千葉市の城郭
 

―鹿島川本流左岸・千葉市若葉区大井戸町沖之内・宮之内ー


大井戸館と姥の墓

 

大井戸館

1/25,000地形図: 千葉東部(北東)

(立地)
 大井戸館は、鹿島川本流がその支流(金光院谷地および金親谷地)と合流する低地(水田地帯)に、細長く突き出た半島状の河岸段丘上にある(下記遠景写真の中央付近)。標高約15m。千葉市内で残っている館址としては、めずらしい低地の館址といえよう。明治15年陸軍迅測図等によれば、細長い半島の大半は山林だが、先端部側の北側に大井戸の集落が形成されている。大井戸館はその集落内の西の一画、大宮神社・薬王寺の北隣に位置する。集落内は十字路を作らず、丁字路で各屋敷を接続しており、初めて訪れた者には迷路である。中世にさかのぼることが推察される家並みである。

▲ 大井戸館遠景(西側「川仲」より東方向)

 水をたたえた水田地帯から眺める大井戸の半島状地形はさながら湖上に浮かぶ島のようである。写真上、中央やや左(北)が半島の先端部(トウカンビョ)であり、鹿島川は半島の向こう側(トウカンシタ)を右から左へ流れる。半島手前右方向は金光院(金親町)に至る谷地(舟ガラ・海老田)である。井戸の遺構が発見された下広尾遺跡は写真右外にあたる。写真中央付近、半島の中ほど手前(西側)に大井戸館址(沖之内・宮内)がある。左の向こう側の台地は鹿島川右岸の下泉町である。

(形態・城域)
 根古屋式。現在、土塁と空堀で明確に確認できる遺構の範囲はおよそ100m×50mの範囲である。周囲に土塁を伴う屋敷地もあり、隣接する薬王寺・大宮神社の境内をふくめ、大井戸の集落全体で検討を要する。なお後述の「姥の墓」の伝承で「館」でも「屋敷」でもなく「城」という表現で伝承されていることは気になるところである。堀底と土塁の比高差は3〜5m。

▲ 土塁(左)と空堀(右)

▲ 大井戸館・北側の様子

(性格)
 不明である。更科郷土史研究会編1999は、「保元元年(1135年)、千葉常胤が下総の国司に任じられたとき、孫の胤時が白井庄弥富郷を支配したことから、彼か、又は彼の一族が居住したものと思われる」とする。より下った時期を考えるべきか。「姥の墓」の石塔類が多少のヒントとなるか。金親方面から鹿島川本流に出る河川交通の要地として注目される(→下広尾遺跡)。なお関連交渉のあった可能性のある付近の城館としては、殿屋敷館(金親町堂屋敷)、谷当砦(谷当町野向要害山)、男城(下泉町または上泉町)、宝泉寺館(上泉町)、木出城(四街道市吉岡)、福星寺館(吉岡下タ山)、中山城(吉岡内山)等がある。根古屋城(八街市)、岩富城(佐倉市)とは本城・支城の関係にあった可能もあろう。

※「木戸下」「出戸」などの小字名が近くにある。「駒取」という地名もあるというが、未確認。大井戸の半島を横切り、四街道吉岡に直行する主要地方道浜野・四街道線は、最近建設された道路である。

※千葉城郭研究会の遠山成一・外山信司両氏が最近、大井戸館を踏査・確認したとのこと(遠山成一2003)。所見の公表が待たれる。

 

大井戸館の「姥の墓」(茶福神)

 

 大井戸館址の北、半島状地形の先端にある。地主さんの説明によれば、「城(大井戸館址)にいた姥の墓」である(「館」「屋敷」でなく「城」と言い伝えられているようである)。更科郷土史研究会1999(『さらしな風土記』)によれば、地元では、咳の神さま、風邪の神さま、足の神さまと云われて、具合の悪くなった人に信仰されていたとのこと。治ったら、お礼に甘酒を供えた。現状は平坦であるが、もともとはかなり高さのある塚であった(以上更科郷土史研究会1999)。ご神体は、中世の五輪塔空風輪と武蔵型板碑の残欠のようである。あわせて土器片・石製品・丸い(自然)石が祀られている。ご神体の五輪塔空風輪を載せている石の台は、最近、地主さんが用意したものである。なお付近の畑には、土師と思われる土器片の散布が見られる。

