2008−01−12(土)  於:大森貝塚

参加各位                                             「馬場小室山遺跡研究会」事務局

馬場小室山遺跡研究会」第32回ワークショップ

パブリック・アーケオロジーの極意 : 「遺跡のサイエンスとアート、そして未来へのマネジメント」】

(馬場小室山遺跡を中核とした「見沼文化」の解明と「複合領域における価値連鎖」の推進)

1.【年頭所感】パブリック・アーケオロジーの本質とは「複合領域における価値連鎖」の確立!

・【価値連鎖の事始】2004年10月26日、馬場小室山遺跡の保護活動は現地での万策が尽き(HP「さわらび通信」参照)、やむなく藁をも掴む気持ちで組織を超えた対応に傾き、さいたま市の助役に陳情した(HP「千葉市の遺跡を歩く会」参照)。その結果、文化財保護課職員の言動がウソであるかのように、早くも11月5日には管財課・公園みどり課・文化財保護課への指示が徹底し、史跡公園に向けた取り組みが始動した。そして11月23日、馬場小室山遺跡の保護にむけた個々人の努力を集結させるべく、「さらわび通信」や「千葉市の遺跡を歩く会」と連携し、馬場小室山遺跡の見学会を実施した。これがパブリック・アーケオロジーの第一歩である。

・【埋蔵文化財の孤立と反省】大正デモクラシーの後、戦前の禁欲的な「基礎考古学」、戦後の解放的な「地域考古学」は、紆余曲折を経、現在の先史考古学の基礎となった。しかし、高度経済成長期以降、大規模開発に伴って情報爆発が顕著となり、関心が基礎や地域の解明から離れていった。最古・最大・最初等の一過性の説明に代表される、埋蔵文化財を対象とした「情報考古学」が潮流となり、マス・メディアの動向とも相俟って日常化した。この結果、経済活動により破壊される遺跡調査に麻痺・安住した埋蔵文化財担当者の諦観は、専門性に伴う倫理観を見失う社会的孤立に甘んじ、市民と連携することなしに馬場小室山遺跡を破壊に至らしめた。

・【価値連鎖の将来】世代毎に顕現する価値観の多様化と世代間の不調和に直面しつつも、連携に新たなる創造が芽生えつつある現在、その坩堝の中に敢えて考古学を解き放ってみる。パブリック・アーケオロジーは管理された既存の考古学を捨て、遺跡という場所に感じる風土や遺物から受け取る価値を見直すための努力に眼が向けられる。パブリック・アーケオロジーは多様な個性と多彩な専門性の参画を得るが、考古学が力を発揮する場面は価値連鎖として後世に継承していく求心力にある。現代社会における変化への能動的対応には既存の領域の壁を打ち破る創造力が求められるが、そのマネジメントこそが考古学に期待される新たな役割である。

2.【マネジメントと学習】大森貝塚保存会の活動に共感―やはり最初に市民のセンスありき!―

@西岡秀雄(1977)「大森貝塚の発見から百年―同貝塚保存会の歩み―」『考古学研究』第24巻第3・4号

A関 俊彦(1977)「公開された『大森貝墟』の碑」『考古学研究』第24巻第3・4号

・東京オリンピックの年にアメリカからの観光客、北海道や九州からの中・高校生の旅行団、バスをつらねて来た小学生等への対応ができない申し訳なさ(大田区側の「大森貝墟」碑は一般見学に不自由な臼井氏庭園内一隅にあるため)から、地元菓子屋「うえむら」の持田勝三氏の店にて大森貝塚発見88年記念会を実施。

3.【研究と学習】モースの『大森貝塚』に学ぶ(10)-大森貝塚と千葉市貝塚群における海の違い-

・「大森貝塚の一般的特徴」の章で「貝塚の長さは、崖沿いに約89メートルあり、厚さは最大4メートルである。」と訳出されている。この文章から4mの貝層が議論されてしまうことを恐れる。これは意訳の得意な訳者がモースの用語の使用法を弁えず、貝層を含む遺物堆積層全体と貝塚とを用語として区別して記述しているにも拘らず、全て「貝塚」と訳出している不具合であり、モースの記述は正しい。

・千葉市貝塚群と比べて貝類の違いは明白である。既に堀越正行氏が『大田区史(資料編)考古II』(1980)でモースに従って大森貝塚で多い順の貝類を記載しており、主体を占める貝類に限れば、以下の通り。

ハイガイ(最も豊富:泥底)、アサリ(最も多いものの1つ:砂泥性)、スガイ(最も多く見られるものの1つ:岩礁性)、シオフキ(非常に多く見られる:砂泥性)、ハマグリ(主だった貝殻の1つ:砂泥性)、アカニシ(特に豊富:砂泥性)、ツメタダイ(普遍的である:砂底)、バイ(ごく一般的に見られる:砂底)

・ハイガイとスガイが多い点は注意したい。ともに暖流系の貝類であり、スガイについてモースは「貝塚にたくさんみられることから判断すると、昔はその分布の限界が現在よりも北にあったにちがいないが、ハイガイ同様、より南へと後退してしまった。」と記述している。因みに堀越氏は富津市富士見台貝塚で約6割近くを占める状況から「房総半島南部や三浦半島といった、東京湾口部の岩礁海岸地帯から運ばれたものと考えられる。」と驚きを記したが、実際には大森海岸の当時の状況に起因した現象である。

・ハイガイが主体となる泥干潟も大森海岸の復元には必須であるが、周辺地形から陸水起源の泥干潟よりも中期後葉の寒冷化に伴い陸地化した後の小海進の状況が理解しやすい。ハイガイは東京湾西岸では折本西原遺跡の「宮ノ台式」までは検出しているが、久ヶ原遺跡の「久ヶ原式」では検出されない。以上

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