馬場小室山遺蹟における「環堤土塚」の研究
 ― 多世代土器群を多数埋設する風習を中心として ― 


鈴木 正博・馬場小室山遺跡研究会


1.序―高井東遺蹟と真福寺貝塚・泥炭層遺蹟―

 大宮台地における縄紋式後晩期集落研究は、周知の通り高井東遺蹟における後晩期安行式集落を以って嚆矢とする。安行式以前の後期前葉から中葉にかけては集落構成が更に空間的に拡大する現象を当時から把握しており、その点で集落構成には不完全な部分が目立つ。 

 一方、大宮台地における晩期遺蹟の立地は北斜面が特徴的であり、学史的な真福寺貝塚・泥炭層遺蹟では泥炭層部分に顕著である。では高井東遺蹟ではどうかというと、谷に面した北斜面や直下に晩期生活址や活動痕跡は希薄であり、寧ろ台地上窪地縁辺への相対低地化が特徴的である。前者は谷頭近傍に特徴的な「谷斜面凹地形態」として、後者は「台地上凹地形態」として、台地との関係で相対低地化とすべき二者である。

 更にこの二者に膝子遺蹟・寿能泥炭層遺蹟などの低湿地遺蹟が加わり、古鬼怒湾の低地製塩遺蹟に匹敵する機能分散を実現し、「台地−低地拠点分散網状型集落」の構成を成している。

 また、所謂「環状盛土遺構」が定義された寺野東遺蹟は、晩期においては「谷斜面凹地形態」と「台地上凹地形態」の両形態を兼ね備えた集落構成の典型であり、これを「両面凹地形態」と定義している。
勿論、貝塚地帯が無関係であるわけではなく、貝の花貝塚の晩期中葉や杉田貝塚の晩期中葉以降が「台地上凹地形態」、堀之内貝塚B地点が「谷斜面凹地形態」とする、学史的に著名な問題提起も忘れてはならない。

 そこで縄紋式後晩期集落という長期にわたる活動痕跡の場合、晩期安行式に限定した生活様式と空間利用に着目して接近するならば、際立った特徴もまた顕著であり、安行式以前の後期集落構成とはかなり異なった様相が考察される。こうした学史的な後晩期遺蹟の分析の中に馬場小室山遺蹟の「環堤土塚」形成も理解されるが、演者は異なる側面への注目も指摘してきた。

2.大宮台地と多世代土器群を多数埋設する風習

 必ずしも大宮台地に限ったことではないが、土坑から略完形の後晩期土器を複数個体検出することがある。埋設され、破壊行為から保護されてきたのである。土坑だけではなく、住居址やその内部施設からそれらを検出する場合もある。埋設された場合と同様に破壊行為から保護されてきたのである。

 しかし、大宮台地では全く別な検出状況も報告されており、そこでは略完形の晩期安行3式土器群が、あたかも消失住居における同時廃棄のように保護されている状態で検出されており、晩期集落構成の強烈な特徴として重要性を評価しておく必要がある。

 2−1.大宮市小深作遺蹟の「テラス状遺構」
 「第3トレンチ中央部のローム土部分は、」「縁辺に段を有し、」「巾30cm前後の明確な段を3段形成していた。この段を有する舌状台地部分を「テラス状遺構」と仮称した。」「テラス状遺構の西側縁辺一帯から60個体を超える完形土器・大形破片が集中して発見されたのである。」(大宮市教育委員会、1971) 

 完形土器の多くは小形土器であるが、出土状態写真掲載土器群は安行3b式から安行3c式という複数の「土器型式」が混在している。

 土製耳飾や土偶・土版や石剣・石棒などの土製品・石製品も検出されているが、出土状態の詳細は不明である。人面文土器は出土していないようである。

 2−2.岩槻市黒谷田端前遺蹟の「一括出土地点」
 B地点に「晩期遺物一括出土地点」が検出された。「ローム面が若干高くテラス状になっており、3層と4層の接する位置より4層中にかけて多量の晩期遺物が一括出土した。径約9mの円形の範囲に数ブロックのまとまりを持って出土し円の中心部は空間を持っているようである。」(宮崎朝雄、1976) 

