報道資料(3)

【『しんぶん赤旗』 2004年10月20日文化学問欄】

 「国史跡級遺跡に最大の危機  −熱いまなざし注がれる さいたま市 馬場小室山」

 阿部芳郎  

 今年七月からさいたま市の馬場小室山(ばんばおむろやま)遺跡の発掘が開始された。この遺跡は関東地方を代表する縄文時代中〜晩期の集落遺跡としてすでに有名である。これまでに発掘で人面付土器や多くの重要遺物や意向が検出されており、旧浦和市時代には国史跡への申請も準備していたという。

 縄文集落の威容

 発掘は民間業者による住宅の建売販売が目的の記録保存調査。現地は緑豊かな里山で、開発対象地域である台地には直径五十メートルほどのマウンド状の盛り上がりが確認できる。これが縄文時代の「盛土遺構」であることは研究者ならすぐ予測できる。発掘がはじまると、そこは予想どおり大量の遺物と遺構であふれた。しかも最下層には中期の集落があり、その上に後期、晩期とおよそ二千年間にわたりいくつもの住居や貯蔵穴などの遺構が層位的に見事に累積している。国史跡候補遺跡であることに間違いはない。

 これまでの周辺の調査により、「盛土遺構」は台地の中央部の窪地をめぐるようにして五つ確認されているという。その規模や年代は国史跡である栃木県小山市・寺野東遺跡と同じである。しかもこれほど良好な「盛土遺構」を全体的に発掘できた例はない。調査を聞きつけ現場を訪れた研究者たちは、みな感嘆の声をあげ、その威容に圧倒された。

 保存運動のゆくえ

こうした多くの成果があがりつつある一方で、調査期間はたった三カ月という現実があった。未見の「盛土遺構」の全面調査としては明らかに不十分だ。それでも事業者の理解を得て調査の延長が認められ、近県から多くの研究者が休日を返上してボランティアに参加した。しかしそれでも間に合わない。

 日本考古学協会の埋蔵文化財保護対策委員会はすでに九月二十一日に保存を求める要望書を提出し、二十九日には会長が現地を視察し調査の適正化を要望している。調査は「盛土遺構」部分の半分近くを残して時間切れとなってしまったが、市側は最低限の調査は終了したと主張している。しかし崩れた未調査部分の「盛土」から散乱した遺物は一体何を物語るのだろうか。現在は堀り残された現場が風雨にさらされて工事の開始を待つ状態だ。国史跡として最有力候補とされてきた遺跡に、いま最大の危機が訪れている。

 行政の弱体化

 緑豊かな小室の森は、今回の調査に先立ち保存を要望する地元住民の熱意あふれる活動があった。市長と財務局長あての四千六百人分の署名が提出されたのは、国有地の遺跡地が競売にかけられる直前だった。それは旧浦和市の文化財保存活動の遺産でもあった。しかし、その熱意は無視された現実がいま眼前にある。

 かつて国史跡への申請まで目途され、地元住民にその重要性が周知された馬場小室山が、なぜいまこうした状況にあるのか。そこには市町村合併による文化財保護体制の弱体化が顕現しているようだ。

 発掘期間延長の中、休日を返上して各地から集まった研究者や学者たちは、単なる発掘作業員として支援したのではない。そこには今回の調査成果を将来に生かし、未調査地区の保存と活用を願う長期的なスタンスの上にたった学術ボランティアとして参加しているのだ。私たちはいま危機にひんした馬場小室山遺跡に熱いまなざしを注いでいる。

(明治大学助教授、考古学)

  【出典】 『しんぶん赤旗』 2004年10月20日文化学問欄  原記事(JPEGファイル約165kB) 

 

上記は、オリジナルの原記事の本文テキストを当WEBサイト管理人が手作業でタイプ転載したものです。原記事には阿部芳郎氏の顔写真と阿部氏撮影の「『盛土』の中から累々と発見された縄文後晩期の居住跡(さいたま市)=阿部芳郎撮影」との説明書きのついた写真が掲載されていたことを付言しておきます

末筆ながら、転載を快諾してくださった阿部芳郎氏としんぶん赤旗編集局にお礼申し上げます。


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