イベント情報

 
遺跡めぐりのお知らせ

大椎城−千葉氏発祥の伝承と典型的中世城郭

 

  

【集合日時】 2002年4月21日(日) 9時45分
【集合場所】
土気あすみが丘プラザ 3階 第2講習室

※ 自動車での来訪はお避けてください。

   プラザ1階には、大椎、あすみが丘の旧地形の立体モデルや発掘された遺跡の出土品などの展示があります。早めに来てご覧になっておかれることをお勧めします   (プラザは9:00開館)。説明の時間に質問が可能と思われます。

※ 第2講習室は9時30分頃入室可能となります。

 集合後、第2講習室で30分ほど専門家による説明があります。大椎城址は集合場所から南西、徒歩約20分のところです。

※ 山の中に入りますので、汚れてもよい歩きやすい服装・履物でおこしください。

※ 解散予定は12:30頃ですが、解散時刻は前後することがあります。

※ 大椎城見学は、地主さんの格別のご厚意により可能になったものです。

【申込み】 満員御礼 受付は終了しました

(事務局連絡先)chibaiseki@geocities.co.jp 

 

  

 (土気あすみが丘プラザ 案内)

■所在地   

        千葉市緑区あすみが丘7−2−4

交通経路

 JR土気駅から徒歩20分。または、千葉中央バス創造の杜経由「あすみが丘南(大椎町南)」行きに乗車、「あすみが丘プラザ」下車、徒歩1分。

   <千葉駅>                  

       |  

       JR外房線(乗車21分)  

       ↓

    <土気駅>                         

       |                         

       ・千葉内陸バス(南1番乗場)
            
(乗車6分)

       ・または徒歩(20分)

       あすみが丘南(大椎町南)行き
       創造の杜経由

       ↓

    <あすみが丘プラザ>             

 

(注意) バスに乗る場合

 「あすみが丘南(大椎町南)」行きには、「創造の森経由」と「あすみ大通り経由」があります。「創造の杜経由」の方に乗ってください。「あすみが丘プラザ」で下車すれば目の前です。

 万一、あすみ大通り経由に乗ってしまった場合は、「あけぼの通り東」で下車し、徒歩で西に400m進行。交差点手前左の建物です。

創造の杜経由

あすみ大通り経由

(注意)徒歩の場合

 土気駅南口の前の通り=「あすみ大通り」を南に進行。「あけぼの通り東」のバス停の交差点で右折(西)、400m進行した交差点左手前の建物です。

     

■発着時刻表

 ★ 早めにきて、プラザ1階の展示をご覧になっておくことをお勧めします。
  余裕       ぎりぎり

×

×

×

千葉駅発(JR外房線下り) 8:12   8:34 8:47 8:56 9:03 9:11 (9:31)
土気駅着(JR外房線下り) 8:33   8:55  9:08  9:18  9:24 9:32 (9:52)
土気駅内陸バス発 あすみが丘南(大椎南行き)行き
創造の森経由

南口2番乗り場
8:41 8:59       9:27   9:39  (10:01)
あすみが丘プラザ着(バス) 8:47 9:05     9:33   9:45 (10:07)
駅から歩いた場合の予想到着時刻 8:53   9:15 9:28 9:38 9:44 9:53 (10:12)
土気駅発(JR外房線上り)                

 

 (参考サイト)

  ●交通関係

     JR千葉駅時刻表

     千葉&葛飾路線バス時刻表

     あすみが丘 information web

     あすみが丘交通マップ(上記サイト内)
 ・・・あすみが丘バス案内図、JR外房線土気駅、バス時刻表などがあります。

   ●現代の土気あすみが丘

    Fumiのホームページ

    あすみが丘 information Web

 

 

大椎城とは

●千葉氏の故地か?
―武士勃興の謎をひめた大椎の里

  大椎(おおじ)の里(山辺郡)は、伝承および江戸時代に成立した『千葉大系図』等によれば、平安中期、長元の乱(1028年〜1031年)を起こした平忠常(平将門の叔父良文の子孫)の拠点でした。1126年、その4代のちの平常重が本拠を大椎から千葉(千葉市街中心部付近)にうつし千葉氏を称したとされています。大椎城は平忠常そして千葉氏の祖の居城といわれてきました。
          ※市原郡に属していた可能性が指摘されています(後記)。

(坂東平氏略系図)

              ┏惟時━直方━聖範━時直━時家━時方━時政━義時・・・北条氏
              ┃
      ┏国香貞盛┻惟衡━正度━正衡━正盛━忠盛━清盛・・・伊勢平氏
      ┣良将将門                              成胤・・・千葉氏
      ┣良兼                                      ┃

高望王 ┻良文━忠頼━忠常━常将━常永┳常兼千葉常重常胤━正胤┻常秀秀胤
 
                                                
                             ┗常晴常澄広常・・・房総平氏本宗家
                                          上総氏(上総権介)

