追悼 武田宗久先生

 

 
  去る3月3日朝、千葉市文化財保護審議会長、武田宗久先生が逝去されました。享年87歳でした。

 先生は、戦前の困難な時代より、矢作貝塚、向台貝塚など縄文貝塚を中心に発掘研究を続けられ、千葉市の考古学の基礎を築かれました。また狂乱的な開発の時代にあっては、研究教育活動にくわえ、千葉市の埋蔵文化財の保存に尽力されました。なかでも広く市民を導き、加曽利貝塚の保存を実現させたことは、縄文海進のご研究とともに、最大の功績のひとつでしょう。

 拙いページですが、できるだけ多くの市民とともに、先生の終生の労苦に感謝し、その生涯を胸に刻んでおきたく、ここに掲載する次第です。

2001年3月6日

 

  縄文時代中期・後期の環状貝塚、矢作貝塚(千葉市中央区矢作町、給水塔周辺)。写真ではわからないが、給水塔の敷地内の地面は今も貝殻だらけである。隣接する千葉大学病院の敷地をふくむ広い範囲で縄文土器片の散布が見られる。

 1937年、先生はこの貝塚を発掘調査し、その成果を専門誌に報告した(「下総国矢作貝塚発掘調査報告」『考古学』9巻8号、1938年)。おそらくこれが先生の学界デビューであろう。考古学者、武田宗久の誕生である。なおその20年後、1957年、先生は、給水塔建設のための事前調査にもあたっておられる。

 1937年の調査は、小児を埋葬した甕棺、7体の合葬人骨を発見するなどの成果をあげ、たいへん注目された。しかしこのことは「事件」を引き起こすことになった。矢作貝塚が県の史跡に指定され、先生が発掘した人骨は再び埋め戻させられたのである。そのうえで、いったんなされた史跡の指定が解除され、東京帝国大学医学部が再び発掘しなおす、ということが行われた。千葉医大(当時)からの横やりであったという。

 写真左は、給水塔の敷地からこぼれでそうな貝殻。右は道端に落ちていた縄文土器片。

 長年、勤められた千葉県立千葉高校(千葉市中央区葛城町)。武田先生は、敗戦直後の1946年、この高校(当時、千葉中学)に赴任した。多忙な教職の傍ら、研究活動を続けるとともに、郷土史研究部の顧問をされ、優れた後進を育てた。現在、考古学、文化行政の第一線で活躍している考古学徒で、先生の孫弟子、ひ孫弟子にあたる人は多い。とくに千葉市の考古学に関わる者で先生から直接間接に学恩をうけていない者はいない、といって過言ではない。

 ちなみに先生のニックネームは「殿様」である。そのお名前から察せられるように、先生は中世房総に武威をはった名門、長南武田氏の末裔であった。むしろ控えめなほどだが、節を曲げず、守るべきを守る、というご性格が先生の出身に関係あったかどうか。

 都小学校(千葉市中央区都町)。縄文早期・前期の向ノ台貝塚(写真、台地上、建物付近)がある。武田先生は、1946年、千葉中学(当時)赴任早々、この遺跡を発掘調査された。このとき、発見したのは、当時日本最古の屈葬人骨と梯子形住居地であった。

 現在、校庭には盛土が施されているが、ハイガイの貝殻がいくつも落ちている個所がある。ハイガイは、東京湾東岸ではほぼ縄文時代早期・前期にしか棲息したことのない暖海性の貝である。

  月ノ木貝塚(千葉市中央区仁戸名町)。1951年、直接には『千葉市誌』編纂のために、先生が全体を測量し、一部試掘された。発掘地点は、写真、わずかにみえる鉄塔の東(右)のあたりである。ごく一部の範囲だったにもかかわらず、縄文中期加曽利E式期の住居址4戸を確認したほか、クジラの脊椎骨、タカラガイ製装身具などを検出し、注目すべき成果をあげた。このときの成果もあって、月ノ木貝塚は、その後、国の史跡に指定され保存された。なおこの貝塚で本格的な発掘調査がなされたのは、今日に至るまでに、このときの先生の発掘だけである。
 1951年と1965年、先生は蕨立貝塚を発掘調査された。このうち1965年の発掘は、ニュータウン(現在の千城台の住宅街)建設のための事前調査であった。発掘は事実上ごく一部の範囲しか許されず、結局、広大な範囲の貴重な遺跡が保存はおろか調査もなされず消え去った。当時の先生の心中察するに余りある。しかしこれは嵐のはじまりでしかなかった。この嵐は基本的に今も続いている・・・

 写真は、住宅街の中、樹木の陰に隠すように置かれた蕨立貝塚の碑。

 左の写真は都川支流、坂月川。左の台地には加曽利北貝塚。右側はるか先の台地に滑橋貝塚が展開する。大量の貝などを運ぶため、縄文人たちはこの川をとおって海に行き来し、漁をしていたと考えられるが、どの時代にどの辺に海岸線があったのだろうか?縄文前期をピークに、おそらく地球温暖化によって、海面が上昇し海が内陸に入りこんだらしいことがわかっている。貝塚、ひいては縄文社会の成立と発展、消滅を解明するうえで、この縄文海進は根本的な重要問題である。

 武田先生の学問的関心は、縄文時代、貝塚に向けられ、とくにこの縄文海進の問題において、すぐれた業績をあげられた。

 市民の憩いの場となっている加曽利貝塚公園。

 開発の嵐が吹き荒れはじめた1963年、加曽利貝塚が工場の敷地となった。加曽利貝塚だけは何としても、との思いだったのだろう。武田先生は、広範な市民の運動を導き、関係者それぞれの尽力をよくまとめて、保存を実現した。10年以上におよぶ運動の末、北貝塚は1971年、南貝塚は1977年、国の史跡に指定されたのである。武田宗久先生がいなければ、加曽利貝塚は今、存在しなかったであろう。加曽利貝塚の保存こそ、後世に語り継がれるべき先生最大の功績のひとつである。そしてわたしたち市民の誇りでもある。

 現在、加曽利貝塚の保存範囲をさらに広げ、ひろく坂月川周辺を「縄文の森」として保存整備する事業が千葉市によりすすめられている。将来の世代に貴重な文化財を伝えるという、先生の志の一端が花開こうとしている。

 

 武田先生、ありがとうございました。

 どうか安らかにお眠りください

(写真は荒屋敷北貝塚の梅)

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