縄紋式前期の漆工技術と「生態型式学」

−押出遺蹟における漆器インダストリと「漆と玉の文化史」−

 

鈴木 正博

 

 

 

 


1.列島における縄紋式前期の漆工技術と「漆と玉の文化史」

縄紋式早期後葉「塞ノ神B式」の低湿地貝塚である佐賀県東名遺蹟からは多量の植物性遺物が検出されている。大型/小型の編組製品、多種の木製容器、「結歯式竪櫛」、櫂状木製品、掘り棒、板状木製品など縄紋式を特徴付ける編み籠と多様な木製品が指摘されており、植物性製品における什器・道具類の総合的な品揃えの確立が早期にまで遡ることが明らかとなった。注目すべきであり、「撚糸紋系土器群」の夏島貝塚における縄利用と骨角器製作の発達に着目すれば、軟質素材の活用と高度利用はかなり古く遡るであろう。さらに貝玉/骨玉/牙玉/角玉や貝輪などの装身具も伴存しており、生活什器や労働用具のみならず、装身具類の発達には非日常の思想として「竪櫛と貝玉の風習」が彷彿とする。生活什器の一部にも非日常の用途が措定されるが、漆器の検出は未明である。

漆工芸は実用性に長けるとともにその彩色配置には非日常を彷彿とさせる印象も強い。その中核となる赤色顔料の利用は漆器以前、しかも縄紋式以前に遡ることは新潟県(赤色鉄石英)や北海道(沈着顔料、顔料、赤鉄鉱など)の諸遺蹟例から確実である。北海道では赤色顔料に加えて玉も土壙墓に伴存するなど、北日本では縄紋式土器出現以前から「施朱墓」による「赤と玉の風習」が定着している。この「赤と玉の風習」の系譜上に位置付けられそうな縄紋式早期の土壙墓が北海道垣ノ島B遺蹟のP−97土壙墓であり、赤色顔料による「漆糸状製品」が頭部・肩部・腕部・足部の各位置から検出された。まさに「漆糸玉類の風習」の出現であるが、細別の絞り込みと製作場所に課題があるものの、北日本では赤漆の糸状製品によって人体各部位にふさわしい形態の装身具を製作し、使用するという非日常の風習が明確となった。

このように縄紋式以前に北日本で明らかとなった「赤と玉の風習」と縄紋式早期の洞穴に共通した「三種の貝玉、そして縄紋式早期の北日本における「漆糸玉類の風習」、さらには九州島における早期後半の「竪櫛と貝玉の風習」というように各種玉類にやがて漆製品が加わるという状況に逢着するが、縄紋式前期に確立する漆製品の品揃えとは決して無縁ではない。

では、前期の状況はどうか。前期前葉の「漆糸玉類の風習」は新潟県大武遺蹟から「首飾り様漆製品」が検出され、島根県夫手遺蹟検出の「漆液容器」(「西川津式」)によって日本海側における製作の実態が確認された。前期初頭の石川県三引遺蹟では塑形材を用いない頭部有角形態の「結歯式漆櫛」が検出され、初期の漆器インダストリは装身具への傾斜が強いが、東名遺蹟の品揃えとの関係が当面の課題でもある。

因みに前期における漆櫛の頭部有角形態は三引遺蹟<羽根尾貝塚<鳥浜貝塚の順に肥大化へと傾斜している。技術的な系統のみならず、年代的な変遷を示す指標でもあり、押出遺蹟の「結歯式漆竪櫛」片もこの仲間の可能性が高い。とすれば、非日常の装身具においても北陸・関東・東北という広範囲における漆工技術の浸透が顕著に現れている点に漆アグロフォレストリ社会の形成と漆工専門集団による技術の継承関係が彷彿とする。出土点数なども加味し、前期における漆櫛分布の形成は地産地消が原則のようである。

前期中葉「関山U式末から黒浜式古段階」の羽根尾貝塚、その直後の「北白川下層U式」の鳥浜貝塚では木胎漆器や陶胎漆器が漆器インダストリとして定着し、他方で「漆糸玉類の風習」現象は未明である。鳥浜貝塚に続く「大木4式」の押出遺蹟でも「漆糸玉類の風習」は未明だが、陶胎漆器の発達とともに藍胎漆器が加わり、縄紋式漆器インダストリとしての「三種の漆器」(藍胎漆器/木胎漆器/陶胎漆器)が完成する。

では、北日本で発達する「漆糸玉類の風習」は前期中葉には消滅したのであろうか、ここに注目すべき現象がある。

列島における縄紋式早期末葉から前期の遺蹟一般では土壙から玦状耳飾など石製装飾品が検出され、非日常として確立した「漆糸玉類の風習」と新たな玉文化の間には文化系統としての差が見出せる。

