2007−9−9(日) 於:台方花輪貝塚

参加各位                                           「馬場小室山遺跡研究会」事務局

馬場小室山遺跡研究会」第29回ワークショップ

パブリック・アーケオロジーの極意 : 「遺跡のサイエンスとアート、そして未来へのマネジメント」】

(馬場小室山遺跡を中核とした「見沼文化」と パブリック・アーケオロジー2008 の土台構築)

 

なぜ、台方花輪貝塚を発掘するのか − 台方花輪貝塚の魅力と価値の継承 − 

 

(1)地理的位置の魅力―台方花輪貝塚ぬきでは「古鬼怒湾」における海退トレンドの真相解明は不能!―

 

  ・「古鬼怒湾」におけるヤマトシジミ貝塚の形成を、汽水域定着の最奥部という視点で接近するならば、最奥最古の貝塚は西ノ城貝塚の撚糸紋期に始まり、その終末は荒海貝塚の所在する「長沼・湾」における弥生式前期「荒海3・4式」で最奥貝塚の形成とそれに適した環境が終わる、と考えられている。

 

  ・台方花輪貝塚は通説になっている「長沼・湾」よりも上流域に位置する「印旛沼谷右岸、広大な印旛谷の谷口もようやく狭ばまり始めたあたりで」、「長沼・湾」に形成された「荒海式」貝塚群の位置よりも現利根川からは更に奥まった場所、印旛沼に注ぐ支谷江川の河口に位置している。

 

・したがって、「古鬼怒湾」時代に形成された「長沼・湾」、「印旛沼・湾」、「手賀沼・湾」における海退トレンドや揺り戻し的「小海進」の具体相を知る上では、これまでが「長沼・湾」においてのみ議論されていたことを知るならば、新たに「印旛沼・湾」を加えての再検討が要請されることになったのであり、ヤマトシジミ貝塚形成環境において極めて重要な位置を占めている貝塚である。

 

(2)立地の魅力―晩期貝塚における埋没谷に面した「第3の立地形態」―

 

  ・前浦遺跡や広畑貝塚・法堂遺跡など「古鬼怒湾」の製塩遺跡の特徴は標高10m以下の砂層上に形成されていることである。「長沼・湾」でも荒海川表貝塚や宝田鳥羽貝塚は標高5m前後の低立地(低位段丘)砂層上に形成されており、その近隣下流では旧下総町龍正院貝塚も同様の立地である。

 

  ・一方では後期以降連綿と続き、大規模な地点貝塚を形成する荒海貝塚は、標高30m前後の台地上縁辺や縁辺部斜面部における大きな埋没谷にかけての底無し立地であり、砂層上に短期の形成が行われた龍正院貝塚・宝田鳥羽貝塚・荒海川表貝塚など低立地の諸例とは対照的である。

 

  ・他方、台方花輪貝塚は低立地(低位段丘)砂層上でも、また台地上あるいは縁辺部斜面でもなく、標高13m前後の低位の緩斜面上における埋没谷に立地した「第3の立地形態」である。「長沼・湾」でも斜面貝塚は存在しており、石橋宏克によって宝田八反目貝塚が見直されている。宝田八反目貝塚は「長沼・湾」でも最奥の貝塚であり、台方花輪貝塚が更に「古鬼怒湾」として最奥であることとの共通性を見てとるならば、「第3の立地形態」に集落維持活動のあるべき選択意図を考察する必要がある。

 

(3)先学の調査研究から導出される魅力―荒海貝塚の栄光の陰に隠れてた「重要な発見」!―

 

  【金子浩昌(1961)「印旛沼谷右岸とその支谷沿岸の貝塚」『印旛手賀』】

1961年に発見した折の試掘調査の速報が同じ年に可能な限りの整理情報に基づいて記され、当時としては稀な晩期貝塚であり、「低立地性は注目される」貝塚として「重要な発見」と評価された。緩斜面の畑(所有者:小川氏)に「A地点貝塚」(斜面上方)と「B地点貝塚」(斜面下方)の二箇所を発見し、「A地点貝塚」は「殆んど混貝土層よりなる」、「B地点貝塚」は「純貝に近い混土貝層である。」

 

動物骨も晩期貝塚の特徴を良く示し、魚骨は希少、イノシシ・シカが多く検出された。そのような充実した成果をもとに「この貝塚については本年さらに組織的な調査を行う計画を立てている」との強い意思が表明され、19616月に小規模ではあるが、金子浩昌をトップとして菊池徹夫・馬目順一・原信之・江崎武・宍倉昭一郎などそうそうたるメンバによって本格的な発掘調査が実施された。

