都川中流域の歴史的景観 多部田平蔵陣城

 


平蔵陣城―多部田城攻撃のための付け城

 

 

多部田城主郭下から見た平蔵陣城(中央谷津のかなた、ネット付近)

中央谷津の先の台地縁が平蔵陣城第一候補、多部田保育所。その先のネットが第二候補地、ゴルフ練習場
前の谷津は字「馬渡」。右台地は「大砲台」。字「大徳」。左台地は「台の坊」

 

大草寺ノ台から遠望(100kB、平蔵陣城(ゴルフ場)ネットも写ってます)

 伝承によれば、字「平蔵」(現、多部田町いずみローズタウン)に多部田城を攻めた軍勢が構築した陣城(攻城用の一時的な城)の跡があったという。ただしその具体的な場所については、現在二説ある。戦前に記録を残した郷土史家、小出古城によれば、この多部田を攻めたというのは、1590年の秀吉による北条征伐のおり派遣された家康の臣本多忠勝・平岩親吉配下の一武将であった。攻撃開始寸前に多部田城の留守をあづかっていた白井平蔵胤隆(白井入道浄三の実子)が降伏を申し入れ開城したという(情報源は不明)。別に小出古城は次のような内容の里人の口伝を記録している(なおいつのことか、敵が誰かは特定されていないことに注意)(小出古城(晃清)『多部田之歴史』1941年(2000年 本保弘文編集解題)

――敵は密かに平蔵丘に陣地を築城した。これを知った白井勢は城の守りをかため警戒を怠らなかったが、その陣地より攻めてくると思っていたところ、敵は不意に城の西側より突進し、大砲台から大砲を打ち込んできた。白井勢は周章狼狽、防戦しようとしたものの怖気づいた雑兵らは逃亡。数名の将士も城を棄て、碌に戦闘を交えることなく、多部田城は数刻で陥落した。

 開城後の白井平蔵胤隆の消息はまったく不明である。現在、多部田城の城下集落付近に「白井」姓の家が多く見られることは注目されるが、多部田城主といわれる白井氏と関係があるのかないのか、すでに小出古城が調査した昭和初期にわからなくなっているようである。なお多部田城攻撃に関係してほかに「祐左衛門」の話が伝えられている。前角氏は武者を助けたという大草の祐左衛門の伝承から、何らかの戦闘は行われたのではないかと見る。

※白井氏伝説?

 秀吉の小田原攻めに際し小田原城に詰めていたという多部田白井家の当主とその子孫については情報がある。ただし没落した関東の諸将にくらべ、華麗すぎて鵜呑みにできない面がある。
 白井入道胤治(小出古城はこの人物の名を白井入道浄三胤定とする)は真壁胤吉の子・宗幹を養子として迎えていたが、謙信の臼井城攻め年、1566(永禄九)年、実子の胤隆(白井平蔵)が生まれた。胤治はあえて実子・胤隆を嫡子とはせず、養子の宗幹に跡を継がせた。1590年秀吉の北条攻めの際、当主となっていた白井宗幹は、本拠多部田城の留守を白井平蔵胤隆に預け、弟の胤邑(胤治の実子、平蔵胤隆の弟)を伴って小田原城に入城した。小田原開城後、宗幹は豊臣秀吉にその才を見込まれ、秀次の家老となり、秀次没落後は処罰をうけることもなく秀吉の直臣となった。文禄慶長の役では、肥前国名護屋城に供奉したという。江戸時代にはその子孫は水戸藩の家老・城代職を代々継ぐようになり、明治まで続いた。宗幹の子、幹時の長女「春」は、家康の侍女となり、侍女「良」は淀君の侍女となった。「良」は大坂夏の陣では、千姫に従い、大阪城を退去し、旗本・豊島忠次(もと武蔵国石神井城主)と結婚した。その長男勝久は、母方の白井の姓を名乗り旗本になった。その孫娘が江戸城大奥の老女として強大な権力を握った「絵島」(えじま)である。

以上、千葉氏の一族。相馬介さんに上記の情報の出所をたずねたが、残念なことに、昔の記事なのですぐ確認できないとのことである。豊臣秀次関係などの文献も多少調べたが、不明である。いずれにせよ、多部田城に白井氏がいたかどうか、そもそも白井入道なる人物が実在したかどうか、というところからして、信頼できる資料がないのが実情である(さりとて否定する証拠もない)。今後の研究を待ちたい。(参考) 千葉氏の一族「白井氏」。そのほか戦国武鑑「下総白井氏」もほぼ同内容。なお絵島については、絵島生島事件(1714)(世相-日本江戸時代日本の墓・絵島など。