 安行3b式から安行3c式という複数の「土器型式」が混在しつつ、小形の完形土器18個体と大形の大破片など20数個体が、一括のごとく検出されている。

 土製品は土版2点、土製耳飾3点が検出されており、更に打製石斧・磨製石斧・石皿・磨石・軽石製品・石剣・石棒の石器・石製品も小深作遺蹟と同様に検出されている。人面文土器は出土していないようである。

 2−3.川里村赤城遺蹟の「完形土器集中地点」
大宮台地から続く埋没ローム台地に形成された遺蹟であり、「完形土器集中地点の地形的な位置は台地部と低地部間の小規模な平坦地である。」「土壙以外に不整形の落ち込みが見られるがいずれも10cmほどのごく浅いもので、覆土は褐灰色を呈している。上層の黒褐色土から連続して遺物を包含している。」「完形に近い状態で一箇所から出土するものが多い。近い位置で2〜3箇所から破片が出土し接合する場合も少なからず認められる。」「特筆される出土状況を示している遺物として耳飾が挙げられる。」「2個一対の製品が二組出土している。」「裏返しに並べられたままの状況がそのまま保たれた様子である。」(新屋雅明、1988) 
 安行3a式から安行3c式という複数の「土器型式」が混在しつつ、完形土器など60数個体が集中して検出されており、その中では人面文土器や角底系注口付土器が稀少品であり、注目している。
土器以外では土製耳飾8点、人面文土版1点、土偶1点、石棒1点、磨製石斧1点、石皿1点、石錘1点、石製垂飾1点などが検出されている。

 以上、大宮台地では小深作遺蹟や黒谷田端前遺蹟のように「テラス状遺構」や赤城遺蹟のように不整形の落ち込みを伴う平坦地に、多世代土器群を多数埋設する現象を晩期集落の特異な在り方として指摘できる。

 これらの様相は略完形土器群による「土器型式」の混在が顕著であり、単なる一括廃棄遺物として処理すべき現象ではなく、赤城遺蹟に見られる土製耳飾の出土状況に代表されるように、その取り扱いには丁寧さが加わっているのである。そのように略完形土器群が中心である上に、土製耳飾における取り扱いの丁寧さが保持されたままの状態が可能であるのは、地面に放置されたままではなく、何らかの施設によって意識的に保護されてきた可能性を積極的に考察したいと思う。

 そこで寺野東遺蹟の晩期水場遺構に見られた木組み施設の存在が重要になってくるのである。ロームを削平した「テラス状遺構」や不整形落ち込みの存在も木組み施設の安定設置と関連する形態的特徴とするならば、それらは地上における「収納施設設置型風習」というべき、一括出土土器群などの管理形態と考察する。

 では、収納施設は地上にしか存在しないのであろうか? 否、馬場小室山遺蹟「第51号土壙」に埋設された土器群は、後述するように第15層直下の「灰層」となった特別な木(植物)製編み物による施設に収納されていた痕跡が明瞭であり、第15層自体もそうした施設に関わる状況と措定する。こうして一括遺物としてどのように管理されていたかという点に目を向けるならば、最終的な一括性が保証されることを目的とした「収納施設埋設型風習」の深掘大土壙について注目しなければなるまい。

3.馬場小室山遺蹟の「環堤土塚」と「第51号土壙」

 浦和市(現さいたま市)馬場小室山遺蹟は武笠家が14代にわたり屋敷林として管理してきた歴史を有しており、しかも弥生式以降における土地改変が殆ど認められない状態で今日まで保護されてきた事実がある。極論すれば、安行3d式で集落を廃棄した状態がそのままタイムカプセルのように保護されてきた稀有な集落遺蹟であり、それ故に後世に継承していく価値は他に優っているのである。

 次にこれまでの調査成果を総合し、住居址や土器の分布から考察するならば、土地利用が固定されているわけではない。縄紋式中期以降を模式化すると以下の通り大きな変動が見られている。

第1期土地利用」:中期中・後葉にかけての住居址を一括した場合の広大占地
第2期土地利用」:中期末葉から後期初頭の地点的占地
第3期土地利用」:後期前・中葉の「第1期土地利用」の縮小傾向占地
第4期土地利用」:後晩期「安行式」の「第3期土地利用」の縮小型「環提土塚
第5期土地利用」:晩期末葉「千網式」の回帰地点
図1  馬場小室山遺跡の「環堤土塚」概念図
(★は「第51号土壙」)       

