馬加康胤の史跡


大須賀山(堂ノ山)


 

   

 浜田川・下八坂橋より眺める。馬加字西ノ谷。道路は千葉街道。

「海辺に面して風景頗るよく大須賀山と称し上には杉樹雑木を生じ麓に大日堂あり。」

 遠景・大須賀山と旧幕張海岸(JR展望台!パノラマ)もどうぞ。

 

   

 江戸時代の関取、荒馬大五郎(1793-1849)の供養塔とその説明版(右)。大五郎は当地大須賀山の山裾、幕張一丁目に住んでいた鈴木家に生まれ、稲毛村川嶋丹五郎家の養子になった。あるとき大五郎が「田舎の細道で、一荷の肥樋を天秤棒の先に提げて差し出した」ところを巡業途中の江戸相撲荒馬源弥に見出され、スカウトされた。関脇となり、引退後は年寄、宮城野馬五郎と称し、相撲界に尽力したという。供養塔は門弟・村名主らにより1857年、供養のため建立された(以上 和田1984)。

 首塚への案内板。

   

左手を見ると大日堂跡。つい最近までここに大日堂があった。『幕張郷土誌』はあるご老人からの聞取りを記録している。もともとの大日堂の規模はかなり大きかったが、ある年暴風雨のため倒壊したため、その材料を使って無人の小さな仮の堂をたてたという。ところがそれも老朽化が激しく、平成13年3月、取り壊されたということである。大須賀山を別名「堂ノ山」ともいうが、大日堂に由来する。

 堂に置かれていた大日如来(千葉市文化財)は、快慶の流れをくむ鎌倉時代の作である。現在宝幢寺におかれている。写真、小さく見える祠はかぜひき地蔵。

   

 かぜひき地蔵の祠。「風邪をひいたときお祈りすると、風邪が治るのですよ」と、通りかかった地元の方が教えてくれた。『幕張郷土誌』によると、「地蔵」様は大日堂の住職の像だという説もあるそうだ。

   
暗い上り道をのぼると
   

 

大須賀山塚(「首塚」)

 高さ3〜4m、方形の大きな塚である。口伝によれば、馬加康胤(まくわりやすたね)の首塚である。

 1456年( 享徳5年/康正2年)8月、馬加康胤・原胤房の軍により千葉嫡流家は滅んだ。この報を受けた京都の将軍足利義政は康胤追討の御教書を発し、千葉一族で当時、美濃国郡上郡を本拠にしていた東常縁(とうのつねより)を下総に下らせた。東常縁は下総国のほかの千葉一族を含む上杉方=反馬加・反原勢力の力を得て馬加城を攻撃。康胤はたまらず馬加城から逃れたが、同年11月1日、上総八幡(市原市八幡)にいるところを急襲され(八幡合戦)、ついに村田川のほとりの林の中で自刃した。享年59歳(83歳)。

「康胤等今は遁れぬ所と取て返し奮戦の後遂に甲を脱乍立咽を貫きて死す、子胤持又父と共に討死す、康正二年丙子十一月朔なりき、康胤の首は村田川の岸に獄門に懸け後京都に送るといふ。」(『千葉県市原郡誌』)

 康胤の首は京都東寺四塚に晒されたともいうが、密かに家臣により盗み出され、この大須賀山に埋められたともいう。康胤の家臣らは、名字官名を捨て、郷侍あるいは百姓となり、付近の村々、海岸近くに移り住み、これを「馬加郷新間宿」と名づけた。1463年(寛正4年)、郷内に火の玉が飛ぶという奇怪な現象が起き、念仏堂を建立。1468年(応仁2年)、大須賀山で「屋形[馬加康胤]の家臣共討死せし人の霊祭供養」を執行したという(以上、「素加天王社」)。

 大須賀山は自然海岸林をよく残している点でも貴重な場所である。『幕張郷土誌』によれば、「海風の影響を受けてタブノ木が主力であるが、ほかにスダジイ・ツバキ・ヤブニッケイ・ヒサカキ・トベラなどをまじえて西から東へかけて林相が帯状に変化していく様子がみられる」。ときどき某大学の研究者や学生が観察しにくるのだそうだ。

 

市原市八幡の馬加康胤

市原市八幡雁田川・胴埋塚(どうまいづか)