 

学史として重要な成果は、馬目順一(『鈴声』)と鈴木公雄(『史学』)が記しているように「前浦式」が多量に検出され、「土器型式」として追認された点である。更には「荒海3・4式」や「水神平式系」も検出されており、利根川下流域における弥生時代の成立を考察する際に必須の資料となった。

 

  【小川和博(1978)「二 昭和52年度文化財調査報告 埋蔵文化財編 [I]貝塚測量調査報告

 (一)台方花輪貝塚」『成田市の文化財 第9輯 成田市埋蔵文化財調査特集』】

・台方花輪貝塚の研究が金子浩昌による概要だけである状況に対し、「将来進めていこうとする史跡指定等の保存対策に対して大きな支障となる」との行政的配慮により、小川和博が踏査とボーリング調査を伴う貝塚測量調査を実施した。この測量図と『印旛手賀』の写真、そして四半世紀以上前ではあるが、小川和博の電話ナビゲーションにより、はじめて台方花輪貝塚と出会ったのである。出土遺物の分析を通した晩期後半の研究と相俟って、何とかして遺跡の性格を明らかにしたいと考えていた。

 

  ・小川和博による調査は実に多くの成果を導出した。緩斜面の低立地の「A地点貝塚」の形状(1.2m*1mの円形)と「B地点貝塚」の形状(6.6m*4.1mの楕円形)に加えて、30mの台地上の谷氏宅に「C地点貝塚」(形状は5*3.2mの楕円形)と近接して「D地点貝塚」(形状は8.5m*4mの不整楕円形)の存在も明らかにしたのである。更に「A・B地点貝塚」と「C・D地点貝塚」の間には比高差10mに及ぶ急崖があり、小川和博はその急崖部で多量の土器を採取した。

 

・周到な踏査による所見は「幸い同貝塚はさして大きな変貌を受けることなく今日に至っている」というもので、「前浦式土器の量が豊富であることが特徴的である」とする、今後の精査が望まれていた。

 

(4)年代的位置の魅力―土器の年代だけではなく、貝塚の年代を追求する!―

 

  ・『印旛手賀』には貝塚の最後が「前浦式」であることに加えて、「荒海3式」が掲載されている。また、1961年の本格的調査では「水神平式系」土器と「荒海3・4式」が検出され、当時の写真には「荒海3式」が良好な貝層から検出されていた。これらの状況からは弥生式前期における新たな活動地点として土地利用が開始されていることが理解されるが、その文化層の確定と年代の特定こそが関東地方における弥生時代の幕開けとなる。貝塚遺跡としての稀有な特徴を有しているが、規模の大小を問わなければ、それは千葉県「荒海式」遺跡にとっては一般的な動向でもある。

 

  ・「荒海3式」や「荒海4式」の貝層が検出されれば、今日的な調査・分析・研究により層位の年代が緻密に先端的に導出され、人類活動の痕跡年代が検討可能となる。昨今の土器付着物の年代論は土器付着物の検討に過ぎず、その前に検証すべきは「考古層位」や「文化層」の人類史の年代そのものであり、先史における遺跡形成論や一括性への適用が実用化されねば、「土器型式」の年代は意味がない。

 

(5)保存状況の魅力と未来へのマネジメント―小川家建立の石碑に応える!―

 

  ・2006年の夏、何と四半世紀ぶりの再訪でも以前と同じ景観を認めることができた。草木の繁茂により地表面からの貝塚確認は不能であったが、「大きな変貌を受けることなく今日に至っている」。

   唯一違っていたのは、小川家によって建立された「台方花輪貝塚」の石碑であり、後世への継承を意図して建立された高い志を知ったのである。台方集落の方々は地域の歴史を誇りにしておられ、その最初のお手伝いが現地説明会の役割である。

 

・こうして台方花輪貝塚は早稲田大学による先行調査などを経て、改めて遺跡としての性格を解明する機会と共に、地域においては学術上の価値を現地説明会においてリアルタイムに共有しながら、今後の地域社会への貢献を考えていく新たな課題を得たのである。このミッションを成田市や千葉県と協力しながら推進するには、現段階では明治大学学術フロンティア事業における最先端かつ学際的な先史考古学研究が最適と判断し、今日に至ったのである。

                                         以 上

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