遺跡めぐり
  2004年4月4日(日)

都川・鹿島川上流 内陸貝塚をあるく (1)

― 野呂山田貝塚(千葉市若葉区野呂) ー

バス停「宮田」先−佐倉道−野呂山田貝塚−鹿島川(支流=平川)−農政センター・芳賀輪遺跡 豪族居館跡妙興寺(館)お杖桜八反目台貝塚上人塚慈眼寺(清水不動)−六社神社泉自然公園(午前の部解散)−昼食・休憩−誉田高田貝塚(解散)−JR誉田駅

見学場所周辺図 集合地点地図  イベントお知らせ2004年4月(交通アクセス等) 

1/25,000地形図: 千葉東部(南東) 野呂山田貝塚 蘇我(北東) 八反目台・誉田高田貝塚
                               国土地理院地形図閲覧システム。閲覧のみ。

 

 宮田交差点から少し東金寄りのところから東に入り、鹿島川支流(平川)の方へ向かいます。この道は「川井坂追分」で旧東金道から分岐し、鹿島川沿いに進んで佐倉へ至る古道で、地元の人から佐倉道と呼ばれてきた道です。これから行く野呂山田貝塚の縄文人たちも、この道を通って都川に出て、海に向かった可能性があるでしょう(あくまで可能性ですが)。写真右の畑付近は宮田脇遺跡。縄文土器が落ちています。森の中の坂道をくだると、鹿島川支流、百万本(おはやし)支谷に出ます。

 百万本支谷。鹿島川支流(平川)は写真左端付近。野呂山田貝塚は右の目の前の台地です。標高30〜40m。水田との比高差は5〜10mです。

野呂山田貝塚。主に縄文時代後期。中期および晩期の遺物も見られる。現状は大半が畑です。主な貝種はハマグリ、キサゴ。鹿島川が注ぐ古鬼怒湾(印旛沼)では当時、取れない貝なのです。野呂山田貝塚は鹿島川支流に面して立地していますが、野呂山田の縄文人たちは都川に出て東京湾で漁をしたと考えられています。

 

  野呂山田貝塚の東側の貝層付近。撮影範囲には3箇所貝層があるようですが、写真の貝殻散布状況からもそれはうかがえます。野呂山田貝塚はこのように複数の貝層が点々と並び環状をなす点列環状貝塚です(実際には完全な環状にはなっていないですが)。現地に立つと、「点列環状」というのを実感できます。

 鹿島川支流の右岸に渡り、百万本支谷を上流方向に進みます。前方右の台地こそ次の目的地、芳賀輪遺跡(はがわ)です。農政センターの敷地のうち15haの広大な範囲の遺跡です。縄文時代中期の集落跡であり、かつ奈良平安時代、7世紀〜9世紀の集落跡です。前方中央やや右に建物が見えますが、その左あたりが遺跡の北西端で、寺院と思われる四面廂建物が発掘されています。

途中、いろいろな草木で楽しむこともできます。

 芳賀輪遺跡(農政センター内)の豪族居館跡(だいたい草地の範囲に該当)。桜のあたりが北側の土橋の場所と思われます。位置は遺跡の範囲の南端にあたります。一辺70m方形の空掘をめぐらした居館跡です。掘は箱掘で南北にそれぞれ土橋があります(発掘調査後、空掘は埋め戻されている)。芳賀輪遺跡の集落を支配した豪族の居館跡と推定されています.内部には、7棟の掘立柱建物跡が整然と配置されていました。居館の存続時期は8世紀末から9世紀前半。だいたい桓武天皇や空海が活躍した時代にあたります。これまで遺跡範囲の1/3の発掘で、124軒の竪穴住居のほか152棟の掘建柱建物などが検出されていますが、建物の軸線は一定の方向に統一されていたとのこと。建物の配置でも支配者の規制が働いていたことがうかがわれます。

yygucciさん提供の写真を一部使用させてもらっています。いつもながら感謝!

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     「11.泉自然公園と田舎コース」

 

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