畢竟、漆器インダストリの確立を促した背景には非日常である装身具などの構造的変容が同期した現象を顕著に示しており、縄紋式前期は「漆と玉の風習」による緩やかな「複雑化」への定着が認められる社会変動期と考察する。

2.「生態型式学」から観た漆器インダストリと押出遺蹟の「彩色漆文様帯」

是川中居遺蹟の漆器は平泉文化の影響である、としてミネルバ論争へと展開したことは夙に有名である。その縄紋式晩期「亀ヶ岡文化」の漆器が奈良県唐古遺蹟において弥生式前期と関係することが判明したのも戦前であった。今日では「土器型式」による編年と各地における連絡・交渉が一定の成果を収める一方で、「土器型式」によって組み込まれた豊富なアッセンブリジ構造における相互作用の解明が新たな課題となり、今日的な目的を達成すべく従来土器のみを分析対象にした「生態型式学」を容器一般にまで拡張した。

2−1「生態型式学」から観た漆器インダストリ

「亀ヶ岡文化」の漆器インダストリとは什器としての「三種の漆器」(藍胎漆器/木胎漆器/陶胎漆器)と装身具としての糸玉類/竪櫛/腕輪、及び先史演劇装置としての飾り弓/飾り太刀他であるが、この中で飾り太刀は石刀・石剣の発達と同期した新しい製品であることは言を俟たない。縄紋式漆器インダストリの定義は「生態型式学」として土器との関係を中心とするため、「三種の漆器」を「生態型式学」における基本構造系、非日常における糸玉類/竪櫛/腕輪/飾り弓を付加価値構造系と指標化し、総合的な考察を導出する。

縄紋式前期後葉の押出遺蹟で見出せる漆器インダストリは基本構造系を満たしており、現状では最古の完成体の姿、すなわち漆工専門集団による初期の到達点として相応しい。他方で付加価値構造系では「漆と玉の風習」を構成するものの、腕輪と飾り弓を欠いている。但し、飾り弓は羽根尾貝塚や鳥浜貝塚で、「蔓状腕輪」は三内丸山遺蹟で検出されており、今後の調査に俟ちたい。木胎漆腕輪は粟津湖底遺蹟の縄紋式中期例が知られている。

2−2 押出遺蹟における「彩色漆文様帯」の意義

押出遺蹟で注目すべきが塗漆土器とその「彩色漆文様帯」である。押出遺蹟の塗漆土器には形態と「彩色漆文様帯」において纏るメジャー組列と、そうした纏りが見られないマイナー系列が歴然として存在する。それらは「大木4式」期という「土器型式」内において統合的なアッセンブリジを示す一方で、「諸磯b式」内部の極限別に従う年代的精度ではメジャー組列には秩序ある変遷構造が導出される。

即ちメジャー組列の「彩色漆文様帯」は押出遺蹟における作風継承である。押出遺蹟の塗漆土器は「三種の漆器」として具備するだけの在り方を超え、生業としての漆器インダストリが展開された状況を積極的に評価したい。畢竟押出遺蹟は漆器インダストリとしての立地に局所最適化適応した集落形態と考察する。

3.局所最適化による集落形成と「環境(気候)ミクロ変動」の視点

関東地方で海退が始まる前期初頭の頃、押出遺蹟も「押出小雨期」により陸化が開始し、前期中葉前後には再び水位が上昇し、集落としての利用は前期後葉「大木4式」限定の短期である。一方、湿原地帯の大谷地における内水面環境を極度に活用した生業に特徴があり、漆器インダストリに必須な湿度確保には最適な湖沼環境である。他方、北陸と関東も外海に面した前期中葉の拠点貝はイルカや大形魚の捕獲に特徴があり、骨角器の充実なども含め漁労文化の発達と高度化が顕著に見られるが、押出遺蹟と同様に「土器型式」の継続性は短期である。

このように環境への局所最適化を図る縄紋式集落の存在は短期形成という特徴がある。環境適応では洪水や多雨の影響、あるいは貝塚では黒潮の接岸流の変更など「土器型式」よりも短い年代幅で大きな変動を示すことがあり、このような「環境(気候)ミクロ変動」は集落の存続に多大な影響を与え、新たな局所最適化を求めて集落の移動が余儀なくされる。

以上、漆工芸など専門性に特化した生業の維持や技術の継続にはそれを可能とする高度な環境適応が求められるが、縄紋式集落論は居住形態生業活動の組織面から接近し、それを制御する非日常の風習人的交流関係によって地域構成への議論に展開することが望まれる。

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