 そこで所謂「環状盛土遺構」と称される外部形態について観察しうるものは「第4期土地利用」に顕著であるが、それは「塚」になっているだけに過ぎない。寺野東遺蹟の「「下位塚状堆積型配土層」である「焼獣骨角小片群」と「盛土基盤層」としての特徴」をメルクマールにすれば、「第4期土地利用」の「安行式」期以前にあっても「盛土基盤層」を確認しているので、「配土遺構」は確実に「第3期土地利用」にまで遡る。それを援護射撃するかのように浦和市南方遺蹟においても「堀之内式」から「加曽利B式」における「配土遺構」に相当する特殊な「人為堆積土層」が検出されている。

 従って、「配土遺構」の成立を解明する視点に従えば、問題は「第2期土地利用」に所在しており、「第3期土地利用」以後に於いて徐々に発達をみたものと思われる。 

 3−1.馬場小室山遺蹟の「環堤土塚」
 馬場小室山遺蹟の「環堤土塚」についてはこれまでにもその重要性を訴求してきた(鈴木正博、2005a・b・c・d・e・f)ので詳細はそちらに譲り、「環堤土塚」の「外部構造」については踏査による検討結果を中心にし、過去の調査報告の分析と検証してきた図1の成果が重要である。

 即ち、標高15m前後の谷奥台地上における小さな谷頭の延長上に径約50mの「拡大窪地」を中心として、その周囲にやはり径30m前後を中心として大小と長短ある5基の「土塚」群が巡る形態をとり、最大で径約100m前後の「外部構造」が「後晩期安行式の縮小型「環提土塚」」という集落に復元されるのである。

 識別名は以下の通り。

 「1号土塚」:北側崖線の「土手状突帯部」
 「2号土塚」:「凹地状地形」西側・第32次調査地内
 「3号土塚」:「2号土塚」南側・武笠家小室山敷地内
 「4号土塚」:小室神社南側・武笠家小室山分家敷地内
 「5号土塚」:第21・24・25次調査地周辺

3−2.馬場小室山遺蹟における「第51号土壙」の位相
 馬場小室山遺蹟の「環提土塚」に付随する施設として最も顕著な遺構は「1号土塚」と呼んだ地点に隣接している「第51号土壙」(青木義脩ほか、1983・1988)である。

 そこで「第51号土壙」について再検証してみたいと思う。先ずその理由は「第51号土壙」が設営された位置関係である。図1の★に示したとおり、「第51号土壙」は「1号土塚」の東南部外縁に位置しており、「1号土塚」の生成基盤とは独立した存在である。調査区は遺構密集域でありながら、「第51号土壙」は明らかに独立した空間を占有しており、「堀之内2式」から「安行3d式」に至る他の遺構群の干渉が殆ど見られない状況に注目している。

 しかも関心が集中するのは「一括土器」の出土状況である。要点は「土壙の覆土中からは多量の遺物が出土しており、平ケース(約20?入り)に10箱以上であり、特に底面付近からは人面画付き土器をはじめ、安行IIIa期のほぼ完形の土器が30個体程出土している。また、底面から約40cmのところに灰の層が堆積していた。この灰の層の中に前述した安行IIIa期の遺物がみられた。この灰層の上部ではイノシシ、シカなどの獣骨なども出土している。」(小倉均、1983)というものである。「底面付近」の「灰の層の中に」「人面画付き土器をはじめ、安行IIIa期のほぼ完形の土器が30個体程出土」した状況は残余調査の確認により、埋設土器群は38個体が報告された。

 土器以外は伴存関係が明確ではなく、年代的に同時性が検証できるのは土製耳飾のみであり、15個検出されている。
そこで伴存構成を分析するならば、図2に一部を示したが、赤城遺蹟との特異な共通点に注目したい。

【「土器型式の混在年代巾】:安行3a式〜安行3c式
人面文土器の存在】:体部最大径部に人面文装飾
角底土器の参画】:注口付土器とのクロス形態も存在し、検出数からも非日常なる用途
土製耳飾の参画】:晩期前葉から中葉の略完形品

