大椎城の周辺
東京湾、太平洋、印旛浦(香取海)に注ぐそれぞれの河川(村田川、南白亀川、鹿島川)の分水嶺にあたる地理的条件が関係していたのでしょうか。大椎城の周辺は古くから人々の生活が営まれた歴史的に重要な地域でした。
●大椎東部(あすみが丘) 古代の生産・文化拠点
大椎の東から東北側は、現在のあすみが丘にあたります。開発にともなう調査で旧石器時代(約3万年前)・縄文時代早期〜中期の人々の生活があったことがわかっています。古墳時代をへて奈良平安時代になると、この地域は開発が行われ生産と文化の拠点となったようです。上総国の国分寺・国分尼寺(現市原市国分寺台)などに供給する瓦を生産するための窯が設けられ(→)、また小食土廃寺など寺院も建立されました。次の時代の武士団の勃興は、この地域の生産・文化活動が背景にあったのかもしれません。
●大木戸・大野の牧−中世武士団の牧?
中世武士団と牧とは密接な関係があります。大椎城から見て、村田川の西対岸、「隠居城」とよばれる立山城の南方の板倉・大木戸・大野台の広大な台地には、今も牧(馬の放牧場)の跡を確認できます。これらの遺構がどれほどの時代にさかのぼるものか、発掘調査は行われておらず不明ですが、一帯は古墳・塚が多く、土師器片の散布もかなり見られるようです。延喜式に記されている「上総国大野牧」がこの大木戸・大野台の牧に該当する可能性がある、という研究者の指摘もあります。武士階級発生の謎をとく鍵がこの地にあるかもしれません。大椎における平忠常、千葉氏の伝承とあわせ、たいへん注目されることです。
●「おおじ(い)」の謎
そもそも「おおじ」って何のことでしょうか?大椎廃寺と関係しており、「大寺」か?(故平野元三郎氏)「王子権現」の「王子」に関係あるかも?(渡邉太助氏)などの指摘があるようですが、どうでしょうか? |