馬場小室山遺跡とパブリック・アーケオロジー研究(第三章)

−未知なる「見沼文化」への憧憬と知の革新−

 

五十嵐聡江・齊藤弘道・齋藤瑞穂・鈴木正博・馬場小室山遺跡研究会

 

 

 

 


1.序―【第三章】は「市民に学ぶ考古学」―

馬場小室山遺跡が民間開発事業と直面した時、埋蔵文化財行政の許認可業務と対峙し、保存に向けての交渉を進める機会を得た。そこではじめて文化庁を頂点とする縦割り行政の中で外(市民)に閉じた内(業界)向きの姿勢、直向きな組織防衛とタコ壷指向、学問とは無関係な埋蔵文化財知識の囲い込み、等々に心底閉口したが、このような状況を市民の立場から打破し、考古学は社会の役に立たねばならない、との叱咤激励を「馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラム」に参加された方々から頂戴した。「パブリック・アーケオロジーの主役は自立した市民であり、考古学の役割は市民との新たな関係を構築するマネジメントに存在した。(中略)自立したさいたま市民は身近な地域づくりのパートナーとして考古学を位置付け、(中略)【第三章】が始まった」との報告は第73回総会(2007年)であった。

パブリック・アーケオロジーの【第三章】は、破壊された馬場小室山遺跡の保全と活用を通した地域づくりとは何か、との問題設定を行い、【第二章】の成果である芸術活動(音楽と絵画・ジオラマなど)とのコラボレーションから想像力と創造性を学び、これまで進めてきた「破壊された遺跡の復元と地域文化の再構成」を活用した新たな地域文化ナビゲーション・システムを構築し、地域の価値を体感できる活用空間づくりから取り組みを開始した。地域文化ナビゲーション・システムでは地域形成の人類史が語られるだけでなく、参加する市民が更なる地域の発見を導く、という螺旋上昇的な相乗効果が期待される。

と同時に馬場小室山遺跡に隣接する緑区三室中学校では20101116日に学習指導案・道徳「郷土愛「馬場小室山遺跡に学ぶ」」の研究指定・公開授業が行われ、若い教諭の感性に意表をつかれた。

このように都市型の多様な市民の坩堝から生まれ出るパブリック・アーケオロジーへの期待こそが「市民に学ぶ考古学」であり、馬場小室山遺跡とパブリック・アーケオロジー研究【第三章】を象徴する多様な出発点となった。

 

2.未知なる「見沼文化」への憧憬

−指定文化財から「見沼文化遺産」への転換―

見沼文化」とは現芝川流域に広がる見沼田圃(1,260ha)を中心とした見沼低地の先史環境適応と一体の関係で形成された地域文化を指す用語である。馬場小室山遺跡が年代別「土器型式」別に果たした役割は決して固定的ではなく、「見沼文化」の拠点集落としての社会構成面、及び人類活動としての土地に根差した伝統的な生業展開など、社会・経済的に変化する役割が累積・複合した結果である。即ち、馬場小室山遺跡を理解することは「見沼文化」を解明することと同義であることを意味し、破壊された遺跡の活用である「見沼文化遺産データベース構築(担当:齋藤瑞穂)を進め、保存された指定文化財の人類史的位相を解明する基礎作業とした。埋蔵文化財業界の指定文化財からパブリック・アーケオロジーの「見沼文化遺産」への知的転換には、地域研究として旧大宮市と旧浦和市にまたがる地理的単元における学問水準の是正、及び年代や資料の見直しが大きな課題として横たわり、パブリック・アーケオロジーの基盤研究(担当:齋藤弘道)が必須である。

地域研究に必須な地質年代も見沼低地の形成年代は不明、「見沼文化」における最古の人類活動も未明である。しかし、「ナイフ形石器文化」の遺蹟だけが纏まりを見せて検出される状況からは、絶滅した大型動物との関係など見沼低地には動物考古学的な憧憬も生じよう。このようにパブリック・アーケオロジー研究方針である「研究なくして活用なし!」に従い、「見沼文化遺産」の活用を目指す新たな人類史構築が始まった。

 

3.パブリック・アーケオロジーによる知の革新【五十嵐聡江のポスター参照】−『みぬまっぷ』方法論序説−

「見沼文化遺産」データベース構築とこれまでの調査成果の見直しを図ることで、未知なる「見沼文化」の認識と追求への憧憬が確立し、パブリック・アーケオロジー研究の方法論を鍛え上げる契機となった。それが馬場小室山遺跡の歴史的景観を形成した「見沼文化」の人類史的経緯解明という視座である。有形文化財の限界を「見沼文化遺産」という概念で超克する、歴史的景観から人類史的経緯への知の革新と深耕は、パブリック・アーケオロジー研究における新たな方法論の導出であった。