 馬加康胤の胴を埋葬した胴塚跡は前方つきあたり付近。康胤が戦死したのはこのあたりであろう。「観音町の北方海岸に近き所里俗胴埋塚と云ふ塚あり、今古松淋しげに立てリ、伝えていふ、千葉康胤の死骸をここに埋めたるなりと。」(『千葉県市原郡誌』)

馬加康胤・胤持父子の墓(上総八幡無量寺)

 胤持は康胤の嫡男。父康胤の戦死の翌年、亡くなったともいうが、一説によれば、父とともに八幡の地で討たれた。京都に首が運ばれたのは胤持の方だともいう。この墓は現在も近所の方がお祭りしているとのこと。「私も千葉一族です」と声をかけてきた方が教えてくれた。

  

  

●大須賀山塚は首塚か?

慰霊の意味をもつ塚として扱われたにせよ、大須賀山塚が首塚であることには疑問がないわけではない。本文のように、公表されているものでもっとも古い素加天王社関係の文書では「首塚」とは書いておらず、まして「馬加康胤の首塚」などと書いていないのである。もっとも首塚である方向への傍証がないわけではないのだが、別の機会に記したい。なおのちに首塚として利用されることと両立しうるが、もともとは大須賀砦の物見ないし櫓台であった可能性があるのではないか。

●東寺四塚

よつつか。京都市南区。東寺羅生門付近。RUN2さんの平安京探偵団によると、鳥部野や蓮台野とならぶ平安京の葬送の地。「中世以降さらし首の場所として、また共同墓地としての役割を持ってい」たそうである(源為義の墓のページ)。

●東常縁(肖像画→岐阜県大和町のホームページ東常縁一覧 )

 とうのつねより。美濃国郡上郡を本拠とする武将だが、古今伝授の祖、歌人として著名。その名はほとんどの高校の日本史の教科書に載っており、千葉一族の中では千葉常胤を超える有名人といってよいだろう。奪われた城を和歌を詠んで返してもらった逸話でも有名。常縁は康胤与党の残敵を討伐するため13年間下総にとどまり本拠の美濃を留守にしていたが、そのときのことである。(→鎌倉大草子40

 東(とう)氏は千葉常胤の六男胤頼を始祖とする一族である。始祖胤頼は平氏政権下、京都に出仕していたが、反平家の拠点である上西門院に出仕しており、中央の政治情勢にも通じていたと思われる。頼朝挙兵に際しては真っ先に頼朝側につくよう父常胤に勧めたという。常胤の兄弟の中でも大功があったとして、下総国東庄(とうのしょう、千葉県東庄町)を常胤から譲られ「東」の名字を称した。2代重胤は承久の乱で功をあげ、美濃国郡上郡を与えられた。胤頼以来、東氏は京都との関係が深く、代々藤原定家に発する二条流の歌学の一門となり、和歌の名手を出していた。始祖胤頼は引退後京都で法然の弟子となっている。詳しくは「千葉氏の一族」の「東氏の当主3」参照のこと。なお千葉市中央区の綿打池付近に東氏の館があったと推定する見解がある。

 大須賀山塚の頂上にある五輪塔。1637年(一説1633年)建立された。高さ約3m。安山岩製。


「伝へて云ふ、千葉康胤八幡に戦死せし後其の族及士卒の屍を此にうづめ応仁二年七月十六日始めて供養塔を建てたりと。又山頂樹林に古墓あり上に梵字を刻し下に「寛永十四年丑天二月十一日建立朝雅宥光得二親」と刻せり。」(『千葉県千葉郡誌』)

 五輪塔の地輪の部分。「朝雅宥光」らが誰か、不明である。綿貫啓一1990は僧「宥得」が「二親」である「朝雅宥光」の供養のために造立したものという見方を提起している。

霊気に包まれた聖域である。

無視したり隠蔽してはならないが、

静かに守りたいものである。

 

武石・幕張をあるく(3)−馬加康胤の史跡−

遠景・大須賀山と旧幕張海岸(JR展望台 パノラマ!)

武石・幕張年表   

主要参考文献 −検見川・幕張・武石の歴史

幕張メッセのそのむかし――1:25,000地形図「千葉西部」―― OLD MAP ROOMのページ。大須賀山付近の旧地形の様子がわかります。


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