2005年8月27日() 於:プラザイースト

馬場小室山遺蹟研究会」事務局

所謂「環状盛土遺構」研究のグランドデザインV.2.0

【「敷土遺構」の成立から「土塚」の終焉に至る先史考古学】

 I.外部要因の特定 : 環境変動(寒冷化)と文化変容による「台地―低地拠点分散網状型集落」の展開

    I−1.環境変動(寒冷化)がもたらした生産活動の広域化と広域内水面交通網(ネットワーク)の発達

【1】寒冷化(海退)による低湿地の拡大と土地利用の多様化、及び中期から後晩期への移行形態

【2】温暖化時代の「遺跡群」関係(隣接・間接連鎖)を超える広域内水面交通網の発達に注目

<環堤貝塚←→環堤土塚←→石塚への構造連鎖>(奥東京湾/古鬼怒湾の中核的位置付け)

 

    I−2.寒冷化に伴う文化変容の顕在化と新たな土地利用形態の定着

【3】在地系住居址集団と非伝統系住居址集団の同居性(「よそもの集団の同居性」)

【4】中期終末から後期初頭に見られる集落維持の凋落化と西/北日本系の土器や葬式の顕在化

【5】「拠点完結型集落」の集中「貯蔵穴群」から低湿地性遺跡の定着による分散化

【6】内水面漁労文化の発達(マダイ→クロダイ・スズキ→ウナギ・ハゼ→コイ・フナ・ナマズ)

  ◎古鬼怒湾口部マダイ漁共同体と汽・淡水域ウナギ生簀管理共同体(「マダイ・ウナギ論」)

【7】「安行3式」集落の凋落をもたらした「南奥大洞C2式」前後の集落構築(寺野東遺跡が代表例)

★寺野東遺跡における「南奥大洞C1〜C2式III期」貫入の地域史

 

    I−3.空白の時期を経て「暖のもどり」とともに帰ってきた縄文人

【8】大島・下高洞遺跡D地区における「貝層」断絶時期を経た「骨層」の形成へ

【9】「土塚」終焉後の「暖のもどり」とともに帰ってきた縄文人

★晩期末葉「千網式」の土地利用とその時代(馬場小室山遺跡・寺野東遺跡)

 

 II.内部要因の深耕 : 遺構構造の変質と集落景観の維持、及び「窪地包含層」の形成

    II−1.凹地状地形を利用した集落景観や斜面活用の継承

10】中期貝塚における凹地状地形と廃屋墓の風習の後晩期集落への継承・移行形態

★前期の黒浜貝塚のような、谷に面した台地北端に斜面掘削や台地端部への窪地掘削あり。

11】大画期の累重による「環堤土塚」の構成(可視的顕現化の意義:回帰性・分節化と縮小化)

<1期>西/北日本系中期末後期初頭から後期中葉へ、

<2期>高井東式」を新たな画期として晩期前葉

<3期>晩期中葉に最終的に顕在化する「環堤土塚」(1つの「土塚」に最大同時2軒程度)の画期

12】斜面捨て場(包含層)(馬場小室山遺跡や寺野東遺跡が代表例)と「斜面貝塚」との関係

 

    II−2.遺構構造の変質(山から平地へ、そして「深掘大土」の発達へ)

13】馬場小室山遺跡における「斜面掘削」の意義

14】自然堆積とは異なる「特殊な土層」と包含層:山棲み住居構造の平地への展開

中期末葉(加曽利E3式)から展開する「敷石遺構」に存在する「敷土遺構」の定着

◎「石塚文化」(柄鏡形敷石住居や配石遺構の文化)の「敷土遺構」から「配土遺構」へ

15】「焼獣骨角小片群」の風習と顕在化:特定地域の風習が順次晩期「安行3式」に広域化

後期中葉(加曽利B1式)の「敷石遺構」から順次定着する「火入れ整地の風習」?

16】多世代土器群多埋設深掘大土」併設の意義:後期系統の「深掘土」とは固体数が違う!

 

    II−3.「窪地包含層」の形成

☆【17】「拡大窪地」や「窪地遺構群」など「窪地包含層」の形成

★「環状遺丘集落」における「窪地包含層」:曲輪ノ内貝塚は晩期中葉の「窪地包含層」が課題!

★「窪地包含層」  :晩期中葉「貝の花パターン」は「環状遺丘集落」における「窪地」の本来の姿では?

★「環状盛土遺構」における「窪地遺構群」:寺野東遺跡の「南奥大洞C1〜C2式III期」施設

★「環堤土塚」における「拡大窪地」:馬場小室山遺跡(「土塚」ピーク時「安行3c〜3d式」における行為)

☆【18】上高井神明貝塚−杉田貝塚に観られる晩期終末「窪地包含層」形成の意義

★弥生式前期から中期にかけては逗子市池子遺跡や桜山うつき野遺跡の河道や泥炭層に注目!

以 上

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