馬場小室山遺跡の製塩土器研究と「みぬまっぷ」による研究支援

−パブリック・アーケオロジーに学ぶ先史考古学のモデル構築−

○五十嵐聡江・齋藤弘道・常松成人・鈴木正博・馬場小室山遺跡研究会

 

 

 

 

 

1.序―パブリック・アーケオロジー研究からの提案―

馬場小室山遺跡研究会では2004年から大宮台地南半の見沼を中核とした地域研究を推進し、馬場小室山遺跡の価値を恒常的に発見し続けているが、市民とともに考える活動を通じ、その過程における情報格差の是正措置を特に重視している。何故か。目指すは水の高きより低きに流れる方向性ではなく、逆に「あらゆる可能性」を求めるべく市民からのフィードバックを価値連鎖の相乗効果として活かす「市民に学ぶ考古学」の構築だからである。

馬場小室山遺跡を理解するために画家・井山紘文が精密に復元した「環堤土塚」集落ジオラマや「51号土壙」ジオラマは、「市民に学ぶ考古学」の象徴である。前者の製作過程では遺蹟を詳細に観察し、生活している状態に復元する姿勢を考古学も学び、後者では発掘調査報告書の記述と観察が遺構の復元等の活用に不十分であることを如実に知らされ、考古学は反省した。

記録保存は何のために行われるのか、報告書として記録を残すのはいったい何のためであろうか、馬場小室山遺跡に携わってきた責任と反省から私たちは今、市民に学ぶ謙虚さへと心の持ち方に転換が始まった。これが大都市周辺における多様な人材が居住する地域でのパブリック・アーケオロジー推進の原動力となった。

他方で市民へのフイードバックと併せてパブリック・アーケオロジー研究としての進展も渇望された。それに応えるため、私たちは毎回1枚のイラストを準備し、この1枚に何を託すべきか、考古学成果の更なる深耕をどのようにして実現すべきか等等チャレンジを続け、「みぬまっぷ」の開発となった。見沼の考古学データと近年の考古学成果を地域にフィードバックし、高精度に論理俯瞰することによって新たな仮説を生成する研究支援法が「みぬまっぷ」適用という研究プロセスである。それは私たちの研究レベルの反映でもあり、通説を見直す視点の形成に直結する課題の生成プロセスを「みぬまっぷ」に組み込み、パブリック・アーケオロジー研究からの提案とした。

2.馬場小室山遺跡の製塩土器に着目する!

「みぬまっぷ」は貝怩フ人類史からはじまって見沼の地域的特徴を抽出することに基本的な視座を置いた。分布研究から年代的な環境変遷(「見沼湾」→「見沼潟」→「見沼(汽水)湖」→見沼)を示すことは縄文時代の環境学習には必至である。民話「見沼の竜」の棲家探しは地質構造へと知識を広げ、「見沼の竜」の生態は見沼内を日常の行動領域とする集落のつながりを見る眼差しとして大いに参考になる。見沼の形成が自然堤防による封鎖であることを知るならば、自然地理と自然堤防形成の年代を検討する必要があり、封鎖以前の「見沼(汽水)湖」が馬場小室山遺跡における「環堤土塚」の環境であった。そこから製塩土器が検出されたが、誰も馬場小室山遺跡で土器製塩を行なったとは考えない。しかし霞ヶ浦の製塩遺跡から出土する形態と共通する例も検出され、逆に何故そのような土器がつくられる必要があったのか、東京湾岸で近年における発掘調査として唯一の手掛かりは阿部芳郎による西ヶ原貝における否定的ではない海との関係導出であった。西ヶ原貝怩ヘ否定的ではないとし、馬場小室山遺跡が否定的とする理由は、海が近傍に無いからである。海が近傍に無いと製塩土器は使えないのか、ならば海へ行けば良い。「見沼の竜」は海に出なかったが、馬場小室山遺跡から海への往還は簡単なのでは?

3.霞ヶ浦・浮島の製塩遺跡を再考する!

これまでの「みぬまっぷ」に見沼周辺の遺跡群から出土した製塩土器の分布を落としてみるとその数の何と多いことか、製塩土器を必要とした遺跡の多さに気づくことになる。しかし、どの遺跡も製塩遺跡ではない、製塩遺跡の存在なくして製塩土器の分布が形成される現象には如何なる背景があるのだろうか。「みぬまっぷ」の成長を確認するためにも製塩土器出土遺跡が製塩遺跡を中心としてどのように分布するか、核となる地点からの拡散状況をモデル化し、その論理構成をフィードバックすることにより、「みぬまっぷ」適用の高度化を試行することにした。

