2005−7−24(日) 於:三室公民館

参加各位                                            「馬場小室山遺跡研究会」事務局

馬場小室山遺跡研究会」第8回ワークショップ

(馬場小室山遺跡における「環堤土塚」の成立と展開を理解するために)

1.はじめに−見沼と印旛沼の研究コラボレーション】の眼差しから馬場小室山遺跡を観る!−

★近世の文化遺産である「見沼たんぼ」とその外縁溺れ谷まで含めた「見沼の森と沼沢」は、縄文時代早期から

前期にかけては貝塚が形成され、中期以降特に後晩期の貝塚は海退現象(寒冷化)により川口市に発達

するが、「見沼の森と沼沢」では「貝塚文化」とは異なる新たな集落が中期中葉に定着している。その後、

この地には中期後葉の寒冷化のピークを契機として、寒冷化に強い集団、即ち山岳・丘陵地帯の「石塚文化」

の影響を受けた集団が定着し、「見沼の森と沼沢」は沼沢資源と森林資源に恵まれた縄文文化として展開し、

芝川の上流では寿能遺跡のように泥炭層が形成され、木杭や丸木舟などの木製品が多数検出されている。

★縄文時代後期後葉の「曽谷式」は「貝塚文化」として顕著であるが、山岳・丘陵地帯には「高井東式」が成立し

ており、馬場小室山遺跡は「高井東式」の集落として継続し、千葉県側の「曽谷式」との交流も活発に認められ

ている。磨消縄文の「曽谷式」と無文・沈線文の「高井東式」という対峙した「土器型式」が関東地方の平野部

において顕著になる背景としては、寒冷化の影響で山岳・丘陵地帯の集団が平野部に進出した動向と定着を

措定すべきである。この時期には奥東京湾や奥古鬼怒湾の「貝塚文化」は、汽水系ヤマトシジミ貝塚への

転換が完了しており、

ハマグリ系海産資源−ヤマトシジミ系水産資源−湖沼系木器・骨角器資源−山岳・丘陵系石材・石器資源

という広域ネットワークが内水面交通網の発達によって構築され、緊密化していた可能性が高いのである。

★縄文時代晩期前葉では霞ヶ浦の低地に前浦遺跡・広畑遺跡・法堂遺跡など製塩遺跡が形成され、分業体制

が顕著になり、その背景が広域に連鎖した資源ネットワークの構築にあった点は検出される多様な系統の

土器群が援護射撃となっている。

◎馬場小室山遺跡の「環堤土塚」は分業の発達した時代における集落構成の一つであり、「見沼の森と沼沢」を

代表してはいるが、決してそれで全てではなく、多様な土地利用形態の共存と多角的な資源管理ネットワーク

を維持していた、地域社会のひとつの単位として「森と沼沢による見沼文化」が考察されねばならない。

その研究拠点として正に馬場小室山遺跡の「環堤土塚」は象徴な存在形態であり、最先端のテーマである。 

2.「考古学実習入門」(4):馬場小室山遺跡の「残存埋蔵文化財」が投棄された第2遺跡から保護・救済した土器群の資料化

★「水洗い」と「注記」は前回までで完了! 今回は「土器の分類」など、いよいよ遺物の観察を行います

◎最終的には皆さんと一緒に実測し、報告書を作成する工程を経験し、10/1・2の市民配布冊子として上梓し

たい。また、遺物は当日展示する予定で、馬場小室山遺跡の土器事典として利用の便も図ります。

3.所謂「環状盛土遺構」研究の到達点と研究コラボレーションの視点<グランドデザインV.1.6参照>

視点】縄文時代研究の到達点から所謂「環状盛土遺構」研究の抜本的な見直しを行います。

【今回のメイン・テーマ】

所謂「環状盛土遺構」研究の現状と馬場小室山遺蹟研究からの新たなる視点

茨城県考古学協会 第27回研究発表会(2005-6-25)資料の解説

4.モースの『大森貝塚』に学ぶ(7) : 戦後の日本先史考古学を科学的精神に則り再検証する!

【視点】日本先史考古学の変革を成しえた科学的精神とは? 反省点遺跡の調査は科学的精神に支えられているか?

●前回までの視点

@動物分類学から大森貝塚の土器へ接近すると?

A貝塚のロケーションから何が言えるか?

Bモースの多様な分析は何を目的としたものか?

C近藤・佐原の名訳に隠れた自然科学的文章本来の妙味は?(1)(用語が違えば意味も違う!)

DEモースが導入した先史学の方法(1)(2)

 

今回の視点

F近藤・佐原の名訳に隠れた自然科学的文章本来の妙味は?(2)(用語が違えば意味も違う!)

−日本語訳としての「貝塚」とは本来何を指したものなのか?−

以 上

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