縄紋式前期の漆工技術と「生態型式学」

−押出遺蹟における漆器インダストリと「漆と玉の文化史」−

 

鈴木正博

 

 


1.序―縄紋式文化における漆工技術はどのように研究されているか―

 

(1)研究視界−縄紋式文化のウルシと漆−

漆の先史考古学には幾つかの支援分野による研究が必須となる。特に日本先史貝塚を研究対象にしてきた立場にとっては動物学から植物学への知識の大きな転換も必要であり、またパブリック・アーケオロジー研究を進める立場からは極力誤解を与えないように正確を期すためにも、研究前提としての支援分野の成果を明らかにしておくことは避けて通れない倫理である。そこで網羅性については紙面の都合もあり省略に従うが、体系性の要点のみについて触れておくことにする。

先ずは植物学の対象としてのウルシである。縄紋式では植物遺体として花粉果実木材が検出され、ウルシの分布自生ウルシの有無年代的遡源DNA解析などから列島ウルシの起源問題に特に関心をよんでいる。それには鳥浜貝塚における草創期層から検出されたウルシも大きな問題を提供しているからである(Noshiro S,Suzuki M,Sasaki Y 2007)。その中の一人である鈴木三男によれば、尚起源地の特定には至らず、土器の起源問題と共通の課題に遭遇しつつも、中国大陸との枠組みが優勢のようである(鈴木三男2008)。

ウルシの利用樹液の塗料・接着剤、実の蝋、そして薬用・食用まで幅広いが、先史考古学で注目を浴びるのは樹液による塗料やアスファルトと同様の接着剤である(千葉敏朗2006)。

ウルシの樹液は有機化学による分析対象であり、宮腰哲雄を中心とした応用化学分野の研究者による成分分析や劣化分析が分かりやすく参考となる(神谷嘉美・本田貴之・宮腰哲雄2007本田貴之・渡邊裕之・吉田邦夫・宮腰哲雄2008)。

脂質成分に着目すると日本・中国のウルシはウルシオール、ベトナム・台湾のウルシはラッコール、タイ・ミャンマーのウルシはウルシ属以外のビルマウルシ属でチチオールと呼ばれ、この範囲の産地同定は有効である。しかし、日本産か中国産かの判定は脂質成分の組成分析では困難であり、吉田邦夫の教示によれば、野菜の産地偽装で注目を浴びた手法を用い、ウルシが育った土壌成分を指標として反映するストロンチウム同位体分析による判別の有効性が今後は期待できる。

文化財として修復の対象となっている漆器japan)に利用される樹液はウルシのみであるが、では実際の縄紋式文化ではどうか。

列島には6種のウルシ属(ウルシ、ハゼノキ、ヤマウルシ、ヤマハゼ、ツタウルシ、ヌルデ)が生育し、樹液の採取が可能である。そこで埼玉県寿能遺蹟出土の漆器3点を赤外分光光度計で測定した結果を参照するならば、2点は漆、1点は「現在使用されている栽培漆ではなく、ぬるで、山うるし、はぜ、つたうるし、柿渋等の漆類似物のいずれかが、単独であるいは混合して使用されているように思われる。」(見城敏子1984)との考察に各地で検証される確かさが伴えば、縄紋式ではウルシ以外の樹液も塗料として用いる知識と経験則が蓄積されていたことになる。さらに三内丸山遺蹟ではニカワも使用されているとの発表に接し(四柳嘉章2007)、固着剤もいろいろと活用されていることが分かる。

保存科学面からの漆器研究は、木胎などの樹種鑑定、X線透過像等による藍胎漆器や竪櫛などの胎構造分析、塗膜層断面観察による塗装工程復元、蛍光X線分析による主成分元素の検出とX線回析分析による鉱物成分同定からの赤色顔料推定AMSによる炭素14濃度測定による年代推定などが定着している(永嶋正春編2006)。特に縄紋式を特徴付ける赤色顔料の同定は既にモースの大森貝塚から開始されるなど長い研究の歴史がある。

民俗例も知識の充実として重要な役割を果たしている。ウルシの栽培を考察する場合の基本知識が得られ、縄紋式という制約条件において適用するならば、漆アグロフォレストリ計画集落が形成されていたことを知る。

鳥浜貝塚における草創期ウルシの同定により草創期農耕(鈴木正博1995)も後退する必要はなさそうである。

さらに生業としての漆工芸に関する民俗例の蓄積も同様であり、木地師や編み物製作から漆塗作業に関わる全工程の理解が得られ、漆器インダストリとして分業による集団構成が彷彿とするに至り、往時の社会を構成する集団を「複雑化」という視点から考察する場合には欠かすことはできない専門性であろう。