浮島でも新たな製塩遺跡の発見が齋藤弘道により進められた。それが現在整理中の後九郎兵衛遺跡である。この結果、あの狭い浮島において北側(後九郎兵衛遺跡)と南側(前浦遺跡)で晩期の製塩遺蹟が各1ヶ所同時に操業される社会的背景は地域研究の醍醐味である。これまでの調査によって浮島には縄文時代晩期前半の拠点集落は未確認である。従って、晩期前半の製塩遺跡が浮島の南北で同時操業される現象からは、製塩遺跡が分業による製塩センター機能としてモデル化され、古鬼怒湾の晩期拠点集落から出土する製塩土器は幾つか例外を除くならば拠点集落で製作され、霞ヶ浦の製塩センターにおいて共同で使用される場の存在が「浮島縄文製塩センターモデル」として構築される。この製塩遺跡から見た「浮島縄文製塩センターモデル」によると、製塩土器出土遺跡の分布に対して製塩遺跡は特定場所への偏在が顕著となり、その場所は晩期前半においてもマダイの回遊が可能な海を擁していた可能性が高い。マダイはさておき重要なのは、製塩遺跡の「場としての偏在性」、および拠点集落から浮島縄文製塩センターへの移動が「水上経路からランドマークの浮島へ」と明快な点である。

4.新たな展望を求めて浮島から再び馬場小室山遺跡へ!【五十嵐聡江のポスター参照】

馬場小室山遺跡の製塩土器から始まった関東地方の製塩土器研究の見直しは、「浮島縄文製塩センターモデル」として新しい研究フェーズに移行した。この新しい研究成果を馬場小室山遺跡にフィードバックするためには、これまで見沼を中心とした奥東京湾で確認されてきた製塩土器出土遺跡を「みぬまっぷ」に適用するための論理構成を構築した上で「浮島縄文製塩センターモデル」と比較することからはじまる。

論理構成は「場としての偏在性」と「水上経路からランドマークの浮島へ」が鍵となる。製塩遺跡が見られない制約は、「場としての偏在性」論理により見沼周辺から外れた地域、即ち、晩期の穏やかな海岸線に製塩遺跡を措定する方針が策定された。見沼は縄文時代に「見沼湾」→「見沼潟」→「見沼(汽水)湖」と変遷し、水上交通の便にとって馬場小室山遺跡は要所である。次に「水上経路からランドマークの浮島へ」論理を適用すれば、見沼の出口に形成された荒川の自然堤防は晩期にはなく、荒川の流路に委ねると海岸は自動的に決定される。

課題は見沼から荒川に出てランドマーク(含流路による到達点)のある製塩遺跡へ行ったとしても、どうやって再び製塩土器出土遺跡に戻れるか、の一点に絞られた。そこで新たな論理構成として追加したのは貝恁`成地帯の概観で山内清男が示した潮汐表の活用であった。潮汐表の意味するところは河川交通の逆流利用であり、「湾潟湖交流文化」形成における「縄文潮汐エンジン」として水上交通の活発化を促進したであろう。

従って、山内清男の貝恫瞰方針に従い、東京湾の潮汐表により干満の差2mの範囲で「縄文潮汐エンジン」による汽水域と当時の海岸線との往還を「湾潟湖交流文化」とし、馬場小室山遺跡の製塩土器をその象徴とした。

畢竟、「みぬまっぷ」に「浮島縄文製塩センターモデル」と「縄文潮汐エンジン」を適用すると、見沼周辺の製塩土器出土遺跡群は西ヶ原貝怩ゥらやや離れた流路終点の海岸(荒川区〜台東区)に集結し、製塩土器を使用した可能性が高い。海岸線の復元は並行する湯島切通貝怐|弥生町貝怐|道灌山貝怩フ根津谷が参考になる。

5.結語―今、なぜ「みぬまっぷ」なのか?―

「みぬまっぷ」は考古学成果に説明責任を与える仕掛けとして開発した。素朴な動機から回を重ねるごとに「みぬまっぷ」自体が考古学の成長に寄与する質的向上という転換を求められた。市民のジオラマ制作から受けた品質管理姿勢が刺激となった。ジオラマの品質向上は閉じられた考古学知識を解放しなければできない。考古学を市民に解放することによって「市民に学ぶ考古学」を構築すること、それが馬場小室山遺跡研究会の目指したパブリック・アーケオロジーの到達点の一つであった。

日本考古学は地域研究の深耕から多くの先史考古学モデルを構築したが、馬場小室山遺跡を中核とする見沼周辺は縦割行政の煽りを受け、先史地理的単元としての地域研究には追求の手が及んでいなかった。大都市周辺地域のパブリック・アーケオロジーは「藤村新一事件」以来、通説の検証が必須となった。通説の見直しには論理構成という枠組みを重視し似非学説に歯止めを掛けつつ、市民の有する価値を「あらゆる可能性」として検証する展開(わかり易さや地域間比較など市民への説明責任を真摯に遂行する展開)が不可欠であり、先史考古学自体の進展や信認には猛烈な意識改革が必要となる。

私たちが推進したパブリック・アーケオロジーは市民とともに馬場小室山遺跡への熱い想いを共有したことに尽きる。一方でパブリック・アーケオロジー研究として特筆すべきは、仕掛けとしての「みぬまっぷ」と内容構築における高精度論理俯瞰研究プロセスの確立に尽きる。全ては市民に鍛え上げられた結果であった。(文責:鈴木)

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