▲ 第8次発掘調査範囲(井野小学校校庭)のほぼ全体
中央窪地を背後に撮影している(西側西端からの全景はこちら)。写っているのは、環状盛土遺構の西側部分にあたる。昭和48年頃の井野小学校建設工事ですでに盛土および表土から20cmまでは失われているが、幸い、それより下の遺構部分はかなりよい状態で残っていたようである。今回(第8次)の発掘調査によれば、以下のとおりである。 中央に細長く遺構が見つからない範囲(遺構空白地帯)が横切っている。北西の谷の方から中央窪地の方角に向かっており、縄文人の通路ではないかと推測されている。この遺構空白地帯を境に北側と南側で遺跡の様相が異なっている。北側では地面はおびただしい数のピット(小さい穴)で埋め尽くされており、住居群と見られている。南側は比較的大きい土坑が多い。底に土器が置かれているようである(例→第13号土坑)。貯蔵穴ではないか、と見られている。さらにこの南側の土坑群のうちでも、北西方向にいくしたがい土坑の形態が楕円になる傾向が見られる。遺構空白地帯のすぐわきには墓(土壙)ではないか、と思われる跡(23号土坑)もある。村の入口の墓かもしれない、とのことである。なお地形図によれば、写真左端の校舎の付近にはマウンド(盛土、小山)があった。今回の発掘範囲内でマウンドの存在は確認されていないが、縄文人たちはこれらの遺構を使用したのち、マウンドを築いていた可能性がある。遺構空白地域を境に南北で独立したマウンドであったかもしれない。 深さ180cmの第10号・11号土坑、深さ3m近い第9号土坑など特筆すべき個別の遺構がある。次のページで紹介しよう。 |