以上の支援研究を駆使すれば、概ね縄紋式漆の研究が開始できるであろう。既に永嶋正春や山田昌久によって研究の現状が遺物としての道具の特定も含めて手際よく纏められ(永嶋正春編2006山田昌久編2006)、パブリック・アーケオロジーの立場(鈴木公雄1988)からは最新の情報として参考になる。

さて、ここからが私自身の研究領域となるわけであるが、成分分析や技法の研究成果を統合することによって最終的に制作された縄紋式漆器を対象とした様式的な研究と様式形成に関わる集団関係分析を推進してきた(鈴木正博2007・2009)。

しかし、漆だけに特化して縄紋式文化における環境資源の高度適用に切り込む所業は、無意識のうちに研究の細分化の初歩的隘路に陥り、仮想的に積み上げられ肥大化された漆文化願望が唱えられるだけである。

畢竟、縄紋式文化における漆工芸の解明は、専門性による局所最適化位相、および地域社会を組織する集落構成による全体最適化位相を導出し、その両者の統合による複合価値こそ先史考古学が導出する方法的秩序である。

 

(2)研究視座―「生態型式学」と「彩色漆文様帯」―

「生態型式学」とは

生活の道具として発達した日本先史土器を中心とする研究の進展は、多様な立地環境における発掘調査機会の激増や広域面積調査による調査期間の長期化によって、極めて限定された遺蹟では局部ではあるものの観察の精緻化が進行し、また粗野ではあるが地域傾向の俯瞰も可能となり、制約の多い調査内容における問題提起とともにある程度の年代的な新旧関係と地方的な系統関係は整理されるようになってきた。

しかし、まだまだ不明な年代的変遷や未明な地方形成過程も顕著に見られ、縄紋式社会の真相を語るには目指すべき組織としての編年秩序には遠く及ばない状況である。したがって、現状では社会の復元を目指す接近に対しては概観する程度に留めざるを得ないが、将来に委ねるべきである点は既に大森貝塚で実証してきた経験がある(鈴木正博、2009a)。

2009年には報告書刊行から130年を迎えた学史的な大森貝塚。大森貝塚の縄紋式土器を1980年3月に再報告する機会を得たが、そこで用いた型式学の応用は、年代的な新旧関係と地方的な系統関係を土台として、さらに新たなる分析を加えたものであった。

それは「土器型式」として構成されている土器群の生成基盤に接近するため、文様帯によって土器群を類型化し、層位や出土状況などの人類活動基盤を重視しながら、その類型間の相互作用を分析するもので、研究の目的を明らかにする意味で「土器社会論」と命名した(鈴木正博1980)。「土器は土器から、文様帯は文様帯から」という視点を、短い一時期における人類活動の結果として認められた土器群の型式組成環境を重視しつつも固定的に解釈することはせず、組成環境が特定の土器に与える影響関係を分析する新たな方法へと高次化したものであり、「土器型式」内部における人類活動の推定方法を「生態型式学」と呼ぶことにした。

その後、山内清男の「土器の用途」研究(山内清男1964)に学び、また実際に漆器について見聞を深める中で、「生態型式学」における相互作用の対象を往時の用途環境である「皮革、瓜類、木器、樹皮、繊維製等各種の容器」(山内清男1964)へと拡張する必要性を認めることになった。

そこで改めて定義する必要に迫られ、日本先史において文様帯と容器環境の間の相互作用から人類活動を復元する」ことを目指す領域を「生態型式学」と呼ぶことにしたいと思う。

畢竟、文様帯の進化の歴史学が「文様帯系統論」であるならば、文様帯の社会学・経済学的な関心に基づく接近法が「生態型式学」であり(鈴木正博2008)、最終的に目指すところは大森貝塚報告の100年後の立論となった「土器社会論」であることは言を俟たない。

 

「彩色漆文様帯」とは

続いて冒頭で述べた漆器の様式的な研究について触れておく。最近明らかにした経緯があるように、それは以下に引用する思考法であり、少々長いが関係する全文をそのまま引用する(鈴木正博2007)。

************** (引用開始) **************

そこで先ず学史的な総合研究として参考にすべきは山内清男の「縄紋土器の技法」であり、「焼成前に粘土中に色料を混ずるか色料を混じた粘土を表面に塗るというような手法は世界の彩文土器に通有のことであるが、縄紋土器にはこのような例はない。弥生式では赤色(酸化鉄)を焼成前器面に塗りこんだ例がある。縄紋式の赤色色料は皆焼成後加えられたものであって、酸化鉄が最も普通で関東の早期(田戸上層式)に既に行なわれている。水銀朱も少量あるが主として関東地方、後期にみられる。赤色色料は土器の外面、内面に一様につけたもの文様の特定の部分例えば磨消縄紋の縄紋の部分、或は溝の部分に限られて加えられることもあり、また色で文様を作っているものもある。泥炭層のような低湿な包含層から出た土器では赤色の部分は膜をなして漆のような外観を呈する。普通の包含層及び貝塚等で出たものは粉末状をなしており容易に洗いおとせる。これは色料が樹脂様のものと共に塗られたことを示すものであって、膜状粉末状というのはその後の保存状態の差によるものであろう。」(山内清男1958:ゴジック体は引用者)と考察された。

