2008−03−20(祝・木) 於:台方花輪貝塚

参加各位                                           「馬場小室山遺跡研究会」事務局

馬場小室山遺跡研究会」第35回ワークショップ

パブリック・アーケオロジーの極意 : 「遺跡のサイエンスとアート、そして未来へのマネジメント」】

(馬場小室山遺跡を中核とした「見沼文化」の解明と「複合領域における価値連鎖」の推進)

 

【学習:地域間比較の視点】印旛沼周辺における縄文時代から弥生時代初頭の貝塚

1.印旛沼周辺の貝塚と台方花輪貝塚

1-1.「縄文海進」による「印旛沼・湾」の形成と貝塚

・印旛沼は「縄文海進」時代に開析された「古鬼怒湾」の一角を形成し、早期後葉「鵜ヶ島台式」になると最奥部の八千代市間見穴遺跡周辺まで、アサリ・マガキ・オキシジミ・ハイガイなどを採集可能とする汀線が形成され、13箇所の貝塚が発見されている。この環境を「印旛沼・湾」と呼ぶならば、「印旛沼・湾」の景観は八千代市ヲイノ作南遺跡の前期中葉「黒浜式」におけるマガキ環境を最後とし、以降の湾奥部における海産資源獲得には主に分水嶺を越えて東京湾へアクセスするようになる。

1-2.「縄文海退」による「印旛沼・潟」の形成と貝塚

・前期末から中期にかけては「印旛沼・湾」→「印旛沼・潟」への移行が開始され、湾奥部の生活様式は東京湾岸志向となる。これは東京湾岸環境における豊富な漁労資源による人口増加のみならず、神津島産黒曜石に代表される東京湾系資源による物流関係や東京湾西岸との連絡・交渉の動態等が活発となり、高根木戸貝塚→海老ヶ作貝塚の関係のように徐々に東京湾岸からの集落展開が拡大し続け、分水嶺を越えながらもあくまで東京湾岸に近い場所に集落を選定した結果であろう。集団の系統を考慮するならば、「印旛沼・潟」の汽水域貝類環境を積極的かつ継続的に活用することはないようである。ここに印旛沼周辺は利根川本谷志向の北岸地域東京湾志向の南岸地域の2地域における漁労資源の差が顕著になる。

・「印旛沼・潟」の頃、「古鬼怒湾」も「縄文海退」による汀線の東漸が見られ、手賀沼でも「阿玉台式」までは汀線が確認されるが、中期後葉になると一転して現利根川本谷では北相馬丘陵・印旛沼周辺ですらヤマトシジミ貝塚となる。そこで汽水域となった限定地域を「古鬼怒湾・潟」と弁別し、「古鬼怒湾」と分けて考える必要がある。「古鬼怒湾・潟」でもヤマトシジミ貝塚が中期末葉には凋落し、貝塚の凋落現象は東京湾岸の動態とも同期し、捕獲圧などの行動様式の影響だけではなく、寒冷化も措定されている。

1-3.縄文時代後期前葉「小海進」による貝塚形成の復活と集団系統の転換

・「堀之内1式」の「後期小海進」を経て環境の定着化を迎えた「加曾利B1式」頃までは、東京湾岸でも「古鬼怒湾・潟」でも貝塚形成の活発化が貝塚数として表れている。特に「古鬼怒湾・潟」においては「後期小海進」を基盤としつつも陸水の強い影響が作用し、ハマグリにヤマトシジミが混じる、あるいはその逆の貝種構成となる貝塚が継続するも、後期後葉に至ると海退がかなり進行し、寧ろヤマトシジミの生育環境と適合する。その結果、「古鬼怒湾・潟」では大形ヤマトシジミが主体となる貝塚が形成される。

中期には貝塚が殆ど形成されない「印旛沼・潟」の南岸谷奥であるが、後期後半にはヤマトシジミを主体とする貝塚が多く形成されるようになる。その背景には中期末に東京湾岸の貝塚集落との密接な関係が一度希薄になったことが原因の一つと考えられ、集団構成の再編成を余儀なくされた地域形成が推察される。それは「印旛沼・潟」におけるウナギ・ハゼ環境に代表される新たな汽水域の資源に適応する水辺生業形態の定着と考えられ、西根遺跡・吉見台遺跡などの「粗製土器様式」や「中妻系列」の分析、及び漁労活動の共通性からは、「古鬼怒湾・潟」の集団構成との緊密さが導出される。低湿地遺跡の顕在化も「加曽利B式」の特徴であるが、漆工芸は大宮台地と比較する限り低調と判断される。

・一方で貝塚形成の活発化は中期の東京湾岸貝塚関係も復活させており、後期における谷奥貝塚の拠点集落化を背景とした、分水嶺越えによる東京湾岸志向貝塚も形成される。注目すべきは鹿島川下流域の吉見台遺跡などで観られる両者の交差現象である。「土器型式」の構成からは物流よりも異なる集団の同居関係(「異種集団の同居性」)と考察する。

1-4.「印旛沼・潟」における縄文時代晩期「安行3式」ヤマトシジミ貝塚の凋落とその後の形成環境

・「印旛沼・潟」における後期後葉のヤマトシジミ貝塚も、晩期前葉まで継続されることは稀となり、現利根川本谷側である印旛沼北岸に集中し、印西市天神台貝塚・馬場遺跡、印旛村戸ノ内貝塚が知られ、南岸では殆ど知られていない。東京湾岸の貝塚形成動向も同様であり、晩期には海退が顕著に進行している状況である。「古鬼怒湾・潟」の東漸も進み、下流域である神崎町古原貝塚や大栄町奈土貝塚等の晩期前葉貝塚もヤマトシジミ主体に変化する。そして晩期中葉「前浦式」の貝塚は荒海貝塚C地点のみとなる。

