遺跡めぐり | |
2005年2月6日(日)
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平山城をあるく (1)平山城
― 千葉市緑区平山町 ―
平山は、支川都川(仁戸名川)の中流域の谷奥に位置します。15世紀後半、享徳の大乱の混乱の中、東常縁らの攻撃を受けた馬加系の千葉宗家が佐倉に移る前に居城平山城を置いたところとして知られているところです。2003年に立堀城・築地台貝塚付近を歩いていますが、今回はより谷奥部に位置する平山城を中心に歩いてみました。
遺跡めぐりのお知らせ (アクセス) ■空撮 平山城・長谷部貝塚周辺 ■宇宙からみる城郭群 −千葉市南部− ■地上画像−平山城 明見下より 1/25,000地形図:■千葉東部(南西) ■蘇我(北東) ■東金(北西) 北緯35度34分18秒,東経140度11分30秒 |
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▲「平山坂下」に集合 |
▲平山谷地・新山遺跡(古墳群・塚群)の下を進む 写真右の台地上「新山」(しんやま)には、古墳群・塚群があります。平山城の武士たちの墓域である可能性もあります。 |
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▲平山城・井戸跡(左) |
▲虎口か? |
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▲土塁に囲まれた一郭を通り、さらに土塁を抜ける。
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▲主郭へ |
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▲主郭 土塁で囲まれた一辺目測約60mほどの方形の空間が広がります。現在は大半が畑です。写真右は土塁。 |
▲土塁上から見る主郭
写真右上の影になったところ。見にくいですが、千葉氏が信仰した妙見社があり、現在も平山の人たちによりお祭りされています。妙見社の背後はかなり高い土塁があります。他の土塁にくらべ規模が大きいので、もともとのものか、若干疑問が残りますが、その背後は台地の北東縁になり、一郭をなしていたようです。「古屋敷」(ふるやしき)と呼ばれていたという情報があります。 |
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▲平山城主郭と妙見神社(右端) 下見のときに撮影した写真です。 |
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▲中世侍屋敷の風情を残す平山の家並み 平山城主郭をまもるように集落が形成されています。土塁で囲まれたお宅が多く見受けられます。平山城の家臣団の屋敷跡がそのまま現在に受け継がれている可能性が高いです。家並み自体が貴重な文化財といえましょう。また一定の高さの樹木が植えられており、通行する馬上の人物から宅地内が見えないような配慮かもしれないとの説明がありました。 |
▲「志久」(写真右) 集落の北側に、東と北を土塁(土手)に囲まれた1辺100m余の方形の区画があり、「志久」(しゅく)の地名が残ります。土気城、北生実城、多部田城など、中世の城下集落に「宿」という地名がしばしば見られますが、ここも平山城の城下集落に由来する地名である可能性が高いでしょう。ひょっとすると、職人たちが住んでいた場所かもしれませんね。 |
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▲延々と続く謎の土塁(土手) 志久を囲む土塁は、一直線に現東光院の北、東金道路付近まで一部切られながらも約1km続きます。江戸時代、長峯村(大宮)と争論となった入会地中峠(なかびょ)野の南側にあたることから、近世の野境土手である可能性がありますが、馬牧など平山城関連の遺構である可能性も否定できないでしょう。あるいは平山城の外郭・宿城を守る土塁であったものを近世に野境土手として再利用した可能性はどうでしょうか。 |
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yygucciさん、たかしpart3さんに写真を提供してもらいました。感謝!! |
千葉市の遺跡を歩く会
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