千葉氏の墳墓群・千葉山発掘資料
 

安川辰蔵 「千葉家旧墳墓調査資料」 (1908年) 

 
所蔵 千葉県立中央図書館
 
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表紙

 

▲千葉山(星宮塚墳墓群)

 

▲地図

 

▲西街道塚所在図面

 

▲1号壷(西街道塚 出土)

 

▲2号壷(西街道塚 出土)

 

▲3号壷(千葉山 出土)

▲発掘許可願

  


  • 千葉山は千葉市稲毛区園生字石塔に所在する十数基以上よりなる墳墓群である。千葉氏十六代の墓であるとの伝承がある。安川辰蔵は、千葉県都賀村立三和尋常小学校(園生小学校・都賀小学校などの前身)の校長であったが、1908年4月、千葉山(星宮塚墳墓群)および西街道塚を発掘調査した。
     

  • 発掘の結果、西街道古墳より2個(1号・2号)、千葉山・星宮塚墳墓群の1基より1個(3号)、計3個の壷を発見した。うち1個は現存し、鎌倉時代の古常滑焼と確認されている(千葉市1999、武田宗久「見どころの案内・解説」)。
     

  • ここに掲載した資料は、その発掘の資料、『「千葉家旧墳墓調査資料』(推定1908年発行、千葉県中央図書館蔵)のすべてである。編著者は調査者安川辰蔵本人と推定される。
     

  • 1908年当時、少なくとも13基あった塚もその後、多くが削平されている。現存する4基以外の塚の様子を知るおそらく唯一の資料である。現在の眼から見れば、報告書として不備があるが、貴重な資料である。
     

  • 1908年前後、明治天皇が園生貝塚を訪れ、地主に煙草を賜与したと伝えられている。発掘願によれば、教授用郷土史の編纂の資料とすることが目的とされているが、地域の史跡に対する意識が高まったことが千葉山発掘調査の背景にあるかもしれない。いずれにせよ、この時代に、地域の有志により自発的に学術目的の調査が行われたことは特筆すべきことであろう。

      

千葉県都賀村立三和尋常小学校は現在の園生小学校・都賀小学校などの前身である。千葉市立都賀小学校の「都賀小学校の歩み」HPを見よ。

西街道塚(西街道古墳)は、園生町金蔵院北西約200m字西街道に所在する1辺約8mの方形墳。凝灰室砂岩の石室を有する。実測図が千葉市1974の311頁にある。安川辰蔵が千葉山とともに発掘し、1号壷・2号壷を発見した。なお1974年当時、付近の道路切断面には多数の住居址が露出していた(武田宗久1974)。


※武田宗久は、『千葉市史』(武田宗久1974)では、「図示された土器の形態及び着色の工合からすれば」「王朝時代における付近居住の豪族の火葬骨灰を収容した土師器と須恵器から成る蔵骨器であることはいうまでもなく、これを千葉家十六代の墳墓とし封土の上に昔五輪塔を安置してあったとするごときは、一片の物語としてのみ許されるべき性質のもの」としている(310頁)。武田宗久1974執筆後、出土した壷を実見する機会を得、鎌倉時代の古常滑壷と確認、改説したものと思われる。

  
(参照)

■空撮 園生貝塚周辺 (広域) (1974) 
■千葉山園生貝塚をあるく@千葉市の遺跡を歩く会
2001年5月の遺跡めぐり - 千葉山・園生貝塚周辺を歩く千葉市の貝塚
■星宮塚稲毛の文化財稲毛区のページ千葉市ホームページ
■「見所の案内(武田宗久)」(PDF) <12.大仏と開拓地コース歴史の散歩道
■詳しい地図(PDF 843kB) <<歴史の散歩道

武田宗久1974 千葉市1974の「王朝時代」の項。
千葉市1974
『千葉市史 原始古代中世編』千葉市 1974年
千葉市1999 「千葉市文化財 千葉山」説明板。



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