「印旛沼・潟」における縄文時代終末から弥生時代初頭の貝塚が台方花輪貝塚である。明治大学学術フロンティアによる調査概要(文献省略)によれば、「千網式」直前である「桂台式」の貝層が検出され、弥生式前期「荒海4式」頃にも貝層の発達が確認されている。従って、「安行3式」が終焉した晩期終末から弥生時代初頭には、ヤマトシジミ貝塚はやや下流域「長沼・潟」のみならず更に上流の奥まった「印旛沼・潟」にまで確実に展開しており、その活発化は「縄文海退」とは逆行する環境動向である。

 

2.台方花輪貝塚の特徴

2-1.晩期貝塚の立地と台方花輪貝塚A・B地点

・印旛沼を含む「古鬼怒湾」の遺跡における海進・海退の証拠は貝塚遺跡だけではない。遺跡が形成されている包含層にもその形跡が顕著であり、特に砂層低地に注目している。海であった砂浜が海退で汀線が退くことにより新たな土地としての利用が始まるからである。そうした意味では砂洲・砂堤・砂堆の分布を追及し、それらの上に形成された遺跡に注目する必要があり、これを【砂層低地遺跡】と呼んでおく。

前浦遺跡広畑貝塚法堂遺跡など「古鬼怒湾」の環境における製塩遺跡は、標高10m以下の砂層上に長期にわたり形成されている【長期砂層低地遺跡】である。「長沼・潟」でも荒海川表貝塚宝田鳥羽貝塚は、標高5m前後の砂層上に短期の形成が行われた【短期砂層低地遺跡】であり、その近隣下流の下総町龍正院貝塚も同様の【短期砂層低地遺跡】である。それぞれの遺跡形成は遡源を確認することによって縄紋人による【砂層低地遺跡】活用年代が判明するのである。「印旛沼・潟」の後期「加曽利B式」遺跡では吉高一本松遺跡が【砂層低地遺跡】として著名である。同じ頃の低湿地は西根遺跡が代表的、泥炭層遺跡としては師戸低地遺跡が有望であり、注目している。

・一方で後期以降連綿と続き、深い包含層と大規模な地点貝塚を形成する荒海貝塚は、標高30m前後の台地上とそれに続く斜面にかけての埋没谷立地が特徴であり、龍正院貝塚・宝田鳥羽貝塚・荒海川表貝塚など【短期砂層低地遺跡】諸例とは対照的である。これを【埋没谷台地遺跡】と呼んでおく。

・これらに対して台方花輪貝塚A・B地点の斜面貝塚(詳細後述)は、【砂層低地遺跡】でも、また【埋没谷台地遺跡】でもなく、標高10mの緩斜面上に形成された、「第3の埋没谷立地」である。「長沼・潟」でも斜面貝塚は存在しており、石橋宏克氏によって宝田八反目貝塚が見直されている。宝田八反目貝塚は「長沼・潟」でも最奥の貝塚であり、台方花輪貝塚が更に「古鬼怒湾・潟」として最奥であることとの共通性を見てとるならば、荒海貝塚C地点の【台地上窪地遺跡】から晩期終末地点への継続、並びに弥生時代初頭にかけての「第3の埋没谷立地」への移行には、荒海貝塚A地点と同様に埋没谷に対する集落維持活動のあるべき選択意図を考察する必要がある。

2-2.台方花輪貝塚C・D地点の意義

・標高30mの台地上の谷重吉氏宅の畑には、小川和博氏の調査で「C地点貝塚」(形状は5*3.2mの楕円形)と近接する「D地点貝塚」(形状は8.5m*4mの不整楕円形)が報告されている。当初は縄文時代後期「安行式」のヤマトシジミ主体の遺構内貝塚と思われたが、2007年3月の明治大学の調査で新たに「A・B地点貝塚」との年代的関係において一躍脚光を浴びることになった。また、台地上の貝塚は周辺の崖際等にも見られており、荒海貝塚同様に小さいブロック状の貝塚形成と拡散性に特徴がある。

・『印旛手賀』における金子浩昌先生の調査は、小川家畑地の崖下緩斜面に立地している「A地点貝塚」(形状は1.2m*1mの円形)と「B地点貝塚」(形状は6.6m*4.1mの楕円形)の内、「B地点貝塚」が中心である。晩期終末から「荒海4式」にかけてのヤマトシジミ貝塚であり、「水神平式」も検出された。

・このように台方花輪貝塚のヤマトシジミ貝塚は、晩期終末から弥生時代初頭の限定された年代にも拘らず、土地利用が台地上から台地下緩斜面まで変化に富んでおり、寒冷化の影響からの脱却による人類活動として注目している。動物骨も晩期貝塚の特徴を雄弁に示しており、魚骨は希少、イノシシ・シカが多く検出されるなど、汽水域へのアクセスが積極的となるような水辺環境への移行と適応が措定される。

・特に金子浩昌先生の当時の写真からは「荒海4式」の貝層が検出されており、近隣の荒海貝塚A地点荒海川表貝塚などと略同じ時期である。これに対して荒海貝塚C地点はA地点から新たに地点を変えてまで、特に窪地における貝塚形成が特徴となる「前浦式」における「窪地文化層」の典型である。この「窪地文化層」の検出は弥生式中期中葉まで継続した特徴であり、台方花輪貝塚C・D地点の調査に俟ちたい。

                                       以 上

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