ここにおいて、「土器の外面、内面に一様につけたもの」、「文様の特定の部分例えば磨消縄紋の縄紋の部分」、「溝の部分に限られて加えられること」、「色で文様を作っているもの」という縄紋式/弥生式全般にわたって通用するような「施朱様式」(鈴木正博1993a)の日本先史土器への限定作法が指摘され、それらは漆か否かという弁別を超えて重視すべきと理解された。

その後も「縄紋土器の技法」における接近法を継承すると共に、一層の体系化が企図された(山内清男1964b)。そこでは「土器型式」の意義に留まらず、「土器」製作を階層的に扱う方法について体系化し、更には「土器の工芸的研究、用途の決定について」指針を明確にしており、縄紋式土器研究の到達点に相応しい解説である。「彩色文様帯」は「土器」製作を扱う方法の中で取り扱われており、その方法は既に別稿にて触れている通り、極めて体系的であり、以下の7階層から構成され、その階層は比較する上で常に優先順位として認識されている(鈴木正博1987c1999a2002b)。

山内清男による縄紋式土器研究7階層モデル

 階層1:「粘土」の研究

    【階層2】:「成形」の研究

    階層3:「器形」の研究

    階層4:「表面の仕上げ」の研究

    階層5:「装飾」の研究

    【階層6:「文様帯」の研究

    【階層7】:「彩色」の研究

「彩色文様帯」の研究はその名の示す通り、【階層7】における「彩色」の体系的な研究(市毛勲1998)を意味している。しかし、【階層1】から【階層6】までの研究は縄紋式土器や弥生式土器であれば、略共通した研究階層として一般性を有しているが、【階層7】は全ての日本先史土器に一般性を有するものではなく、特定の土器群に観察され得る研究階層である。これは「土器型式」を決定する属性ではなく、決定された「土器型式」の「考古文化」として議論されるべき研究である、という「様式」研究の立場を意味しており、「縄紋土器の技法」時点の状況は次の通り更新され、更に後述するように新たに【階層7】の研究自体が構造化されたのである。

「元来樹脂とともに塗られたものが、保存状態の差によって一方は漆様、一方は粉末状に残ったものらしい。弥生式中期及び土師器では赤色色料は焼成前に器面に塗り、すり込まれている。洗っても剥げない。色も黄褐色または紅紫色を呈している。縄紋式では焼成後の赤色塗彩のみ知られていたのであるが、最近になって焼成前の赤色が知られるようになった。長野県の勝坂式の太鼓あるいは有孔土器(中略)の若干例、および富山県中川遺跡の晩期精製蓋形土器ほか数例である。他の赤色例と異なり、明らかに焼成前に加えられ、洗い落とせない。この種の焼成前の赤色の例は新しい技術の存在を示すものであって、その文化的意義を尋ねる必要がある。このほか青森県亀ヶ岡の泥炭層遺跡出土の土器(中略)には赤色以外黝黒色の色彩が見え、他に黒色の色彩も云々されている。これらについてもその化学的成分、原料および技法の追求が必要である。」(山内清男1964b:ゴジック体は引用者)

以上、山内清男は彩色漆に限ることなく、広く「ペインティング様式」である「彩色文様帯」としての接近法を確立し、それらは更に分析が加えられ、

「様式」−「技法」−「成分分析」

という3階層分析構造を有する総合的な研究法として確立したのである。

翻って、縄紋式から弥生式前期にかけての「彩色文様帯」研究動向を吟味するならば、研究が著しく立ち遅れているのが「様式」研究である。また、逐一の文献引用は省略に従うが、赤色顔料の「成分分析」や漆の「塗技法」については成果が豊富で一定程度の蓄積が参考になっているが、「彩色漆文様帯」の場合では、漆の「成分分析」については埼玉県寿能泥炭層遺蹟調査を含めて以後の蓄積が少なく、山内清男が指摘したような分析の高度化が今後の課題である。

そこで本稿では「様式」の研究階層に注目し、「土器型式」との関係を通した「様式」分類の研究を進めておくならば、木胎漆器や藍胎漆器を含め縄紋式弥生式の「ペインティング様式」は、「塗技法」を除いて次のような「様式」構成並びに「様式」の複合と組合せによって実現されていることが判明する。