※咳神では、落城伝説とむすびついた臼井城址近くの「おたつさま」が有名である。落城伝説こそ伝わっていないが、大井戸館の「姥の墓」も咳神として信仰されており、興味深い存在である。大井戸は鹿島川流域で、岩富をへて印旛沼につながっており、佐倉方面と一体の「咳神文化圏」(?)を想定できるか。咳神の調査研究をすすめておられるさわらび通信のさわらびyumiさん(八千代市郷土史研究会)によれば、咳神は村の境にあること(=災厄は村の外に追い出す)がポイントで、信仰対象は「何でもあり」らしい。yumiさんの研究の進展を期待したい。

※ご神体について。更科郷土史研究会1999では宝篋印塔と石室の一部となっている。この点、疑問に思っていたところ、さわらびyumiさんら八千代市郷土史研究会が2004年5月3日、現地を訪れ、中世五輪塔の空風輪および武蔵型板碑の残欠と確認した(→さわらび通信データ集)。

 

そのほかの関連文化財

▲ 大宮神社(大宮大権現)

 創建年代不明。大宮比売命・木花咲耶姫命・猿田彦命を祭神とする。1959年の『泉地区の文化財』465頁では「藤原時平外三柱を祀る」とある。藤原時平というのは八千代の時平神社等の伝説を連想しいささか気になる。大宮神社の北側隣接地(写真右)が大井戸館である。右の藪の中に大井戸館の空堀がある。

▲ 天神社(中央)と道祖神(右端)

 大宮神社の境内に祀られている。背後は大井戸館の空堀である。 

▲ 薬王寺梵鐘と古木

  大宮神社と同じ境内にあった薬王寺(現、大井戸町集会場)は真言宗。金光院の過去帳によれば、天明2年(1781年)にさかのぼることは確認できるが、創建年代不明。本尊は江戸時代の薬師如来立像。念仏堂とも言われているという。もと金光院の別院であった(以上、更科郷土史研究会1999)。梵鐘には「天保十二丑九月」(1841年)等の文字が刻まれている。写真の古木は1982年土地改良事業の際、渡戸(半島先端の北の低地)より発掘されたものである。

▲ 境内の石塔

 大宮神社・薬王寺の境内には、天和二年(1681年)の二十三夜講供養塔など、江戸期の石仏がある

 

「大井戸」の井戸?−古墳時代・奈良時代の井戸とその祭祀遺構

 大井戸の半島状地形の基部の道路建設用地(下広尾遺跡)で、最近、興味深い遺跡が発掘された(長原亘2001)。古墳時代中期と、奈良時代の井戸の跡がそれぞれ1基発見されたのである。しかもそのうち古墳時代中期の井戸には、祭祀がなされた形跡があるという。すなわち「意図的に埋填され、その最終段階で中央に土器を置いた状態が看取」された。長原亘2001に指摘しているように、中原窯、宇津志野から鹿島川本流へ出る、出入り口にあたり、古代中世の物流を考えるうえでも、注目されるところである。

 

 

さわらび通信史跡歳時記 雨にぬれた大井戸の情趣あふれる風景。
さわらび通信データ集 咳神関係のデータに「姥の墓」に載りました。

武家の歴史 佐々木氏庶流『間宮氏の歴史』  主要所蔵文書 

天正18年(1590年)の秀吉の小田原征伐後、大井戸・谷当・下田を知行地とした元北条氏家臣間宮一族の子孫の方のサイトです。「天正十九年知行書立」「寛永二年知行地朱印状」を公開しておられます。大井戸・谷当・下田・鹿渡など、この付近の地名が見えます。この貴重な資料は、関東大震災のとき、幼少だった間宮さんの背中にくくりつけられて、避難、焼失を免れたものだそうです。

1/25,000地形図: 千葉東部(北東)

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大井戸館 北緯35度37分51秒,東経140度13分3秒

参考文献【大井戸町の歴史】
 
 
(本文での出典は原則として著者名+発表年によります。より詳しい出典の情報はこちらをご参照ください。)

 ★更科郷土史研究会編1999をとくに参照した。姥の墓について、同書がなければ、見逃してしまうところであった。この場を借りて、本保弘氏・前角榮喜氏ら更科郷土史研究会の活動に大いなる敬意を表す次第である。

 

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