2006年4月2日(日)

遺跡めぐり 

市原の城郭と国府跡をたずねて (3)市原城・市原古道遺跡

― 千葉県市原市市原 ―

(参考) 
 ■遺跡めぐりのお知らせ   
 
(コース)
  バス停「郡本」→古甲遺跡門前貝塚
  →能満城(釈蔵院→府中日吉神社→馬場ノ内館跡(国府・守護所候補地)→能満城主郭・城山)→甲田
  →市原城(要谷→光善寺廃寺跡阿須波神社)→市原古道跡・市原条里制遺跡→山木入口(解散)




■ 市原城・光善寺廃寺跡 (国府推定地3) 
▲空堀跡
 右が光善寺。地元では、この道路は空堀の跡だといわれています。真偽不明ですが、昔、東京の骨董屋がここを「発掘」して、鐙を掘り出してもっていった、という話があります。

 光善寺(字「寺山」)の北は、「要谷」(ようげ)という字です。「要害」に通じる地名ですので、昔の住民に城の中心部として認識されていたことがうかがえます。ただし現在、一帯は住宅街となっており、はっきりわかる遺構は見当たりません。市原城の範囲として異論がなく、原地形がかろうじてうかがえる場所が光善寺付近です。(追記)写真より南側にかつて幅4m〜90cmの空堀跡と思われる場所があったが、現在は埋め立てられて住宅が建っている、との教示を地元の方よりいただきました。
▲光善寺薬師堂
 薬師堂の背後から墓地にかけてわずかに土塁の跡が残ります。
 「薬師堂縁起」には、本尊の薬師如来は神亀元年(724年)に行基がつくったとし、寺の創建者として「市原領主曽我の稲目(?)の末葉、上総介光重の一子、曽我之上総之太郎光善」の名があげられています。更科日記の最初の旅立ちの部分に「薬師」云々という個所があります(→原文)。想像の世界では、この薬師堂とその薬師を結び付けたい気持ちになります。
▲「薬師堂縁起」を読む
 光善寺の付近は、古代寺院の跡(光善寺廃寺)でもあります。奈良時代の布目瓦が出土します。上総国分寺、国分尼寺の瓦と同笵(どうはん)の、つまり同じ型でつくった瓦もあります。川焼瓦窯(市原市草刈)のほか、村田川水源の大椎第一遺跡(千葉市、大椎城の東隣)で同笵の瓦がみつかっており、これらの場所が光善寺廃寺の瓦の供給地だった可能性があります。光善寺廃寺は、市原郡の郡名寺院と想定されています。
▲光善寺西側
 光善寺付近は周囲より高くなっているのがわかります。小高春雄1999は、台地先端の鉄塔付近がより高いので、空中写真などの検討もふまえて、その付近が主郭である可能性を指摘しています。
▲「忍丹波守の居城跡」の標識
 能満城の標識には、「忍民部少輔」とありますので、これらの標識が正しいとすれば、能満城と市原城は兄弟の城ということになります(「忍」は「芦野」とする場合もある)。しかしこの情報は、フィクションである軍記物語の記述をもとにした推測である可能性があり、慎重な検討が必要でです。
 ※市原城の範囲 
 宅地造成されて原地形が失われているところがおおく、発掘調査もごく一部しか行われていないので、はっきりしません。大まかにいって、市原市1998は、広く宝積寺の谷、市原八幡神社付近から北の市原台地全体を市原城と想定し、低地に堀が存在する可能性、また阿須波神社付近が主郭である可能性も示唆しますが、小高春雄1999は、光善寺前の道路以北、国道297号線以東のより狭い範囲を想定しています。台地西側の遺構についてはこちら
■ 阿須波神社と市原古道・条里制遺跡  
▲阿須波神社
 光善寺の西100m、市原台地西縁上に位置します。阿須波(あすわ)の神とは、旅の安全を司る神だそうです。ところで『万葉集』に「庭中の阿須波の神に小柴さし吾は斎はむ帰りく来までに」という歌があります。上総の人、若麻続部諸人(わかおみべのもろひと)が天平勝宝7年(755年)、防人として九州に旅立つときの歌ですが、この歌の中に出てくる「阿須波の神」とは、まさにこの神社のことではないか、と言われているのです。