点彩文:単独の点塗を行う様式

線彩文:線塗による文様を描く様式

平彩文:文様を充填させる平塗を行う様式

下地浮出彩文:下地を浮き出す平塗の様式

面彩文:器の全面や一部を隈なく面塗する様式

*** (引用終了:引用文献は省略に従う) ****

そこで今回の関心事は、

@列島における縄紋式前期までの漆関連製品を漆工技術の位相を見出した上で漆器インダストリとして概観すること、

A押出遺蹟出土の特徴ある塗漆土器を分析対象とし、「彩色漆文様帯」に「生態型式学」を適用すること、

の2点にあり、「データ対話型」研究法によって新たに獲得した考察を提示する。

 

2.列島における縄紋式前期漆工技術の展開

 

(1)縄紋式漆工芸の出現

九州島における縄紋式早期後葉「塞ノ神B式」の低湿地貝塚である東名遺蹟からは多量の植物性遺物が検出されている。『第21回考古資料展』(佐賀市教育委員会、2008)によれば、大型/小型の編組製品、多種の木製容器、「編歯式竪櫛」、櫂状木製品、掘り棒、板状木製品など縄紋式を特徴付ける編み籠と多様な木製品が指摘されており、特に植物性製品における什器・道具類の総合的な品揃えの確立は早期にまで遡ることが明らかとなった。注目すべきであり、「撚糸紋系土器群」の夏島貝塚における縄利用と骨角器製作の発達に着目するならば、軟質素材の活用と高度利用はかなり古く遡るものと思量する。

さらに貝玉/骨玉/牙玉/角玉や貝輪などの装身具も伴存しており、生活什器や労働用具のみならず、装身具類の発達には非日常の思想として「竪櫛と貝玉の風習」が彷彿とする。あるいは生活什器の一部に非日常の用途が措定されるが、漆器の検出は未明である。

漆工芸は実用性に長けることが什器として第一義であるが、他方でその彩色配置が非日常を彷彿とさせる印象も強い。その中核となる赤色顔料の利用は漆器以前、しかも縄紋式以前に遡ることは良く知られており(市毛勲1998)、古くより湯の里4遺蹟が著名であるが、近年北海道における沈着顔料、顔料、赤鉄鉱などの検出例が纏められた(福井淳一2003)。本州でも新潟県荒沢遺蹟において赤色顔料(赤色鉄石英)とその利用形態も分析され(小熊博史2003)、縄紋式以前に遡ることは確実のようである。

さらに北海道では赤色顔料に加えて玉も土壙墓に伴存するなど、北日本では縄紋式土器出現以前から「施朱墓」(鈴木正博1993)による「赤と玉の風習」が定着している。この「赤と玉の風習」の系譜上に位置付けられそうな縄紋式早期の土壙墓が北海道垣ノ島B遺蹟のP−97土壙墓であり、赤色顔料による「漆糸状製品」が頭部・肩部・腕部・足部の各位置から検出された(永嶋正春編2006)。まさに「漆糸玉類の風習」の出現であるが、早期における細別年代の絞り込みと製作場所に課題があるものの、少なくとも北日本では赤漆の糸状製品によって人体各部位にふさわしい形態の装身具を製作し、使用するという非日常の風習が最古の姿として明確になった。

 

(2)「漆と玉の文化史」と漆器インダストリ

このように縄紋式以前に北日本で明らかとなった「赤と玉の風習」、縄紋式早期の洞穴に共通した「三種の貝玉」(鈴木正博2004)と縄紋式早期の北日本における「漆糸玉類の風習」、さらには九州島における早期後半の「竪櫛と貝玉の風習」というように、各種玉類の展開にやがて漆製品が加わるという状況に逢着する。

詳細の跡づけは今後に委ねるが、縄紋式前期に確立する漆製品の品揃えは玉文化の展開と決して無縁とは証明できず、寧ろ「漆と玉の文化史」として見直す視点こそが必要不可欠に思われる。

では、前期の状況はどうか。前期前葉の「漆糸玉類の風習」は新潟県大武遺蹟から「首飾り様漆製品」が検出され、島根県夫手遺蹟検出の「漆液容器」(「西川津式」)によって日本海側における製作の実態が確認された(永嶋正春編2006)。前期初頭の石川県三引遺蹟(金山哲哉編2004)では塑形材を用いない頭部有角形態の「結歯式漆櫛」が検出され、現状における初期の漆器インダストリは装身具への傾斜が強いが、東名遺蹟の品揃えとの関係が当面の課題でもある。

因みに前期における漆櫛の頭部有角形態は戸田哲也(戸田哲也編2003)も注目するように三引遺蹟<羽根尾貝塚<鳥浜貝塚の順に肥大化へと傾斜している。有角形態は透かし文様と同様に技術的な系統のみならず、年代的な変遷を示す指標でもあり、押出遺蹟の「結歯式漆竪櫛」片もこの仲間の可能性が考えられる。

