2009−05−04(月・みどりの日) 

於:史跡・馬場小室山遺跡と周辺の「見沼文化」発見→三室公民館

参加各位                                           「馬場小室山遺跡研究会」事務局

馬場小室山遺跡に集う見沼文化フォーラム」第41回ワークショップ

【パブリック・アーケオロジー入門】

馬場小室山遺跡を形成した「見沼文化」の環境変遷と人類活動の追及、そして未来への展望と継承

1.【マネジメント】「馬場小室山遺跡に集う見沼文化フォーラム」への成長

1-1. 「馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラム」を振り返って

・これまでのテーマを振り返るならば、

見沼をのぞんだ縄文むら」(第1回・第2回)→「語りつぐ「見沼文化」」(第3回)→

「見沼文化」と漆工芸」(第4回) → 「見沼のめぐみと交流」(第5回)

と展開しており、見沼地域の研究視点が「見沼文化」の特徴を明らかにしたのである。

・馬場小室山遺跡のマウンド(「土塚」)をきちんと理解しようとした第1・2回、「土塚」の特徴を「見沼文化」として地域研究の展開を図った第3回、見沼の水辺で活躍した「オムちゃん」土偶とその生業である漆芸に接近した第4回、そして第5回では人面文に遺された「ムロさま」が先祖代々の斎場(51号土壙)を披露したばかりでなく、何と初対面の学生たちと一緒に踊り、交流の場を盛り上げたことは記憶に新しい。

・このように「馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラム」では、馬場小室山遺跡に学びながら、見沼の自然環境がもたらす恵みによってむらが栄えてきた様子を「見沼文化」として語り継いできたのであるが、その原動力は馬場小室山遺跡の悲劇が再び繰り返されることがあってはならない、という強い思いであった。その悲劇は例に漏れず大型合併による負の遺産としてもたらされたのであるが、文教都市浦和の風土が「馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラム」を結成させ、馬場小室山遺跡を今後どのように将来に向けて継承して行くか、5回のテーマに結実したように模索させたのである。

 

1-2.文化遺産から自然環境を考える馬場小室山遺跡に集う見沼文化フォーラム」への成長

「馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラム」によって、改めて地域社会の力強さやそれをささえてきた自然やヒトとしての絆の大切さを認識することができたことは大きな成果であった。・その成果を踏まえるならば、馬場小室山遺跡は「見沼文化」無くしては形成されず、将来に向けて私たちが残すべきは「見沼文化」という環境しと人類活動の軌跡であることに展望を見出したのである。

・こうしてはじめて「見沼たんぼ」の保存をなしえた偉業の意義に接することになり、理念の基本を学ぶこととした。私たちもこれまで以上に原点としての馬場小室山遺跡に集う活動を重視し、そこからより一層地域社会との絆を深める役割を担う必要がある。その結果、保存・活用の範囲を「見沼たんぼ」から「見沼文化」へ、というように環境史的深耕と人類活動の広域化へと転換するときである。

・ようやく文化財の保護という狭隘な現代的な管理思考から解放された思いである。今後は生物と文化の多様性こそが持続可能性の原点であることに見据えた「見沼文化」の保護と新たなる価値の創造を目指したいと思う。

・そこでこれまでの経緯と成果を土台として、

馬場小室山遺跡に集う見沼文化フォーラム

という名称のもとに次に示すような新たなる展開を図っていきたい

見沼文化復活祭】★冬の遺跡散策による見沼の里山環境の勉強(真福寺貝塚も射程内)

・縄文時代から弥生時代にかけて見沼という環境の果たした役割を体感する。

見沼文化感謝祭】★ご存知クリーンアップ大作戦

・縄文時代の「見沼文化」の拠点集落である馬場小室山遺跡を観察しながらゴミなどを拾い、感謝の気持ちを共有する。

見沼文化熱中祭】★三室公民館で遺跡・遺物の学習や実験考古学の実習

・縄文時代から弥生時代に形成された「見沼文化」の実際や特徴について、これまでの成果や他の地域との比較を行いながら学習する。

見沼文化収穫祭】★フィールドミュージアムとしての企画を検討中

・馬場小室山遺跡と地域社会「見沼文化」のかかわりを考え、見沼の将来に思いを馳せる。

 

 

 

2.【新たなる研究課題】「見沼文化」研究の新展開

2-1.「見沼文化」と貝塚

・「見沼文化」に貝怩ェ形成されるのは縄文時代早期後半であるが、早期の貝怩ヘ炉穴に検出される小規模の覆面貝塚が多く、地表面から判明する例は少ない。しかも判明し調査されている早期貝塚でも古い調査のために年代特定に厳密性がなく、資料も不明なことが多い。先ずは「見沼文化」における貝塚の形成プロセスを今日の学術水準で追及する必要がある。