※ 房総平氏本宗家=上総氏と千葉氏
 これまでの通説によれば、以下のとおりである(最近の学説が疑問を呈している部分もあることに注意)。
 大治元年(1126年)、常兼は亡くなったが、房総平氏一族の長であることを象徴する上総権介の職は子の常重が継がず、弟の相馬常晴が継いだ。その直後、常晴は常重を養子とし、相馬領(のち相馬御厨、茨城県南西部〜千葉県北西部)を与えた。このとき常重は大椎から千葉に本拠を移したといわれる。(この間の事情は謎だが、
千葉氏の一族の柴田氏の見解は興味深い。)しかし常晴の実子、常澄は相馬領の常重移譲を認めず、鎌倉御曹司源義朝(頼朝の父)をまきこんで、争った。相馬領は、さらに下総守藤原親通(平清盛の姻戚)に横領され、また佐竹氏に狙われるところとなり、以後、千葉常重・常胤父子は相馬領の維持回復に腐心せざるをえなかった。このような情勢の中で起きた源頼朝の旗揚げ(治承4年・1180年)は、千葉氏にとって起死回生の機会であった。
 上総(権)介を継承する房総平氏本宗家上総氏と呼ばれる)は、一分家にすぎぬ千葉氏に比べて圧倒的に大きな勢力をもっていたが、寿永2年(1183年)12月、広常(常澄の子)が頼朝により誅殺されるところとなり、滅んだ。その所領の多くは千葉氏に給された。のち千葉常胤の孫常秀が房総平氏本宗家の象徴である上総介に任じられており、形式上、上総氏を継承したかたちになった(上総千葉氏)。しかし常秀の子、秀胤は幕府内の政争に巻き込まれ(宝治合戦)、宝治元年(1247年)、上総一宮の大柳館で自殺。上総氏は名実ともに滅びた。房総平氏一族は千葉氏を中心に再編成されていく。(
千葉氏の一族参照)

 (参考サイト)  左の正面玄関から入りましょう(^^)
 「房総の歴史」は、遺跡めぐりに出かける前には必ず見ておきたい。千葉の歴史の全体像を得ることができる。
歴史データ館  平忠常の乱」のページ。まとまっておりわかりやすい。基本事項の説明があり懇切丁寧。他のページもおもしろい。
千葉氏の一族 柴田さんのサイト。詳細かつ正確で、信頼のおける内容。コメントも的確。とくに千葉宗家の項の平忠常平常重千葉常胤等のページを参照のこと。常重の千葉移転の背景、相馬領をめぐる千葉氏と源家、上総介広常らとの歴史的因縁も伺うことができる。

●これぞ中世城郭―大椎城

 現時点で確認できる大椎城の遺構には、戦国時代の発達した城郭の特徴が認められます。周辺にいくつもの支城や砦が築かれており、大椎城は少なくとも戦国時代に土気酒井氏(土気城跡をあるく)の、村田川方面における防衛網の中核であったことが推察されます。

 大椎城は、その遺構の残りのよさ等から、専門家・有識者の間で高い評価をえている城です。周辺の自然環境・景観とともに、中世の根古屋集落(城下集落)の趣きがよく残っていることも驚きです。

 学術的観点からはもちろん、歴史的環境・地域のアメニティ・教育等々、さまざまな観点からいって、大椎城跡は土気城跡とならび千葉市の宝であり、最重要の城跡にちがいありません。

大椎城の周辺

 東京湾、太平洋、印旛浦(香取海)に注ぐそれぞれの河川(村田川、南白亀川、鹿島川)の分水嶺にあたる地理的条件が関係していたのでしょうか。大椎城の周辺は古くから人々の生活が営まれた歴史的に重要な地域でした。

 ●大椎東部(あすみが丘) 古代の生産・文化拠点
 大椎の東から東北側は、現在のあすみが丘にあたります。開発にともなう調査で旧石器時代(約3万年前)・縄文時代早期〜中期の人々の生活があったことがわかっています。古墳時代をへて奈良平安時代になると、この地域は開発が行われ生産と文化の拠点となったようです。上総国の国分寺・国分尼寺(現市原市国分寺台)などに供給する瓦を生産するための窯が設けられ(→)、また小食土廃寺など寺院も建立されました。次の時代の武士団の勃興は、この地域の生産・文化活動が背景にあったのかもしれません。

 ●大木戸・大野の牧−中世武士団の牧?
 中世武士団と牧とは密接な関係があります。大椎城から見て、村田川の西対岸、「隠居城」とよばれる立山城の南方の板倉・大木戸・大野台の広大な台地には、今も(馬の放牧場)の跡を確認できます。これらの遺構がどれほどの時代にさかのぼるものか、発掘調査は行われておらず不明ですが、一帯は古墳・塚が多く、土師器片の散布もかなり見られるようです。延喜式に記されている「上総国大野牧」がこの大木戸・大野台の牧に該当する可能性がある、という研究者の指摘もあります。武士階級発生の謎をとく鍵がこの地にあるかもしれません。大椎における平忠常、千葉氏の伝承とあわせ、たいへん注目されることです。

 ●「おおじ(い)」の謎

 そもそも「おおじ」って何のことでしょうか?大椎廃寺と関係しており、「大寺」か?(故平野元三郎氏)「王子権現」の「王子」に関係あるかも?(渡邉太助氏)などの指摘があるようですが、どうでしょうか?

 

 

 

 

 

旧館にもどる

新館にもどる

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送