こうして非日常の装身具においても北陸・関東・東北という広範囲における漆工技術の浸透が顕著に現れている点に漆アグロフォレストリ社会の形成と漆工専門集団による技術の継承関係が彷彿とする。

系統関係に加えて重要な指標は量産の程度である。遺蹟における出土点数なども加味するならば、縄紋式前期における漆櫛分布の形成は地産地消を思わせ、点と点に過ぎない現状から系列的な継承機構への展望に対して如何に接近するか、が今後の課題である。

前期中葉「関山U式末から黒浜式古段階」の羽根尾貝塚、その直後の「北白川下層U式」の鳥浜貝塚(若狭歴史民俗資料館編1987)では木胎漆器や陶胎漆器が漆器インダストリとして定着するものの、伝統的な作法である「漆糸玉類の風習」現象は未明である。

鳥浜貝塚に続く「大木4式」の押出遺蹟(山口博之編2006佐藤鎮雄編2007)でも「漆糸玉類の風習」は未明だが陶胎漆器の発達とともに藍胎漆器が加わり、縄紋式漆器インダストリとしての「三種の漆器」(藍胎漆器/木胎漆器/陶胎漆器)による基本構造が完成する。加えて木胎漆器における象嵌作法による装飾(巻貝のフタを埋め込む作法)も青森県向田(18)遺蹟で検出されており(地底の森ミュージアム編2009)、広域に完成度の高さを実感することができる。

一方、北日本で発達する「漆糸玉類の風習」にとって前期には注目すべき現象がある。それは列島における縄紋式早期末葉から前期の遺蹟一般では、土壙などから玦状耳飾など石製装飾品が検出されることが多く、北日本で非日常として確立した「漆糸玉類の風習」とは別種の新たな玉文化の系統的出現としての差が見出せる。

畢竟、漆器インダストリの確立を促した背景として、非日常である装身具などに構造的価値変容が同期した顕著な現象に注目するならば、縄紋式前期は「漆と玉の風習」による緩やかな「複雑化」への定着が認められる社会変動期と考察する。

 

3.「生態型式学」から観た漆器インダストリと押出遺蹟における「彩色漆文様帯」の意義

 

是川中居遺蹟の漆器は平泉文化の影響である、としてミネルヴァ論争へと展開したことは夙に有名である。その縄紋式晩期「亀ヶ岡文化」の漆器が奈良県唐古遺蹟において弥生式前期と関係することが判明したのも戦前である(鈴木正博2007)が、そこでは縄紋式の内部事情を深耕する姿勢よりも大陸文化との関係が前提となっていたようである(小林行雄1951)。

今日では「土器型式」による編年と各地における連絡・交渉が一定の成果を収める一方で、「土器型式」によって組み込まれた豊富な遺物のアッセンブリジ構造における相互作用の解明が新たな課題となり、今日的な目的を達成すべく従来土器のみを分析対象にした「生態型式学」は、前述したように容器一般にまで拡張することになる(鈴木正博2008)。

 

(1)「生態型式学」から観た漆器インダストリ

「亀ヶ岡文化」の漆器インダストリについて出現過程を踏まえた系列的な構造を導出する第一のインダストリ系列は装身具としての糸玉類/竪櫛/腕輪他である。第二のインダストリ系列は什器としての「三種の漆器」(藍胎漆器/木胎漆器/陶胎漆器)である。そして第三のインダストリ系列は先史演劇装置としての飾り弓/飾り太刀他であるが、飾り太刀は石刀・石剣の後晩期における発達と同期した新しい製品であることは言を俟たない。

縄紋式漆器インダストリの定義は「生態型式学」として土器との関係を中心とし、第二のインダストリ系列である「三種の漆器」を「生態型式学」における基本構造系、第一と第三のインダストリ系列である非日常の糸玉類/竪櫛/腕輪/飾り弓他を付加価値構造系と指標化し、様式的な考察を導出する。

縄紋式前期後葉の押出遺蹟(山口博之編2006)で見出せる漆器インダストリは基本構造系を満たしており、現状では最古の完成体の姿と評価できる。

すなわち漆工専門集団による基本構造系への初期の到達点であるばかりでなく、特に「彩色漆文様帯」で活発な議論(佐藤鎭雄編2007)が展開されたように、漆工技術集団の系統や漆器の構成へと問題が展開しており、再吟味に相応しい機会であろう。

他方で押出遺蹟の付加価値構造系では「漆と玉の風習」を構成するものの、腕輪と飾り弓を欠いている。飾り弓は羽根尾貝塚や鳥浜貝塚で、「蔓状腕輪」は三内丸山遺蹟(青森県史編さん考古部会編2002)で検出されており、今後の調査に俟つ部分も大きいであろう。木胎漆腕輪は粟津湖底遺蹟の縄紋式中期前葉例が知られており(中川正夫1997)、あるいは前期にまで遡る可能性もあろう。

