多部田城改変箇所


 多部田城改変箇所覚書

 第二次大戦末期、旧日本軍は、米軍の九十九里上陸にそなえ、各地に兵員を配置した。北約200mに東金千葉を結ぶ主要道路「東金街道」が通る多部田城の城域内にある最福寺にも兵隊が分宿した(注1)。このとき多部田城は、防空壕などの設置による改変を受け、新旧の遺構が混在する紛らわしい状況が生まれた。ほかの多くの城郭跡でも同じようなことが起こった可能性があるが、その実態は不明である。幸い、多部田城に関しては、長年、地元住民に対して聞取調査されてきた前角榮喜氏がおられ、関連情報が収集されている。 伝聞であること、原地形がどうであったかの直接の情報でないことなど、その取り扱いは慎重でなければならないが、当事者や目撃者に直に確認することが困難になっている現在、貴重な情報である。多部田城についてはすでに誤解や混乱も生じている状況があるので、ここにその情報をまとめておく次第である。いうまでもなくその成果はすべて聞き取り調査をおこなってこられた方の労苦によるものである。

 

1.改変(新規の造成)があったとされる箇所

A.堀状地形

 旧日本軍が「装甲車のようなもの」を隠すため斜面を抉りとった(前角氏聞取り)。(注2)(注3)

B.土橋

 現地住民が堀の一部を埋め立て土橋とした(前角氏聞取り)。

C.堀状地形

 旧日本軍が防空壕を掘った(前角氏聞取り)。

2.改変の疑いのある箇所

D.堀状地形 (1)Aへの通路として旧日本軍が掘ったのではないか(前角氏見解)。

(2)旧日本軍が燃料のドラム缶を隠した(村田氏聞取り)。(注4)(注5)

 

(注1)

 1945年5月と推定される。多部田に駐屯していたのがどの部隊か確認できていないが、隣接する更科地区には独立戦車第三旅団(旅団長 田畑与三郎大佐)が駐屯した(『さらしな風土記』)。その一隊である可能性がある。なお九十九里上陸・防衛作戦については、『千葉県の歴史』に日米双方の資料が掲載されている。

(注2)

 村田氏の聞取りでは「装甲車」という話は出ず、「対空砲」云々という話が出たようである。

(注3)

 「装甲車のようなもの」をどこから上げたのか。歩く会当日でもADを目の前にして、疑問が出た。これにたいしてDの通路説が出てくるが、北西の半島先端部の畑の方から入れたのではないか、という意見も出された。

(注4)


  一般に旧日本軍では、誘爆を避けるため、地面を堀状に堀り、燃料のドラム缶を保管することをしばしば行ったそうである。「工兵隊が工事するなら別だが、一般の兵隊に掘らせると、出来上がりは雑だ。もともと掘があれば、それを利用しただろう。」(別の地域でだが、実際に掘らせた人の証言)。

(注5)


 Dの堀状地形(またはその原形)が旧日本軍の駐屯前に存在したかどうか――とくに「い」を馬出と理解する見解(たかしpart3氏「房総の城郭」)の成否にとって重要だが、残念ながら確認できていない。村田氏の聞取り相手宅を訪ねたが、すでに故人となっており、家人も「わからない」と言っていた。

◎ 末筆ながら、縄張図の利用を快諾してくださった余湖さんにお礼を申上げます.

 

(多部田城 参考サイト)

 「い」の部分「馬出」説を提起したたかしpart3氏のHP。

余湖くんのホームページ

 「1日30城」の猛攻で茨城・千葉を席けん!
多部田城の縄張図を利用させていただきました。最近はお城絵師(^^)としても活躍。
2003年5月5日歩く会 多部田城

 

 


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