市民とともに馬場小室山遺跡を考える考古学メディアとは何か、これが「市民に学ぶ考古学」の出発点と位置付けた『みぬまっぷ』(担当:五十嵐聡江)である。

『みぬまっぷ』は馬場小室山遺跡のパブリック・アーケオロジー研究の表現基盤考古学メディア)として開発し、パブリック・アーケオロジー実践では地域文化ナビゲーション・システムとして多様な文化導線ガイドを提供し、馬場小室山遺跡と「見沼文化」の多様性発見マップとなった。指定文化財ガイド・マップは点や面の場所ガイドであるが、『みぬまっぷ』は「見沼文化」の人類史的経緯を解明する文化導線ガイドである。説明目的やストーリに応じた最適な文化導線を新たに発見する知的営為に満ち溢れるなど、優れて動的な文化遺産発見マップである。

考古学メディアとしての『みぬまっぷ』は、パブリック・アーケオロジー研究の進展に伴い、「見沼文化」における点として馬場小室山遺跡を解説した【第一章】、馬場小室山遺蹟と「見沼文化」の歴史的関連性を解説した【第二章】、その人類史的経緯にまで接近した【第三章】へと進化を続けている。この発展過程を経ることで『みぬまっぷ』は構造化され体系化が図られ、パブリック・アーケオロジーの考古学メディアとして以下の構造を具備するまでに成長した。

<<『みぬまっぷ』の構造>>

(1)「見沼文化」俯瞰ガイド:【第二章】の『みぬまっぷ』

(2)「見沼文化」導線ガイド:【第三章】の『みぬまっぷ』

(3)「見沼文化遺産」精細ガイド:『みぬまっぷ野帳』

尚、『みぬまっぷ野帳』は用語としては初出であるが、既に【第二章】の『「環状盛土遺構」研究の現段階』(2007)において「第II部 馬場小室山遺跡から展望する縄文時代後晩期の集落と地域」として主要遺跡において実践済みであり、今後更に工夫を重ねたい。

『みぬまっぷ』は2005年から2010年まで毎年、馬場小室山遺跡を説明するために必要な「見沼文化」の考古情報を見直しつつ、最新考古学メディアとしての開発を続けてきたが、底流を貫く構えは遺跡と地域の間に年代別「土器型式」別に現れる現象から相互関係を読み解く「データ対話型地域研究」の実践に尽きる。

馬場小室山遺跡から検出された縄文時代晩期の「製塩土器」をめぐり「データ対話型地域研究」を行い、「見沼文化」俯瞰ガイドとして旧入間川河口の東京湾奥部における塩づくりを予察したのは第75回総会(2009年)であるが、少なくとも既存の浦和市史や大宮市史では「製塩土器」が取り上げられることはない。

では、このような「データ対話型地域研究」は現代社会にどのような影響を与えるであろうか。パブリック・アーケオロジー研究の賜物である『みぬまっぷ』は過去の説明を大きく書き換える可能性を秘め、市民活動と連携する学術機構や行政にとり、これまでの知識が抜本的に見直される知の革新となる(既に国史跡・見沼通船堀の日本最古の閘門式運河については2010年夏に最古破綻の新聞報道で賑わいを見せたが、「研究なくして活用なし!」に従うべき忌まわしい汚点であった)。

 

4.結語―「見沼フィールド・ミュージアム構想」こそが「見沼文化」!―

馬場小室山遺跡の保全と活用に端を発し、先史文化の追求対象となる「見沼文化」は、果たして過去の事象・現象としてのみ知の終焉を迎えるのであろうか。

「馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラム」実行委員長の大田堯は第5回(2008年)の挨拶で「見沼フィールド・ミュージアム構想」を紹介した。パブリック・アーケオロジー研究として「見沼文化」の意義を深耕するならば、「見沼文化」とは過去の追求にとどまることなく、現在から未来に向けて人間関係創造の場という人類活動に新たな発現をもたらす地域文化とすることが望ましい。

パブリック・アーケオロジーの【第三章】は、破壊された馬場小室山遺跡の保全と活用を通した地域づくりとは何か、との問題設定から始まり、「見沼文化」の重要性を「見沼フィールド・ミュージアム構想」との連携において認識するに至ったならば、具体的に何を為すべきか。それは『みぬまっぷ』に凝縮される「見沼文化遺産」が地域においてどのように役に立つか、ということと同義である。

では、仮に役に立たないとするならば、それは市民とは無縁な文化財行政や博物館の許認可を相手にするからである。パブリック・アーケオロジーは将来を担う子供の教育分野や街づくりの分野など市民生活と密着する生活者の領域との連携を重視するのが望ましく、そこに考古学のマネジメント能力が必要とされる。

畢竟、パブリック・アーケオロジー研究【第三章】は、「見沼フィールド・ミュージアム構想」を強力に推進するための、「見沼文化」を過去−現在−未来へと継承する体系的考古学メディア『みぬまっぷ』による実践である。

(文責:鈴木正博)

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