 

(2)押出遺蹟における「彩色漆文様帯」の意義

押出遺蹟で注目すべき漆器は塗漆土器とその「彩色漆文様帯」である。特に「彩色漆文様帯」の発達は塗漆土器が中心となり、鳥浜貝塚で顕著な木胎漆器における「彩色漆文様帯」の特徴は見られない。

図4に示したように、押出遺蹟の塗漆土器には形態と「彩色漆文様帯」において可視的に纏るメジャー組列と、形態的にも数量的にもメジャー組列として分類できないマイナー系列が歴然として存在する。

勿論、それらは「大木4式」期という「土器型式」内部において異系統との関係で統合的なアッセンブリジを示しているものの、その一方で「諸磯b式」内部の極限別に従う年代的精度を持ち込むならば、メジャー組列には秩序ある変遷構造が導出される(鈴木正博2009bという興味深い結果が注目される(図1・2参照)。

即ちメジャー組列の「彩色漆文様帯」は押出遺蹟における作風継承と考察し、押出遺蹟の塗漆土器は「三種の漆器」の品揃えとして具備するだけの在り方を超え、生業としての漆器インダストリが展開された分業状況を積極的に考察したい。

では、メジャー組列に対してマイナー系列には如何なる位相が導出できるであろうか。高台付の形態や文様も含め、押出遺蹟に限った特徴ではなく、小林圭一が強調する(佐藤雄編2007)ように山間地域の「諸磯b式」系統と思われる。

外部要因が顕著なマイナー系列に対し、定着度が高いメジャー組列の形成は、出現の背景となる「土器型式」外部との漆器間関係(搬入系統の導出)が新たなる課題となり、浅鉢の搬入や模倣(小杉康2003)という単純化では解決できそうもないことを教えてくれる。

否、寧ろ小杉康の思想を投影して復元されるマツリを覚えこむ前に、本来為すべき重要な「生態型式学」の適用が未達の状態であることを弁えるべきである。地域間における変容過程や地域内で見られる変遷構造、そして漆塗専門集団の移入故地の問題など、事実データを重視する先史考古学の立場として行なうべき「浅鉢群間の相互作用分析」が未着手のまま厳然として横たわっており、先ずは狭義の「生態型式学」の遂行が望まれる。

例えば、「諸磯b式」住居址における検出では「多種形態による浅鉢セット関係」が一般的な特徴となっているのに対し、押出遺蹟では「共通形態による浅鉢セット関係」が顕著であり、そこには選択性を含めて大きな変容が導出されるであろう。「多種形態による浅鉢セット関係」には土壙に観る風習も触れなければならないが、紙面の都合で省略に従う。

「多種形態による浅鉢セット関係」の意義は、象徴的に単純化した搬入/模倣による物流循環連鎖議論(小杉康2003)では追求できず、群馬県みなかみ町小仁田遺蹟D区住居址出土資料(大賀健編1985)を図5・6として示したが、多様な形態を許容しつつも混在する状況そのものに問題の本質を見抜き、異系統土器製作者の移動と定着・変容などが浮上する。

 

押出遺蹟における「彩色漆文様帯」の特徴

 無頚壷を思わせる内傾浅鉢を基本形態とし、赤漆の【面彩文】を【共通基盤とし、型式学や系統論の対象となる特徴を【変容基盤】とするならば、

@【面彩文】の上に黒漆の【線彩文】と【点彩文】

A独立した【点彩文】の出現と定着 

B【線彩文】における「ペインティング型式学」

の3点が議論の対象になる。特にBでは束線帯(何本かの線を束にした帯)の形状変遷や、上下に文様構成を分割する横帯区画とその直線文/主単位文の渦文/その周囲に展開する弧線文などによる充填文様の変化が注目される。

 

【線彩文】の変遷プロセスとその意義(図1・2)

文様構成を除く【線彩文】の単純な違いは、

@     束線の太さ」:細線(mm)、太線(1.5〜2mm)、その中間の細太斑線

A     束線の数」:稠密多数線と粗雑少数線の差異

B     太さと数の相互作用」:類似の文様による比較

から強い相関を導出

の3点に顕著に現れ、【線彩文】における変遷プロセスとして、

出現階段】:「稠密多数細線文」

定着階段】:「稠密多数細太斑線文」

崩壊階段】:「粗雑少数太線文」

の3階段が導出される。しかもこの3階段は後述する【終焉階段】を含め、遺構分布における纏まり状況の独立性とも極めて相関が強く、調和的である(鈴木正博2009b)。

【線彩文】における「ペインティング型式学」を経て変遷プロセスが措定されると、それらに同期した新たな現象の整合性、あるいはメジャー組列とマイナー系列との関係、遂には変遷プロセスの背景が問題となり、検討される。