・先般、浦和博物館の企画展「さいたま市内の貝怐vで岩槻区を含めた貝塚地名表が紹介され、さいたま市の貝怩ェ倍増し、一挙に70箇所を超えることになった。70箇所を超える貝怩擁する地域は決して多くなく、東海地方全体でも110箇所程度であろう。千葉市や横浜市には到底追いつかないが、海無し県であるにも拘らず、さいたま市の70箇所超は奥東京湾における貝塚のメッカとさえ言い得るのである。このことにより「見沼文化」における貝塚形成とは一人見沼地域の問題ではなく、まさに奥東京湾における貝塚形成を代表している。

・「見沼文化」における貝塚形成の現状は早期後半でも確実な例はさらに新しく、末葉の頃である。馬場小室山遺跡、篠山貝塚、八雲貝塚では東海系土器群も目立ち、西宿貝塚が早期でも年代的に終末に近い。海面上昇が著しい温暖化のピーク時の「見沼文化」について検討する。

馬場小室山遺跡における縄文時代早期の貝恁`成から「見沼文化」における前期の貝塚定着へ、と今後の展開対象を広げ、「「見沼文化」と貝怐vというテーマで温暖化への環境適用について研究を深める

 

2-2.「見沼文化」と地域間交流

・馬場小室山遺跡の研究は晩期「安行式文化」における「環堤土塚」から開始し、「第51号土壙」の重要性を中核とした「ムロさま」の時代を追求することを主要なテーマとしてきた。また、「環堤土塚」形成直前には「加曽利B式」の集落が形成され、突起土偶「オムちゃん」の生業として漆工芸がクローズアップされ、「半精製土器様式」の研究と併せて塗漆土器の系統からも大宮台地南部という地域性が浮上した。

・このような地域的な特徴がどのようなプロセスで形成されたか、縄文時代早期から晩期まで「見沼文化」には異系統集団が活発に活動しており、その背景としての地域間交流について見直す時期である。

 

2-3.「見沼文化」と弥生時代

・埼玉県における弥生時代の環濠集落は大宮台地南部、とりわけさいたま市に集中して検出されている。小出輝雄の研究によれば、中期「宮ノ台式」期に5ヶ所(内さいたま市2ヶ所(大和田本村北御蔵山中))、後期「久ヶ原式」期3ヶ所(内さいたま市0ヶ所)、「弥生町式」期3ヶ所(内さいたま市1ヶ所(大谷場小池下))、「前野町式」期16ヶ所(内さいたま市12ヶ所)、「五領式」期3ヶ所(内さいたま市2ヶ所(本埜・土屋下))の計30ヶ所(内さいたま市17ヶ所)という状況である。開発の多寡による状況であるのか、社会的要因であるのかは不問とせざるを得ないが、さいたま市に集中しているのは奥東京湾における河口域という地理的な要因も大きいのである。

・では、「見沼文化」の様相はどうであろうか。大宮台地の中期「宮ノ台式」期2ヶ所は「見沼文化」の旧大宮市のみ。後期以降も6ヶ所(北宿馬場北-61北袋新堀染谷深作東部)と健在である。特に馬場北遺跡と北宿遺跡は隣接し、対岸に三崎台遺蹟もあり、弥生時代後期における「見沼文化」の中心的な地域であった。

・弥生時代の研究は柿沼幹夫と笹森紀巳子の先行研究が参考になる。それらを参照しつつ、「見沼文化」という地域研究視点から新たに深耕する機会としたい。

 

3.【研究成果発表】日本考古学協会総会で研究発表予定(5/31)

・日本考古学協会第75回総会研究発表で「みぬまっぷ」の到達点を「馬場小室山遺跡の製塩土器研究と「みぬまっぷ」による研究支援―パブリック・アーケオロジーに学ぶ先史考古学のモデル構築―」としてポスター発表予定。「みぬまっぷ」の俯瞰性が考古学にどのように寄与するか、というチャレンジである。

・馬場小室山遺跡は晩期に貝怩形成しないが、晩期の特徴として「製塩土器」が出土する。東京湾は「製塩遺跡」の発見が報告されないためか、西ヶ原貝塚の調査で阿部芳郎氏が行なった問題意識が唯一の研究成果であるが、「土器製塩」研究の遅れと相俟ってあまり注目されない。ここに馬場小室山遺跡と西ヶ原遺跡の「製塩土器」について比較研究する視点が必然化され、「製塩遺跡」の追及という共通の課題が提示された。要するに海との交流が新たな視点となり、「みぬまっぷ」では山内清男の潮汐表から荒川の逆流を縄文時代にどのように活用したかを考察し、「製塩遺跡」の追及に有益であることを示す。                  以 上

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