平蔵陣城の二つの候補地

1.多部田保育所付近

  現在、地元住民の間で、平蔵陣城の跡として言われている場所である。「一夜城」「城山」とも言われている。

ゴルフ練習場付近

  前角榮喜氏が以前地元の古老から聞いた場所である。距離からすると、小出古城が「明治の末か大正の初め頃」「十町の南方」の地点で見たと述べている平蔵陣城跡はこちらであろう。「明瞭ならざれども址は高さ五、六尺(一.八m)の土堤を囲らせる二十五間(約四五m)四方、面積約一反歩(約二〇二五平方m)許りなりと記憶す」(小出古城(晃清)『多部田之歴史』1941年(2000年 本保弘文編集解題))

 伝承上二つの候補地があるのは奇妙である。ただ現地を歩き、多部田城主郭下に実際に立ってみるとわかることがある。二つの場所は、主郭下からはほとんど重なって見えるのである。「あそこが平蔵陣城だ」という「あそこ」がいつしかちがった場所を指すことになったというのはありうる。しかし二つの説があることがかえって、突如現れた秀吉軍から受けた多部田城守備の兵たちおよび現地住民たちの衝撃と混乱をリアルに伝えているようにも思われる

平蔵館―白井入道の子息平蔵の館跡?

 いずみローズタウンの子字名は「平蔵」である。口伝および小出古城『多部田之歴史』によれば、白井入道の子息であり、秀吉の北条攻めの際、多部田城の留守を守っていた白井平蔵の館があった場所とされている。そこで伝承等を総合して想像するに、土塁があったといわれるゴルフ練習場が平蔵館跡であり、保育所が平蔵陣城である可能性がどちらかというと大きいのではないか。保育所の方は土塁等の遺構があったかはっきりしないが、一時的な陣城であるなら遺構がなくてもおかしくない。主郭からよく見え、軍勢を誇示するのにふさわし場所である。ゴルフ練習場の方は、土塁があったということから、ごく一時的な施設である可能性はどちらかといえば少ない。伝えられる遺構の規模が正しいとすると、屋敷ならともかく陣城としては、小さすぎ、また場所も谷の奥に入りすぎ遠いような気がする(攻城軍が後方の何らかの施設として使用した可能性はあるだろうが)。どうだろうか。

    

1.多部田保育所付近―平蔵陣城第一候補地

 

東対岸ウナラシズより見た平蔵陣城第一候補地。対岸台地左側付近である。台地の縁は樹木で覆われているが、台地上は京成が開発した「いずみローズタウン」であり、すっかり住宅地になっている。谷津(「馬渡」)の前方の台地が「大砲台」。ここからは右の台地の影で見えないが、右にカーブしている谷津が出たところの出口が多部田城主郭である
 いずみローズタウンの北東一画。写真前方左に市立多部田保育所がある。この地こそ、地元住民が「一夜城」「城山」と言っている秀吉軍の拠点(候補地)なのである。多部田城主郭の地点より南に細い谷津が入っているが、その谷津を東に臨む台地上北東の縁にあたる。多部田城主郭より南約450m。保育所の向かい台地の縁際に御住まいの方によると、多部田城主郭がよく見えるという。
 多部田保育所。一夜城、城山とも言われている.ご覧のとおり、今は、子供たちの城である。
 平蔵陣城(保育所)からは多部田城主郭(前方中央)を直接目視することができる。距離約400m。多部田城の東の郭(2郭、3郭)は右手になる。左の台地先端部が多部田城に向けて撃ったという「大砲台」。多部田城主郭より南西210m。左台地「大砲台」、右台地「台の坊」。

2.ゴルフ練習場―平蔵陣城第二候補地

 東対岸ウナラシズ側から見た平蔵陣城跡第2候補地。平蔵陣城(ゴルフ場)。第一候補地の市立多部田保育所よりもさらに谷津の奥であり、多部田城主郭より南約840mの地点である。ゴルフ場のネットが陣幕を思わせる(^^;

この谷地のさらに奥の左の台地上に多部田貝塚がある。

 住宅街から見たゴルフ場。土塁が廻っていたという(前角氏の聞取りほか、現地住民の証言あり)。気のせいか、台地の縁が多少、盛り上がっているような・・・(^^;

 なお多部田城主郭は、ネットの高さの望楼を建てるならば別だが、地表面からは目視できない。

※ 小出古城(晃清)『多部田之歴史』1941年(2000年 本保弘文編集・解題)の閲覧については前角氏にお世話いただきました。ここに謝意を表します.

 

 

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