【点彩文】の位相は【線彩文】の各階段に関係し、【定着階段】では弧線や渦文と複合する。

形態変化では底部形態の尖底→平底の変化や浅鉢の大→小への変化が階段の推移と同期して生起する現象を示しており、調和的である。

メジャー組列の文様帯を考察する場合、本質的な変化を確実に追えるのは【定着階段】からであるが、図2に示したように【出現階段】にも「上下分割文様帯」となるマイナー系列が形成されている。

そうした「上下分割文様帯」の共有化による線描作法が示す変遷構造は重要であり、線描作法シーケンスからは押出遺蹟の世代間継承プロセスで生起した在地伝統性による変容結果と考察する。

 

【面彩文】の伴存とその変遷プロセス(図3)

押出遺蹟の「彩色漆文様帯」は【線彩文】に限らず【面彩文】も以下に示すように充実している。

@【有文面彩文】:土器の文様帯も含み体部外面全

面を塗漆し、単調な抑制効果ながらも深い味

わいを創出。「諸磯b式」深鉢への塗漆が抽

出されているが、これによって「諸磯b式」

の土器製作と塗漆との独立した位相が導出さ

れる。

A【無文面彩文】:無文浅鉢の体部外面全面を塗

漆。出土状況と形態変化により、【線彩文】か

ら【面彩文】への主客転換が生起。

【無文面彩文】の出土状況からは【定着階段】、【出現階段】における伴存の可能性が大で、しかも【崩壊階段】のST29では【面彩文】が主流となっている。さらにST27は【崩壊階段】よりも変化が進んでおり、【終焉階段】とすべき新たな階段における形態と考察する。

 

押出遺蹟における「彩色漆文様帯」の消長

【線彩文】の文様帯に観る秩序ある変遷と【面彩文】の形態変化から導出される塗漆浅鉢の内部構造は、図7に示す【出現階段】→【定着階段】→【崩壊階段】→【終焉階段】という変遷秩序であった(鈴木正博2009b)。

図7の変遷秩序の中で【線彩文】の消長は、全ての浅鉢が交換財として継続的かつ緊密な関係による搬入行為でもたらされたと考えるよりも、漆工専門集団による押出遺蹟における塗漆伝統の結果とすべき状況を考察させる。

【線彩文】から【面彩文】への移行は何を示しているのであろうか。【線彩文】品質における熟練度の崩壊過程が強く関わっている可能性が高い。即ち、【定着階段】以降に世代間継承に品質悪化が顕現し、【線彩文】価値の低下とともに特定集団間のネットワーク構成により【面彩文】へと収斂した可能性に注目したい。 

 

「彩色漆文様帯」の系譜

押出遺蹟における顕著な「彩色漆文様帯」は「大木4式」期集落に突如として出現するが、漆工専門集団による在地生業と考察する立場からその系譜を概観することを試みたい(本来は列島前期遺蹟の「ペインティング型式学」と漆工専門集団ネットワークの追及が緻密に行なわれていることを前提とすべきであるが、今後の課題としたい)。

押出遺蹟より古い前期中葉を中心とする「彩色漆文様帯」を確認するならば、滋賀県入江内湖遺蹟(瀬口眞司編2007)、神奈川県羽根尾貝塚が著名かつ代表的である。

羽根尾貝塚は体部の黒漆あるいは口縁部の赤漆、または内面赤漆などの【面彩文】に統一されている。入江内湖遺蹟も羽根尾貝塚と共通する【面彩文】が纏っているので、前期中葉は【面彩文】が広く発達した時期である。

これに対し前期後葉になると、入江内湖遺蹟でも「北白川下層Ua〜Ub式」と思われる黒漆の上から赤漆による【平彩文】木胎漆器や黒漆の上から赤漆による【線彩文】塗漆土器が出現するようで、長野県阿久遺蹟(島田哲男1982)とともに注目している。

特に【平彩文】の発達は東京都七社神社前遺蹟(中島広顕監修1998)の「諸磯b式」初頭に発達しており、【面彩文】から【平彩文】への変遷を示しているかのようである。

同時に【平彩文】が円形として独立した特殊な形態になったのが【点彩文】である。七社神社前遺蹟の第29号土壙や第36号土壙から良好な資料が検出されている。鳥浜貝塚でも【点彩文】の厚口浅鉢や【線彩文】と併施された浅鉢が検出されており、その系譜が押出遺蹟において【線彩文】とともに併施された浅鉢となったようである。

