくいでしょう。東金城は北条氏の攻撃を受けており、そのとき篭城した可能性が想起されます。さらに写真前方主郭西縁に櫓台状の土壇があります。 |
▲櫓台状土壇(左)と虎口 土壇は2郭へいたる虎口の施設を兼ねていたようです(写真は2郭側から撮影)。発掘調査の結果、土壇下の2郭との間に空堀の存在が確認されています。※なお調査報告書によれば、土壇は、大戦中または大戦後に、軍事目的または観桜のためにさらに盛土がなされたようです。 |
▲日本陸軍が設置した観測所 虎口のところを下り、さらに進み、2郭へ。ざっとみて30×100mほど、不整形な平場です。山頂ではもっとも広い空間です。2郭の南西端に、太平洋戦争末期、米軍上陸に備えて造られた観測所の跡が残っています。なおここは、調査報告書等でも「トーチカ」と紹介されていますが、(敵の位置と砲弾の着弾を確認する)「観測所」です。観測所のすぐわきに貯水池の跡がありますが、その先は急斜面。さらに平場など整形を施した細尾根が西へ続きます。 |
|
|
|||
![]() |
![]() |
![]() |
|
▲南側の腰郭(こしぐるわ) 我々は、引き返し、南に向かって伸びる腰郭に入りました。尾根の中腹斜面を削平し、5-10mほどの幅の平場が帯状に伸びます。写真左側には、通路を兼ねた竪堀が掘られており、下の腰郭につながります。主要部にいたる大手筋であった可能性があります。前方に虎口(こぐち)が設けられ、1区画が形成されています。 |
▲虎口 虎口(こぐち、出入り口のこと)。尾根を切って一部土塁状にのこして形成。尾根からの接近を遮断するという意味では掘切。柵などが設けられていたでしょう、と説明しています。ここに武者を置き、大手筋から上ってきた敵の側面を衝くという施設でしょうか。 |
▲堀切 さらに進むと、掘切り。敵が尾根づたいに主郭のほうへ登っていかないように、堀で尾根を切っています。写真正面前方は崖。敵がここまで侵入してきても、上から矢を射掛けられたら、たまらない、と右上を見ています。 |
|
![]() |
![]() |
||
▲腰郭 退却します。 |
▲虎口 前方は主郭へ上がる大手筋(推定)。 |
一部、たかしpart3さん提供の写真を使用させてもらっています。 | |
(参考文献) ・千葉県教育委員会 1989 『千葉県中近世城跡研究調査報告書 第9集 −東金城跡・城山城跡発掘調査報告− 昭和63年度』(執筆担当 西山太郎)。 |
![]() |
(2)北の腰郭 |
千葉市の遺跡を歩く会
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||