千学集抄--仁戸名関係抜粋

仁戸名に本拠をおいた武将、牛尾兵部少輔が1550年、自分の子息の修行する千葉寺愛染堂に寄贈した逸品。

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●東京国立博物館該当ページ

国指定重要文化財(東京国立博物館蔵)

銅梅竹透釣燈籠(どううめたけすかしつりとうう)

1452年創建。曹洞宗。へたの台砦(仁戸名館)の東南方向約300mの低地、仁戸名字「郷」に位置し、付近に東金道が通る。武蔵型板碑(永和5年,1379年)、宝篋印塔木造釈迦如来像(千葉市指定文化財、14世紀)が残されている。寺門は月星という。千葉氏との関係は濃厚である。千学集に登場する仁戸名牛尾氏との関わりも推測される。ほかに十九夜塔(寛政3年)、庚申塔がある。
仁守寺(じんしゅじ)

・千学集は、北斗山金剛授寺(妙見宮、千葉神社の別当)の記録である。戦国時代末期、天正年代に成立したと推定されるが、「千学集抄」または「千学集抜粋」と呼ばれる抄録のみ伝わる。

・『改訂 房総叢書 第二輯 史伝 (一)(二)』昭和34年 改訂房総叢書刊公会によった。

・表記の便宜上、原則として、旧字体を新字体にあらためざるをえなかった。

・*として注釈を加えた。

・千葉氏、原氏の系図等については柴田さんのHP「千葉氏の一族」を参照されたい。

 仁戸名の長の岡田善阿彌と申す者の妹聟に、胤善* 善阿彌方へ遊山に御出ありし時、我が一人の子に契約をばなされけり。此の子七八歳ばかりの時、屋形様の命により、新左衛門殿* 討たれにけり。善阿彌は叔父なれば、彼の若子をむさの牛尾なる福満寺に具して頼み置きぬ。四五十年の後、胤房**より「新左衛門こと、子はなきや」と、御尋ね有り。善阿彌急ぎ福満寺に人を走らせ、胤房に斯くと申上げれば、即ち召し出し給ふ。「老成者なりし」とて、我が妹聟なりける近江浪人の西郡源三郎殿を差し添え申せし也。この時、胤房、「我が名字にてはいかゞと思し召されけん。牛尾を冒させ、彦七郎殿と申せし也。此の時、検断役を渡され給ふ。今の西郡、これなり。牛尾美濃入道***と申すは、彦七郎殿の事なり。善阿彌姓の子にて在りしき。牛尾の姓二筋在りて口伝なりとぞ。

*原新左衛門胤善。次の千学集の記載によれば、原孫二郎胤親貞岳の末子。

**原越後守胤房(1389-1471)。千葉氏の重臣。原孫二郎胤親貞岳の次男。長男が早死にしたので、原家の家督をついだ。古河公方足利成氏と関東管領上杉氏との対立の中、胤房は古河公方と結んだが、主人である千葉胤直・宣胤父子は、関東管領上杉氏を支持していた。胤房は、1455年(享徳3年)3月、千葉城(館)を攻撃。同年(康正元年)9月、胤直の叔父、馬加康胤をさそって、逃げた胤直・宣胤父子を多古・志摩に滅ぼした。胤房は、1471年(文明3年)9月、小弓城にて討死(1479年逝去説もある)。なお千葉宗家は、以後、馬加康胤の子の系統が継承した。

***牛尾美濃守胤資。原新左衛門胤善と岡田善阿彌の妹との間の子。千葉牛尾(仁戸名牛尾)氏の始祖。仁戸名に本拠をおいたと考えられる。丸井敬司氏(千葉市立郷土博物)によれば、仁戸名館(現、仁戸名小学校=へたの台砦)が千葉牛尾氏の居館であった、と伝わる、というが、詳細は不明である。

一、良文五世千葉介常長、・・・四男頼常原四郎の後十一世胤惟、女子一人、千葉廿六世氏胤四男胤高原孫次郎光岳、胤親原孫二郎貞岳、貞岳の末子胤善原新左衛門尉、胤資牛尾美濃守入道、胤廣尾張の守、胤家隼人佐、胤重左衛門弟右衛門尉、弟竹二郎殿小金城*にて皆討死。胤清彌五郎、胤直彌五郎左近大夫、胤仲右近大夫。

一、牛尾美濃入道の子五人、第一尾張守、第二五郎右衛門、第三仁戸名三郎左衛門、第四女子、小金高城和泉室、第五女子、府中石塚室、以上五人。五郎右衛門の子五郎右衛門、その子源七郎左京亮沼田にて討死。牛尾半七郎公津にて討死。弟牛尾出羽守同左京亮出羽、仁戸名三郎左衛門、その子仁戸名牛尾大和守、弟牛尾主計、その子牛尾右近。

*松戸市所在大谷口小金城か?同城は比高約15mの台地に築かれた大規模な城(南北600m,東西500m)。16世紀前半に築城されたと伝わるが、1962年発掘調査の結果、それよりも以前から機能していたことがわかっている。


一、仁戸名牛尾三郎左衛門は、神領辺田* の百姓三郎五郎といへる者を「わが被官切れば」と、辺田に押し込み討ちける所、覚実**の仰せには、「被官たりとも、神領へ押し込み討は、在所の沙汰叶ふまじ」とて、御輿を御門まで出されける。牛尾美濃守殿大庭まで参られ、さまざまに申されし後、三郎左衛門は山林して落ちつきぬ。

*現、千葉市中央区都町  

**北斗山金剛授寺の第11代め座主。千葉胤直の甥。


一、仁戸名三郎左衛門の子牛尾兵部少輔は、仁戸名さくの内*といへる九貫五百の神領を押領せられし時、範覺**御鉾を立てられしに、小弓***へ御馬を出され、御取りなしなされし兵部少輔の子、うなや(追注)の御弟子にて、稚子にて在りせしを、範覺の御弟子に上げられるべき約束にて落付きぬ。此の程の千葉寺の山本坊也****。斯る事のありし故か、仁戸名の苗字も絶えにき。

*所在地不明。作山(さくやま)という小字名が残っているが関係あるかどうか?

**範覺(1499?-1543.1.25佐倉城内で没)。北斗山金剛授寺の第12代め座主。原越後守胤隆三男。なお北斗山金剛授寺の住持は、代々、千葉宗家の子息が継承してきたが、範覺は、千葉宗家を実力で上まわる原家からその地位についた。

**小弓 千葉市中央区南生実。原氏の拠点。上総武田氏により1517年(永正14年)10月落城。足利義明に奪われたが、1538年(天文7年)10月、第一次国府台合戦で義明が戦死したのち、原氏が再び奪回した。

****1910年、青銅製の釣灯籠が千葉寺村の竹藪の中から発見された。「下総国千葉之庄、池田之郷千葉寺、愛染堂之灯爐、太旦主牛尾兵部少輔、天文十九年戊庚七月廿八日」と銘があり、千学集の記載とあわせて、牛尾兵部少輔が1550年(天文十九年)、子息が修行する千葉寺愛染堂の堂前に奉納したもの考えらている。美術的にも傑作であり、国の重要文化財に指定され、現在、東京国立博物館に保管されている。

(追注) 宇那谷にかつてあった大聖寺のことであろうか。大聖寺は弘法大師の外甥・智証大師の開基という寺伝をもち、末寺64という大寺院である。なお大聖寺は、その付近一帯が昭和初期に陸軍演習場用地に含まれたため付近住民とともに千葉市若葉区若松町に移転した(yygucciさんの貝塚第三町内会のページ参照)。

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