▲阿須波神社からみた古道跡・条里制遺跡
 阿須波神社からは、台地西側の低地が見渡せます。この低地は古代の条里制、つまり水田の跡です。また阿須波神社の直下から、東京湾方向に幅6mの古代道路跡が延びています(写真中、右の館山道をくぐる現代の道にほぼ並行、やや左寄りの位置)。これは、地元で「オオミチ」または「ナカミチ」と呼ばれてきた道に該当し、上総惣社とされ、上総国府との深い関係が推測される飯香岡八幡神社の大祭の、柳楯神事において通ることになっている道でもあります。
▲古代道路を通り、低地に降りる
 山倉のほうから市原台地を北進する古代の官道は阿須波神社の前、字「辻」で北西に方向をかえ、神社わきから低地に降りて、低地の古代道路跡につながり海岸方向に進みます。 防人も、『更級日記』の作者のような、国司の姫君も阿須波の神に旅の安全を祈り、この道を通って西国に向かったのでしょう――そう想像しても、けっして荒唐無稽とはいえない、すごいところです。なお市原市1998は阿須波神社の北付近を市原城の西方面への虎口とします。
▲市原台地(市原城・阿須波神社)、西側低地からの遠景
 下見で撮影した写真。写真左端が台地の北西先端部になる。右、台地上にわずかに赤い点が見えますが、阿須波神社の鳥居。手前の低地が市原条里制遺跡。古代の官道は、阿須波神社の北(写真左)で台地を降り、写真中央やや右の重機の左付近から、左(東京湾方向)に向い、ほぼ直線状に延びます。
 台地上西側縁辺(字「作ノ内」)には土塁状の地形が存在し、一部は発掘調査が行われています。その報告書(市原市1998)によれば、最大幅3.8m、郭内からの比高4〜6m、低地からの比高10mの規模で、尾根状の原地形を削り出すことにより作られた「土塁」です。これには、布目瓦のほか、中世の五輪塔や戦国時代の厳しい状況を示唆する痕跡も伴っています。問題はこれらの台地西縁の遺構が市原城の遺構といえるかどうか、ですが、市原市1998は、肯定的。小高春雄1999は否定的です。調査研究の進展が望まれます。
▲水田(条里制遺跡)でみつけた土師器片
 古代瓦の落ちている場所がいたるところにあり、だいぶ千葉市と様相がちがいます。さすがに上総国の中心地域です。市原市の遺跡のスケールの大きさを堪能しました。古代からの歴史を背負っているせいもあるのでしょうか。この地域の城郭といわれる遺構はなかなか判断が難しいようですが、それがまたおもしろいところです。またお邪魔します。お疲れ様でした。


(2)能満城
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(参考文献) 
市原市1986 『市原市史 中巻』
市原市1994 『市原市上総国府推定地確認調査報告書 1』
市原市1998 『市原市市原城郭跡』市原市文化財センター
市原市1999 『上総国府推定地歴史地理学的調査報告書』
市原市文化財センター2005 『第20回 市原市文化財センター 遺跡発表会要旨 平成17年度』
市原市文化財センター? 「能満城跡と周辺の遺跡」
小高春雄1999 『市原の城』
千葉県1998 『千葉県の歴史 資料編 考古3 奈良平安時代』

千葉県文化財センター1998 『第376集千葉県埋蔵文化財分布地図3−千葉市・市原市・長生地区(改訂版)− 』1998年6月。
『日本城郭大系第6巻千葉・神奈川』 児玉幸太・坪井清足監修、新人物往来社、1980年。

 ※原則として「編著者+発行年」で引用する。


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