『千学集』によれば、平山は、15世紀後半に東常縁らの攻撃を受けた馬加系の千葉宗家が本佐倉城に移る前に居住したところである。平山谷地の上流、南に突出する舌状台地、字「長谷部」に立地する平山城はその居城と考えられている。遺構としては、土塁が比較的よく残されているが、ところどころ切られており、縄張りは一目瞭然というわけにはいかなない。字「明見下」(妙見下)からみあげる台地先端部は主郭と思われるところだが、そこには妙見社がある。現在も地元の人によりお祭りがなされている。現在城郭遺構の残る字「長谷部」の北には「志久」という字名があり、城下集落「宿」に由来する地名と推定される。平山谷地をはさむ南対岸(撮影地点背後から右端)は字「主理台」。重臣の木内修理の屋敷があったところと伝わる。そのほか付近には「作草部屋敷」、「伊勢堀」など家臣の屋敷跡といわれる場所の存在が知られる。さらに平山谷地には西の下流に向かって東光院館(広徳院跡)―築地台館―木戸脇と、平山城に関連する可能性がある城館跡・・寺社・伝承地が並び、また南の支川都川谷地には大橋戸―向菱名(菱名日向守屋敷跡)―立堀城が所在する。これらの遺構の配置は、支川都川の下流域からさかのぼってくる敵(東氏)にたいする備えだろうか。
平山、とくに平山城一帯は古墳の密集地であり、平山城の東の台地の字「塚原」、東南対岸の「中原」、西隣の「新山」(写真外)には古墳群が展開する(塚原古墳群、中原古墳群、新山古墳群など)。新山には中近世の塚群(新山南塚群)があり、平山城との関連も考えられる。北に突き出す舌状台地「主理台」の上には、東京の大森貝塚とともに日本考古学史にその名をのこす環状貝塚「長谷部貝塚」(主理台貝塚)が存在する。千葉県の史跡に指定され、いちおう保存の措置がとられているらしいが、現状はゴルフ場になっている。一般の見学は許されておらず、詳細は不明である。
●平山谷地
|
|
斉藤正一郎1999によれば、長さ3.8km.湧水は多く一日3000トンで、湧泉2。水源谷地としての総合評価で「健在」とされる市内でも貴重な谷地である。前方台地下に水が湧いている個所がある。ところが撮影中、異様な臭いがしてきたのに驚愕した。遺憾なことに撮影地点の足元の小川にゴルフ場から汚水が流入しているのである。斉藤正一郎1999はすでにこの汚水流入について警告しているが、現在も事情は変わっていない。関係方面は対策を講じなければならない。(追)自然環境保護の観点から、故沼田真、県立中央博物館長が注目していた谷地であったが、遺憾なことに、最近、この谷地の「新山」、「下深沢」にそれぞれ残土が持ち込まれている。
|
|
|
●平山と原氏の勢力(1)−仁戸名川(支川都川)・河川交通から |
|
平山谷地から仁戸名川(支川都川)の下流にくだると、左岸仁戸名には、へたの台砦、月ノ木砦が所在する(→空撮)。原氏の庶流、仁戸名牛尾氏の拠点といわれるところである。牛尾氏の母方の岡田氏は仁戸名の在地の有力者だが、その勢力との関係で、平山は仁戸名と一体となっていた地域と見られるという丸井敬司氏の指摘もある。右岸の大宮の台地(千城台地)には栄福寺館址、城山城、城ノ腰城と城館が連なる。栄福寺も原氏との関係が指摘されている。状況からいえば、原氏のたてた傀儡政権と目される佐倉千葉宗家の出発点となった平山の地が原氏の勢力圏の奥に位置することがうかがえるのである。
|
|
|
●平山と原氏の勢力(2)− 陸上交通の観点から |
|
平山城は、直線距離で、土気往還(大網街道)まで南西約1.5km、東金道まで北東約1.5kmの地点に位置する。仁戸名で分岐する両街道の間のちょうど中間地点にあたる位置である。
より注目されるのは、平山城の西約500mの地点を通る現在の「主要地方道浜野四街道長沼線」にほぼ該当する古道であろう。それが、中世海上交通の拠点、浜野湊と印旛沼・外房方面をむすぶルートであること、またとくに原氏の本拠小弓(おゆみ)とその各地の拠点をむすぶルートであることは、平山城の性格を考えるうえで、重要であるように思われる。そのルートは、浜野湊・浜野城から、原氏の本拠生実(小弓)の北生実城(生実城)のまさに城内を通り抜け、平山城から500mの地点を通り佐和町付近で東金道と合流し、中田町宮田交差点付近で現在の126号線と交差する。そこから東金道から分かれ、すぐ目の前の鹿島川沿いに北に進めば佐倉方面にいたる。その途中には原氏の有力な一族の拠点、岩富原氏の岩富城がある。多少離れるが、鹿島川源流の金親・金光院付近も原氏の支配地であったらしいことも無視できない。
※北生実城−平山城間 直線距離約3km. 歩行距離約5km(約60分).
一方そのまま東金道を東に進めば、その沿道には、妙興寺(妙興寺館)、その先には中野城がある。妙興寺(妙興寺館)は原氏の有力家臣、斎藤善七郎胤次が山林を寄進し、再興されたことを伝える史料が存在し、その周辺はやはり原氏の勢力下であったことが知られる。中野城は土気酒井氏が家運を興した城として有名だが、酒井氏はもともと原氏の食客であり、その客将として中野城に入ったということを伝える史書があることは気になるところである。東金には、東金道沿道というわけではないが、やはり原の一族、小西原氏がいた。
16世紀前半、小弓公方が岩富原氏を攻撃した際、使用したのがこのルートである可能性が大きいことも、平山城の性格を考えるうえで、無視できないだろう。
|
|