さらに入江内湖遺蹟や阿久遺蹟の「赤線彩文」に注目すれば、鳥浜貝塚で「北白川下層IIc式」と報告された木胎漆器と共通し、別種の系統的な変遷であろうか。

さて、鳥浜貝塚では押出遺蹟の【出現階段】とした「黒線彩文」よりも丁寧な作風の「稠密多数細線文」による渦文浅鉢二種(「北白川下層IIc式」)も著名で注目したい。

そのうちの一種は鳥浜貝塚で検出された並行沈線文による赤彩土器と共通の文様帯でもあり、「黒線彩文」による渦文生成と密接な関係を示唆している。

このような動向は中部・関東地方では如何であろうか、山梨県天神遺蹟甲ツ原遺蹟、新潟県大原遺蹟、群馬県小仁田遺蹟などにも触れるべき資料がある。

天神遺蹟の1例(新津健・米田明訓編1994)は押出遺蹟のメジャー組列と共通し両者の関係が気になり、小仁田遺蹟(大賀健編1985)では図5・6に示したように木の葉文系列における「上下分割文様帯」の多用化と押出遺蹟のマイナー系列との関係が極めて示唆的である。他遺蹟は鳥浜貝塚ほどの情報量には及ばず、紙面の都合もあるため詳細は機会を改めたい。

畢竟押出遺蹟の「彩色漆文様帯」は漆工専門集団の動向として鳥浜貝塚から関東甲信越の山間地域にかけての関係に強く注目すべき意義を求めると同時に、漆器インダストリとして局所最適化適応した立地に形成された集落形態と考察する。

 

4.今後の展望−局所最適化による集落形成と「環境(気候)ミクロ変動」の視点から−

 

関東地方で海退が始まる前期初頭の頃(鈴木正博2009c)、押出遺蹟も「押出小雨期」により陸化が開始し、前期中葉前後には再び水位が上昇し、集落としての利用は前期後葉「大木4式」限定の短期である。

一方、湿原地帯の大谷地における内水面環境を極度に活用した生業に特徴があり、漆器インダストリに必須な湿度確保には最適な湖沼環境である。

他方で北陸と関東も外海に面した前期中葉の拠点貝はイルカや大形魚の捕獲に特徴があり、骨角器の充実なども含め漁労文化の発達と高度化が顕著に見られるが、押出遺蹟と同様に「土器型式」の継続性は短期である。

このように環境への局所最適化を図る縄紋式集落の存在は短期形成という特徴がある。環境適応では洪水や多雨の影響、あるいは貝塚では黒潮の接岸流の変更など「土器型式」よりも短い年代幅で集落の維持に大きな変動を示すことがあり、このような「環境(気候)ミクロ変動」は集落の存続に多大な影響を与え、新たな局所最適化を求めて集落の移動が余儀なくされる。

具体的に較正曲線に観る炭素14濃度の不安定な挙動から判断されるのは、環境(気候)変動はマクロの波動とミクロの波動の組み合わせで形成されるという、関数化できない複雑系運動である(鈴木正博2006)。そのことは人類の環境適応を考察する場合の重要な指針になっている。

例えば、黒潮に乗る回遊魚を考えれば、黒潮の接岸流は「土器型式」よりも短い年代幅で変動するが、縄紋人にとっては同じ場所には魚は回遊せず、専門性の高い漁撈集落には大きな移動が発生し、集落は解体する。「土器型式」では社会変動とみなされるが、自然地理の環境(気候)変動は「土器型式」との整合性は不十分であり、集落レベルの社会変動を考察する場合にはミクロな環境(気候)変動における局所最適化対応を分析する姿勢が必須である。

以上、漆工芸など専門性に特化した生業の維持や技術の継承にはそれを可能とする高度な環境適応が求められるが、縄紋式集落論は居住形態生業活動の組織面から接近し、持続可能性を制御する非日常の風習人的交流関係によって地域構成への議論に展開することが望まれる。

特に縄紋式前期は非日常の風習として大陸由来とされる玉文化による文化史的背景も顕著であり、漆工芸も玉文化と構成する全体最適化視点が不可欠であろう。

併せて検討すべきは押出遺蹟に特有のクッキー状炭化物である。食物製品ではあるが、押出遺蹟の「諸磯b式」期から群馬県行田大道北遺蹟(山武考古学研究所編1997)の「諸磯c式」に共通して見られる形態的特徴と出土状態に、独特の非日常かつ定型的な供物と考察すべき風習上の顕著な現象を指摘しておかねばなるまい。

このように地域文化における異系統混交がもたらす風習上の局所最適化の姿を解明した上で、改めて「大木4式」の集落として再構成すべきが押出遺蹟研究の醍醐味である。さらに「日本遠古之文化」を究極まで推し進める方針に従うならば、地域研究の展開にも遺蹟間相互の連絡・交渉における抜本的な見直しと、遺蹟形成における精緻な人類活動の復元が期待される。

福田正宏・小林圭一両氏のご援助に深謝する。

 

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