 畢竟、「第51号土壙」に埋設された土器群は第15層直下の「灰層」となった特別な施設に収納されていた可能性が高く、第15層もそうした施設に関わる状況と措定する。しかも安行3a式から安行3c式、そして安行3d式の一部まで長期にわたってその場所が「第51号土壙」のためにだけ存在したのであり、埋設されている土器群の「土器型式」から判断して「多世代土器群多埋設深掘大土壙」と命名したのである。

 特に一括遺物としてどのように管理されてきたかという点に目を向けるならば、前述したように最終的な一括性が保証されることを目的とした「収納施設埋設型風習」の深掘大土壙と考察する。

 以上、地上系の「収納施設設置型風習」と地下系の「収納施設埋設型風習」の二者について、演者は仮に「晩期安行式ムロ」と総合し、世代間の継承関係を強化する風習として今後社会的視点で分析を進めていきたい。

4.結語−「環堤土塚」と「晩期安行式ムロ」の関係−

 馬場小室山遺蹟では晩期前葉から中葉にかけて「多世代土器群多埋設深掘大土壙」が展開し、その一部には「第51号土壙」に見られるような人面文土器が関与していた。しかも人面文は粗製土器様式に採用されており、女方遺蹟や小野天神前遺蹟の人面文壷も粗製土器様式であり、共通する作法である。赤城遺蹟も含めるならば、特に安行3a式から安行3c式までの長期継続関係において多量の土器群が関与する場合には、人面文土器が参画してくるようである。

図2 馬場小室山遺蹟 (1〜4) と赤城遺蹟(5〜7)における人面文土器(4の「陰顔文」7の「陽顔文」)の参画

 一方で、小深作遺蹟や黒谷田端前遺蹟のような例もあることから、「晩期安行式ムロ」には人面文土器参画の有無で異なる役割が措定されるのである。

 と同時に「晩期安行式ムロ」は「収納施設埋設型風習」に代表されるように特定集団による伝統的な管理形態と考えるべきで、「収納施設設置型風習」は複数集団が同一地点を共有した場合の形態と推察している。

 更に「晩期安行式ムロ」における人面文土器の参画は階層化社会と結びついた結果と考察され、東日本においては多世代土器群を多数埋設する風習によって構成された弥生式墓址として、前期から中期中葉にかけての「集合土器棺墓」が著名である。学史的に著名な女方遺蹟の「陽顔文壷」、最近の発見である北原遺蹟の「陰顔文壷」など枚挙に暇がないほどである。

 このような人面文土器の価値と参画視点に則るならば、馬場小室山遺蹟の「環堤土塚」のリーダーは「1号土塚」を居住地とした「陰顔文」の系統で、しかも「第51号土壙」の形成後に他の地に移動した可能性が高い。何故ならば、安行3d式の拠点集落は馬場小室山遺蹟ではなく、至近では前窪遺蹟にとって替わられた可能性が高いからである。

 以上、所謂「環状盛土遺構」は注目されているが故にそのような概念的な研究が進展しているかに誤解されているが、真相は後晩期「縦横遺蹟群研究」が矮小化されているだけである。その原因は目的不在とそれに応じた研究法不在の一言に尽きるが、そうした課題を克服すべく、地域研究を中心とした体系的な接近法としての「グランド・デザイン」を「馬場小室山遺跡研究会」に関わるインターネット上のホームページに公開しているので、是非とも参照頂きたい。

 さて、晩期遺蹟における問題は多岐にわたり、発見される内容も指摘すべき現象も複雑を極めているが、今後の研究は「盛土遺構」への一点豪華主義的な注目の陰で見失われてきた、あるべき地域研究の眼差しを復活させ、地道なデータ対話型接近法を目指すべきである。

 最後ではあるが、馬場小室山遺蹟の保存についてご支援頂いた方々との共同研究(明治大学大久保忠和考古学振興基金2005年度奨励研究)に負う部分が大きいことを明記し、深謝したいと思う。

 尚、紙数の都合で引用文献は省略に従った。

※初出 『日本考古学協会第72回総会 研究発表要旨』2006年5月27日・28日


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